リュート奏者ナカガワの「その手はくわなの・・・」

続「スイス音楽留学記バーゼルの風」

渡欧 (7)

2005年07月15日 00時04分32秒 | 随想
 飛行機はモスクワ経由でパリまで飛び、そこからは陸路でスイスに入ることになっていた。76年の渡欧とは比較にならないくらい短い時間でパリに到着した。パリのドゴール空港には今村氏が迎えに来てくれており、駅前で簡単な食事をしたあと、3人でスイスに向かう夜行寝台車に乗り込んだ。Kさんはヴィンタートゥアまで向かうので私と今村氏とはバーゼルで別れを告げた。バーゼルのフランス駅を出た私たちは、今の駅前にあるチョコレート屋さんの前あたりでシトロエンのタクシーを拾って今村氏の下宿のあるライメン通りまで向かった。
 その前の渡欧と異なり、スコラが学期中であったため、今村氏に連れられていくつかの授業に参加したり、小さなコンサートを聴くことができた。スコラに行くとレコードや雑誌などで名前しか見たことがなかった有名な演奏家や音楽学者が目の前を歩いていくのを見て、私は少々興奮気味だった。今村氏の紹介でホプキンソン・スミス氏とオイゲン・ドンボア氏のレッスンを受けることができた。当時ドンボア氏はヴァルター・ゲルヴィヒを継ぐリュート界の騎手、ホプキンソン・スミスは新進気鋭のホープだった。スミス氏には持っていったルネサンス・リュートでダウランドのファンシーを見てもらった。少し驚いたことに氏はその曲を知らなかったようだ。21世紀に入って、氏が新たにイギリスのレパートリーに取り組んだ際、その曲が入っていたが、そのときのレッスンのことを覚えてくれていたのだろうか。ドンボア氏には、今村氏にドイツ・テオルボを借りてヴァイスの不実な女を見てもらった。氏のレッスンは当時のスミス氏とは異なり、学生を励まし包み込むようなレッスンだった。実はその当時氏はすでに右手が腱鞘炎に冒され、リュートを弾くことが出来なかった。敢えてリュートを弾いて見せたその右手は、痛々しくもかつてのように雄弁な音楽を語ることはなかった。氏は最後に、「今日は久々にいい音楽に触れることが出来た」といって私の演奏を褒めてくれた。そのことばは私に音楽を続けていく力を大いに与えてくれた。79年の渡欧は短かったが、いろんな面で大変充実していた。私はこのままバーゼルにいて帰国するのをやめてしまおうと真剣に考えたりもした。もしそれを実行していたら、私の運命も相当変わっていたに違いないが、結局ごく真っ当に帰国する道を選び、2003年9月に至るまでバーゼルを訪れることはなかった。

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