昭和20年代、私がまだ小学生のころである。母と買いものに行くといえば、錦帯橋近くの銀座街、それとも反対方向にある今津町の商店街のどちらかであった。
今津町で買いものした時のお昼時、たった1軒しかない町の食堂で食べて帰ることがあった。当時のわが家では滅多にない外食であった。
私が子供のころからあるその食堂が、今も同じ所、同じ建物でやっていることを幼なじみから聞いていた。
今日、うちの奥様は「お昼はお願いしま~す」と、明るい大きな声で言いながら、お出かけになった。
至福だと思っていたひとりの時間も、毎度ともなると、つぶすのに何か工夫がいる。車の任意保険の継続手続きに行く用事を思い出した。
しばらく動かしていない、直したばかりのミニバイクにまたがり出かけた。途中ヘルメットの下から、12時のサイレンが吹きあげてきた。
「今日は、外食だ」方針はきまった。思い出の食堂に向け、ハンドルを切った。今津町の小さな路地に入り、「山綱食堂」と書いた看板の前でとまった。
50数年ぶりに暖簾をくぐって入った。店の様子は何も覚えてはいない。5卓の古いテーブルと、黒光りした5人がけのカウンターがある。先客が4人いた。
ラーメン・うどん・丼のメニューが壁に貼ってある。ガラスケースの中には、いなりと一品料理が並べてある。よくある大衆食堂の風景だ。
450円のラーメンを頼んだ。塩味のすっきりしたおいしいラーメンだと評価した。町のこんな片隅の食堂にいても、知り合いの夫婦と出会った。
食べ終った時に言葉をかわし、ひと笑いして外に出たとき、勘定を払っていないことに気が付いた。あわてて引き返し支払いを済ませる。
外に出たとき、「忘れ物ですよ~」と中から声がする。今度は私の命、デジカメを置き忘れていた。
ひとつのことをすると、もうひとつのことを忘れる。いけないことだ。これを書いている今、「今日の昼飯は、どこで何を食ったんだっけ?」のありさま。
「歴史ある、山綱食堂のラーメンですよ」。もうひとりの、しっかりした私がそっと教えてくれた。
「3丁目の夕日」を彷彿とさせるレトロな客の行くレトロな食堂が、どっこいこんなところにまだあった。
(写真は、昔ながらの製麺所兼業の「山綱食堂」)
今津町で買いものした時のお昼時、たった1軒しかない町の食堂で食べて帰ることがあった。当時のわが家では滅多にない外食であった。
私が子供のころからあるその食堂が、今も同じ所、同じ建物でやっていることを幼なじみから聞いていた。
今日、うちの奥様は「お昼はお願いしま~す」と、明るい大きな声で言いながら、お出かけになった。
至福だと思っていたひとりの時間も、毎度ともなると、つぶすのに何か工夫がいる。車の任意保険の継続手続きに行く用事を思い出した。
しばらく動かしていない、直したばかりのミニバイクにまたがり出かけた。途中ヘルメットの下から、12時のサイレンが吹きあげてきた。
「今日は、外食だ」方針はきまった。思い出の食堂に向け、ハンドルを切った。今津町の小さな路地に入り、「山綱食堂」と書いた看板の前でとまった。
50数年ぶりに暖簾をくぐって入った。店の様子は何も覚えてはいない。5卓の古いテーブルと、黒光りした5人がけのカウンターがある。先客が4人いた。
ラーメン・うどん・丼のメニューが壁に貼ってある。ガラスケースの中には、いなりと一品料理が並べてある。よくある大衆食堂の風景だ。
450円のラーメンを頼んだ。塩味のすっきりしたおいしいラーメンだと評価した。町のこんな片隅の食堂にいても、知り合いの夫婦と出会った。
食べ終った時に言葉をかわし、ひと笑いして外に出たとき、勘定を払っていないことに気が付いた。あわてて引き返し支払いを済ませる。
外に出たとき、「忘れ物ですよ~」と中から声がする。今度は私の命、デジカメを置き忘れていた。
ひとつのことをすると、もうひとつのことを忘れる。いけないことだ。これを書いている今、「今日の昼飯は、どこで何を食ったんだっけ?」のありさま。
「歴史ある、山綱食堂のラーメンですよ」。もうひとりの、しっかりした私がそっと教えてくれた。
「3丁目の夕日」を彷彿とさせるレトロな客の行くレトロな食堂が、どっこいこんなところにまだあった。
(写真は、昔ながらの製麺所兼業の「山綱食堂」)