柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

均等

2019-11-06 08:22:30 | Weblog
萩生田大臣の身の丈発言、おかげで例の民間英語試験導入は見送られてそれはそれで効果があったのでしたが、今朝の朝日新聞特集してます、識者に語らせてます。こんな話題が彼ら(左巻きさんたち)には一番美味しい所です、公平平等を盾に弱者の味方になればいいのです。しかも今次は高校生という若年者(弱者の象徴です)が対象ですから何を言うても許されます。これぞポリティカルコレクトネスPCの典型事項です。グローバリズム礼賛と並んでこれこそが国民、共同体の分断(強者ー弱者、支配者ー被支配者)を意図したものだ、トランプさんの政策を分断目的と攻撃しますが実はグローバリズムのこの策略を破るための祖国愛鼓舞なのだアメリカファーストなのだ不正移民対策なのだということなのですがそれは措いて、身の丈の話です。よく新聞や月刊誌に論を載せてる竹内洋さんが書いてます、昔は日本にもジャパニーズドリームがあったと。American dream をモジったものですが、昔は学問で身を立てるという夢が叶ったのだ日本でもと。それに逆行することだと難じています。つまり教育の機会均等を守れということです。こう大きく出られると誰も反論できません。萩生田さんがこの一連の討論の中で、予備校に行く行かぬはどうなんだ?という発言してますが、それもそうだし、入試をたくさん受けられる者とそうでない者の差も昔から然としてありますね。入学試験料は大学の大事な収入源です。金持ちのボンクラ息子が金でもぐりこんだなんて話はいくつもあって、それはそれで皆仕方ないのうで済んでた。その逆があるからです、貧乏してても優秀な子が一流大学に入って出世するという例も数あるからです。が、入試そのもので受ける前から差をつけられるはいかがなものかという反発です。機会均等に反する、のです。都会と田舎の差も大きいことで。昔から金持ちとそうでない人たちとの格差ははっきりあったのです、教育の機会の差もしっかりあります。でも、どこかで均等さが担保されてた、という感覚ですね。それは何か?いくら金積んでもバカじゃ入れない大学があって、頭のいい奴は金のあるなしに関係なく招き入れられる、そういう制度です。青大将(田中邦衛)のような奴はどの時代にもいて、同じだけ地方から出てきた心ある秀才たちがいる。この試験に合格すればいい、という均等さですね。だから努力する、するだけの報いがあるのです。そこに財力や都鄙の利便によって差をつけられると、です。金持ちのボンクラと貧乏な秀才の対比、後者が最後に勝つという相殺があればこそ水戸黄門見た後のような爽快感がありボンクラの無体も許せるというものですが、一発勝負の前に差がついてしまっていては‥の反発です。もっとも、本当にできる奴らはどんな条件でも勝ちますし、金持ちでスポーツ万能で成績優秀なんてエリートも多い、そしてその逆もまた多いのが世の中です。所詮各人の身の丈なのです。だから大臣は正しいことを言うたのです!
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