みどりの野原

野原の便り

1月2日 新年ウォークは「御所まち」へ。 

2020年01月02日 | Weblog

我が家での恒例となっている新年ウォーク
今年は御所まちを歩くことになった。5人と1匹

去年10月31日史跡巡りの会で行ってこの町が気に入った。
息子や娘も絶対好きなはず、もう1回一緒にゆっくり回りたいと思っていたのだった。


  近鉄御所駅南の踏切から。 
今は御所駅で終点になっているが、ここから五条を通って橋本方面へ線路を伸ばす計画があったのだとか(息子)

御所は江戸時代から伊勢街道・高野街道などが通る交通の要衝として、また、大和絣や、菜種油・醸造・薬種・旅籠などで大変栄えた。

「御所まち」は、商業を中心に栄えた西御所と、葛城川を挟んで、お寺を中心に町が作られた東御所に分かれているが、関ヶ原の戦いの後、陣屋を置いた桑山氏によって整備され、御所まちの街並みの基盤が作られた。
その江戸時代の街並みが今もほぼ当時のまま残っている。

西御所町
近鉄御所駅から商店街を抜けると、環濠に囲まれた「西御所まち」に入る。
西御所まちは江戸時代に形成された陣屋町で、商業を中心に栄えた。

 
    環濠       行者街道の石碑 街道の交差点だ。


高札場 大事な決まりは高札によって住民に知らされる。平成20年に復元 
御所まちの木戸跡にあたるらしい。
町中を見渡せないように道を少し曲げてある(遠見遮断)

 
    西御所まちの街並み  衝波除け まっすぐ進んできた邪気をここで受け止める。
沖縄の石敢當と同じようなもの。「文政元年より60年間ここに営む うおのたな表具屋跡」と刻まれている。

 
食い違いになっている所。左の建物は元タバコ屋だったらしい。
板で塞がれた窓の下にふっくらとしたタイルが貼られている。上の小窓のデザインも可愛い。
建築・タイルマニアの娘の好きそうな・・


平入の町屋がほとんどの中、珍しい妻入りの町屋。
なぜここだけが妻入りなのか? 次の機会に答えが知りたい。

 
      元郵便局      三角屋根の上に〒(郵便マーク)があった。
みんなであっちからこっちから建物を見ている時、声をかけてこられた男性がおられた。
その方は中井家住宅の若いご主人で、たまたま私たちを見つけてくださり、中へ入れてくださるという。

私は去年の史跡巡りで案内していただいたことがあるのだが、団体で時間を決めて交代で説明を聞いたので、もうちょっとしっかり聞きたいと心を残していたので、お声掛けはありがたかった。

 
中井家住宅は江戸時代に庄屋を務めた商家。歴史的建造物として座敷棟・土蔵(左の写真の左端)と共に国の登録有形文化財として登録されている。
黒漆喰壁の中二階 1階の表には格子がはまっているが、昔は深い軒下は道路に続く通路として使われていたそうだ。
その代わり、軒下は免税になっていたとか。明治以降は免税制度も廃止になった。初めて聞く。

 
中に入ると、正面に高札が2枚架かっていた。懐中電灯で照らしてくださる。
「徒党札」「火付札」「これは実物です。なぜここに残ったのかはわかりません」
高札の板の部分は長年の風化で痩せて凹み、墨書き部分だけが浮き出て見える。
最後には「奉行」と書かれていた。そしてその斜め下には四角く彫られた部分があった。
奉行の名が変わった時、書き換えられるように。これも初めて聞いた。

 
寛保2(1742)年の検地(江戸時代最終の検地)の御所まちの絵地図
葛城川を挟む西御所まちと東御所まちが描かれている。 
これはコピーだが、だいぶ風格が出てきている。
中井家は絵地図の原本、その他、江戸時代の公文書をたくさん所蔵しておられるそうだ。
絵地図には、通りの名・道幅(町幅と書かれている)・持ち主・面積・番号などが細かく記されている。
白い筋は「背割り下水」
今の街並みはこの検地地図の街並みとほぼ同じというのは驚きだ。

お伊勢参りの旅人もこの街を通った。
個人で来た「おかげ参り」の人を泊めた御蔵屋敷。ここに宿泊した記録も見せていただいた。
墨で一人一人の名が書かれている。(達筆すぎて読めない)
おかげ参りは人々の楽しみであった。「一生に一度はお伊勢さま」の言葉もある。
「抜け参り」といって、黙って出かける人もいたようだが、おかげ参りをすることは善行なので、帰ってきた後、咎めてはいけないことになっていたとか。
また、おかげ参りの人たちに施しをするのもまた神徳を高めると考えられ、できる限りの協力をしたようだ。
旅人が持つ「ひしゃく」がおかげ参りの目印になったそうだ。

旅人を泊めた御蔵屋敷への寄進の控えも残る。
見せてもらった帳簿には、何を どれだけ 誰が 寄進したかをこれも墨書きしてある。

それらの控えを中井家のご主人がまとめて集計しておられるのには頭が下がった。
その記録の細かいことにびっくり。
金・銀・銅 / 米・麦・もち米・はったい粉/ 酒・茶  /柴・割木・枝・油・ろうそく  / 醤油・味噌・塩・砂糖   /  漬物・こんにゃく・豆腐・揚げ・刺し身・寿司・6日の夕食・・  / 菜・ちしゃ・田いも・なんきん・たけのこ・みょうが・わらび・ぜんまい・小豆・ごま ・・・という具合。それを誰が・何個 何丁 何束まで書かれている。
寄進者には御所まちの人もあれば近隣の人・他国の人もある。
寄進することも神徳と思ってのことだろうが、助け合いの精神、すごいわ!それを細かく記帳しているのもすごい!

中井家が所蔵しておられるこれらの書付をご主人がまとめ、データ化しておられるのもすごい!

若いご主人と途中からは年配のご主人も説明してくださり、子供たちも興味があるのでついつい長居してしまった。
気がつけば1時間が経っていた。深い話を聞けてよかった。


    大和棟の屋敷

 
公園で遅いお弁当を食べて、大橋を渡り、東御所まちへ。
                 右)安位寺町石 県内最古の町石
東御所まちは円照寺を中心とした寺内町として発展した。
 
 
 元大和絣の問屋だった町屋        蔵の窓に鍾馗さま

 
立派な3段うだつ 黒壁 親子格子の町屋

 
4地蔵の1つ馬橋地蔵 「左・役の行者御誕生所 茅原山」の道標。
右)「この地蔵さんも道標やねん」息子が言うので隙間から覗く。「右よしの」の文字が見えた。

 
吉祥草寺 役の行者の御誕生所 寺の創建も役の行者と言われる。
境内には産湯の井戸や腰掛石などがあった。

 
本堂 左後ろに見えるのが開山堂らしい。行かなかった。 右)観音堂
大峰山修験道の開祖である役の行者は薬草や薬の知識も持ち、陀羅尼助を創薬した。

立ち寄ってみた円照寺は正月3が日は閉門中だった。

大橋を渡って、西御所まちへ戻る。

 
太神宮に立ち寄る。ここが御蔵屋敷あとなのか。


駅近く 道路に昔懐かしいポンプ 押してみたら水が出た。
15時40分ウォーク終了。濃いウォークだった。
でもまだ見残しがあるなあ。また次の機会に・・

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