みどりの野原

野原の便り

1月1日 ご近所の神さまにご挨拶

2020年01月01日 | Weblog

午後から散歩。河俣神社まで歩く。

 
道標のある豊津橋東詰から南を見ると、左側から高取川が曽我川に流入するのが見える。
  右)曽我川の右岸を少し行ったところにある水門 そばの橋の名は「操作橋」

人の通らない田んぼの中の道を歩く。
いつの間にか広い造成地になっているところもある。


盛り土に石碑の建った所。古墳のような感じではあるが何かわからないままいつも気になっている所
なくなったか?と思ったがかろうじて残っていた。間際まで造成地が迫っていた。

フェンスの端の隙間を抜けると、河俣神社の前に出た。

 
河俣神社 大阪の住吉神社の祭事に使用する器を作るための埴土をとる埴取神事が畝火山口神社境内で行われる。
その時、住吉神社からの使者(埴使い)は河俣神社で装束を整えて畝火山口神社に向かう。それで「装束の宮」とも言われている。
   右)境内を入って左側に「戦勝紀年碑」が見えた。 今まで気が付かなかった。
明治40年建立と書いてあったので、日露戦争の戦勝を祝って建てられたものらしい。
石碑を見ていると、自転車で来た近くの人らしい男性が「この碑は曽我川拡張の時にここへ移転されたのです」と教えてくださった。
今はまっすぐな曽我川も昔は大きく蛇行していたことは聞いている。(橿原市の運動公園も蛇行跡に作られた)
川は東へ拡張され、その時に河俣神社も少し東へ、田んぼだった今のところへ移ったとのこと。
そうだったのか~。
お参りして、セルフで一升瓶からコップで御神酒をいただき・・復路へ。

 
五井町の春日神社へお参り。こじんまりした神社だが、拝殿の中にはたくさんの絵馬が掲げられていた。

今は曽我町公民館と陣屋会館が建つところ。昔は多賀氏の陣屋跡だったという。
 
   多賀氏陣屋跡の説明板    植え込みに埋もれるように「陣屋池」の碑
江戸時代初期、多賀氏によって築かれた陣屋。多賀氏は後には江戸に住まいを移し、何人かの家臣が年貢の徴収などにあたっていたとか。広さ1町歩もあったという土地は明治以後荒れたが、近年まで「陣屋の池」と「陣屋の藪」として残っていたらしい。広さ一町歩もあったらしい。
家の子供が小学生のころ、その荒れ地でよく遊んだという。


最後に天高市神社(あめのたけちじんじゃ)にお参りして御神酒と昆布と延寿箸をいただいて帰る。


太陽はいつの間にか沈んで、きれいな夕焼け。明日も天気は良さそう。

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