柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

伝説

2021-06-20 09:46:03 | Weblog

メディアもこのままじゃぁ面白くないのでしょう、感染蔓延下のスポーツ観戦の観客数の上限を提示して、もちろんこれを五輪に横滑り適応しようという政府の思惑ですが尾身さん達が殊更にこれは五輪のことではないとしつこく言及するのを見て、どうするんだ?と頻りにTVが煽ってやってます。尾身さんだけではなく舘田さんも最近よく露出してます。感染症専門家はこぞって観客入れるなと言うけれど、それじゃぁ収入がなくなるし選手たちもやる気殺がれようとこれは開催側としては当然の反論ですし、もう連中の肚は決まってます。橋本委員長の物言いが全てです、提言は確と受け止めて注意してやりますと。今日で緊急事態宣言が解除されます。第5波の到来か終息か。ワクチン効果はきっと大きいはずです。五輪前に皆が緩めて、飲食店を助けてやれよと行く、ワクチン射った奴から飲みに行け。ビール飲みに行け。そこまではどうも?。五輪ですかじゃぁ。五輪の結果見て?これまた大規模な実験ですなぁ。TV観てるとまたまたイギリスでインド株が蔓延し始めてるそうですよ。何年かかるんでしょうか、そういうスパンです。

 寺内タケシの死亡記事です。昭和14年生まれだそうです。日本のエレキギター弾きの嚆矢でしょう。ブルージーンズを観てた記憶があります、加瀬邦彦がいました。加山雄三の若大将シリーズ、エレキの若大将で蕎麦屋の出前持ちで出てて、ガンガン弾いてます。リアルタイムに映画館で観たのではないです、TVででしょうし、DVDも持ってます。彼と言えば黒のモズライトギター、ヘッドにTerry と刻印してある奴が定番です。モズライトギターはベンチャーズで有名になったもので、日本にエレキブームが湧いたのは私が小学低学年時分です、東京五輪時分60年代前半。ベンチャーズが日本中を席巻して、その後にビートルズ。街中にテケテケテケでした決して大げさでなく。12歳上の叔父が、当時普及してた小さなレコードプレーヤーで(スピーカーとアンプとがセパレートしたステレオやカラーテレビは金持ちの家にしかない、恭しく鎮座する「家具」でした、そんな時代です)よく鳴らしてたのを思い出します、ダイヤモンドヘッド、十番街の殺人、急がば回れ。当時TVにはエレキバンド合戦といった趣向のものが多くあって、皆が憧れたのがベンチャーズであり寺内タケシだったのです。寺内タケシは歌わないベンチャーズスタイルの人でしたが、世の中はすぐにビートルズスタイルの歌バンド指向になりその後はタイガースたちのGSブームに移っていったのはご存知の通り。彼が60年後半当時のエレキ不良少年説に反抗して高校を回ってそういう風潮の是正を図る行動してたのは有名です、ハイスクールコンサートという名で。どの新聞もこの業績を讃えてますが74年に始めたとあります。ビートルズが来日したのは66年です、この時に全国の中高校で観に行くなの規制が出て、それは青少年に相応しくない不良音楽という評価受けていた証明で、これは有名な話です。その流れでエレキギター弾く奴は不良だとなっても不思議じゃないのです、そういう空気だったのでした。それに憤って彼がこういう行動を起こしたのもよく知られてますが、74年と聞いてへぇ~と思ったのです。74年と言えば私が高校3年時分です。学校でビートルズ歌ってました、バンドで演ってました文化祭で、73年から。思い出せば教員とあれこれ言い合ったことです、やはり反対がありました、エレキ鳴らす歌バンドってのが初めてのことでしたから当高校では。でもエレキ弾く奴は不良なんてそんな空気はもう田舎にもなかったですよ。ビートルズがすでにスタンダードになってたしキャロルのようなバンド(矢沢永吉です)も現れてたし。当地は十分に田舎ですが私はエレキ弾いて歌ってました。寺内タケシの話です。彼はクラシック(ベートーベンの運命や)、日本民謡、津軽三味線等々、ロックやジャズ歌謡曲路線から外れた方向へ進んだ人で、それはそれでパイオニアとして、エレキギター弾きとして孤高な人との評価なのでしょうが、私のような者でもすでに歴史上のプレーヤーとして見ている人でした。加山雄三がどういうコメントするか。彼は田中邦衛に続いてあの時代の盟友を亡くしましたから。合掌。

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