リュート奏者ナカガワの「その手はくわなの・・・」

続「スイス音楽留学記バーゼルの風」

私のファミリー・ツリー

2017年04月01日 00時01分30秒 | ウソ系
私の名前の「祥」の字は祖父重太郎の父親、祥左衛門から取ったのだと小さいときから聞かされてきた。祥左衛門はとても頭がよく体も丈夫であったとのことだが、ウチは大した家柄でもないので写真や家系図もなく、どういう人物であったのかはよくわからない。祖父重太郎は三重県鈴鹿市の白子(しろこ)地区から桑名に来たので、おそらく白子に住んでいた人ではあろう。

私は大学に入った頃、中学生と高校生の家庭教師をしていたが、二人の生徒の叔父にあたる人から気になることを聞いたことを覚えている。その二人の生徒を彼らの叔父の家で教えていたのだが、家が飲食店を経営していて、より静かな環境の叔父宅で教えてもらうことになったようだ。下の生徒が無事高校に合格し、あいさつに伺った帰りしな、どういう話の流れで出てきたのかは覚えていないが、私の家族の出自について歳をとったらわかることがある、というようなことを聞いたのだ。その人は私の父親と昵懇で、私の家族のことをいろいろ聞いていたのかもしれない。それはそのときはどういう意味かよくわからなかったが、心の片隅にいつもひっかかっていた。

私は散歩するとき、その人の家の前をよく通るのだが、いつもはわざわざ訪ねて挨拶をするでもなくただ懐かしい思いに浸りながら通り過ぎるだけだった。ある時ふと思いついて訪ねてみた。もうあれから40数年経っていたが、その方はご健在でもう90歳を超える歳になっていた。向こうも最初は私が誰だか分らなかった様子だったが、話をするとすぐに思い出してくれた。私の家族のことや、家庭教師をしていたその方の甥っ子たちの話題で小一時間も話しただろうか、私は思い切ってあのとき聞いたことをその方に尋ねてみた。

最初は何のことか思い出せない様子だったが、次第に記憶が蘇ってきたようだった。その話は私の祖父重太郎から直接聞いたとのことで、とても興味深い内容であった。

「あんたのじいさんやおやっさんはあんたに言わんとあっち行ってしもたんやなぁ。ひょっとして知っとんのはもうワシだけなんかもしれん。・・・あんたのおじいさんのおじいさんは普通の人と違うんやで」
「え?それはどういうことですか?」
「正確な名前は忘れてしもたけど、あんたのおじいさんの話ではえらい身分の高い人やということや」

私の家はかつての武家でも大きな商家や農家でもないので、祖父の代より前のご先祖についてはよくわからない。しかし大した家柄でもないのに、桑名市内にある古刹、小福伝寺の檀家で高野山に納骨するのはなぜなのかはいつも疑問に思っていた。鈴鹿から「流れて」来たわけだから、近所の小さな寺の檀家であって当然なのだ。このことは、私の高祖父が身分の高い人であったということと関係があるのか。そもそもそのように重要なことをどうして私の祖父や親は私に伝えなかったのか。

私は祖父の出身地である鈴鹿市白子地区の神代館神社を訪ねてみることにした。この神社は鈴鹿市内ではもっとも格式が高いとされており、戦国時代には当時の武将が戦いに赴く際に願をかけたことで知られる。そのとき馬をつないだ松が現存しており、「駒繋ぎの松」として鈴鹿市の名所旧跡に指定されている。この神社の禰宜に話を聞けば何かわかるかも知れないと思ったのだ。訪れたのは7月の末、暑さの盛りの時期だった。神社の近くでは地区の夏祭りの鐘太鼓の音が賑やかだった。話を伺った禰宜は高齢で夏の暑さもあり喋るのも大儀そうだったが、当神社に伝わる話として次のようなことを話してくれた。

明治の初め頃、神代館神社の巫女でお菊という女性がいた。大層美しい女性で筝と琵琶の腕前も見事であったと伝えられている。明治8年に伊勢神宮の祭主に就任した久邇宮朝彦親王(今上天皇の曾祖父にあたる)が白子の神代館神社に巫女の候補を要請してきたので、当時の禰宜がお菊を推薦した。朝彦親王はお菊の美貌と才能に惚れ込み、お菊は伊勢神宮の巫女として仕えることになった。神宮に任官して1年程経った頃、お菊は男子を身ごもってしまった。お菊は巫女として勤めることができなくなり、その子の父親である朝彦親王はお菊の子に苗字、名前そして幾ばくかの支度金と楽器を与えて親子を白子に返した。その子は、姓は中川、名を祥左衛門と名乗った。中川という姓を与えられたのは、朝彦親王は当時中川の宮と呼ばれていたからだという。祥左衛門の息子が重太郎で彼は若いころ白子から桑名に移ったとのことだ。

にわかには信じられない内容なので、私はウィキペディアで「中川の宮」を調べてみた。さすがに祥左衛門の話は出ていなかったが、朝彦親王の生前の写真を見て驚いた。私の祖父重太郎とそっくりなのだ。ウィキには独自研究ながら、親王が大変な精力家で巫女を孕ませることもあったという記述もある。もしこの話が事実であるなら、私は天皇家と血縁関係にあることになる。もちろんそうであったとしても公式の話ではないので実際には何の意味もないことではあるが。しかし一つ疑問が残る。それは私の父親や祖父がどうしてそれを私に伝えなかったということだ。私の母親は存命であるが、そのことについては伝えられていないようで、その話をすると一笑に付してしまった。お菊のその後の人生はどのようなものであったのか。神代館神社にはその話は伝わっておらず、知っていたかもしれないお菊の孫やひ孫(私の祖父と父親)はもうこの世におらず、真実は永遠の闇の中に消え去ってしまった。