自然日誌 たかつき

自然についての問わず語りです。

モンゴル11 羊の解体と子供

2018年08月20日 | 博物館
ヒツジの解体をしているあいだ、小学1年生の男の子がよってきて、解体されるのを見ていた。特に驚くでもなく、怖そうでもなく、かといって喜んでいるわけでもなさそうだった。
 魚の処理なら見慣れている私たちは、哺乳類の解体というと特別なことだと思う。私は仕事柄たくさんのシカの解体をしたが、その時はかなりの緊張感があり、終わるとドッと疲れが出る。命に大小はないと言っても、ネズミとシカではインパクトが全く違う。大きい動物には大きい命があるように感じる。これは理屈ではなく直感的なことだ。そして、ネズミとカブトムシではさらに違う。昆虫は外骨格だから、死んでも変形しない。だから死んだからさまがわりということはあまりない。だが小さくてもネズミは哺乳類だから、解剖するときにはやはり、一種の緊張があり、学生の実習などでも学生は通常とは違う心理状態になる。
 それはごく自然のことだと思うが、モンゴルにおいてはどうやらヒツジの解体はさほど特別なことではないらしい。思えばここで生きるということはこうしてヒツジを時々処理することで成り立っているのだから、ごく日常的なことであるに違いない。ヒツジの処理は日本人の魚の処理とさほど違いはないのではないか。モンゴル人はそれを子供の時から眺めて大きくなる。
 この子の心の中のことはわからない。でも、日常的にヒツジやヤギをみて、しばしば一緒に遊んだりしているはずだ。母羊が子羊にミルクを飲ませるのも、草を食べて、糞をすることも、メエメエ言ってときには喧嘩することも見ている。そういうヒツジが殺されて、処理されるのだから、心に何も生まれないということはあり得ないだろう。あるいはかわいそうだとか、悲しいと思うかもしれない。もう少しものを考えるようになれば、自分たちが生きるためには仕方のないことだと納得するかもしれない。大人がそういう会話をするのを聞いて、そのように思うようになるのかもしれない。
 いずれにしても、この子は何度となくこういう光景を見ているはずだ。そして命とは何か、生きるとはどういうことかを、はっきりとした形ではないにせよ思うのだと思う。日本のマンションで育つ子供にはそういう体験はありえない。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« モンゴル10 ヒツジ解体 | トップ | モンゴル12 料理 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

博物館」カテゴリの最新記事