拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

恋バナ/江戸はヴェネチアだった件

2024-06-02 11:52:03 | 地理

ただ集まって黙ってじっとしてるのは猫の夜会。人が集まるのは話をするためである。ただし、する話の内容は集団によって異なる。政治論、芸術論、人生論等いろいろあるが、私が好むネタはもちろん恋愛論、くだけて言うところの恋バナである。政治論、芸術論、人生論が始まってしまった日には私は夜会の猫になる(黙る)。

はて、ではなく、さて。夏目漱石の実家は馬場下辺りにあった。「馬場下」とは高田馬場の下という意味であり、早稲田の辺りである。なるほど、早稲田から高田馬場方面に向かう早稲田通りは上り坂である。すなわち、高田馬場は台地の上に乗っていて、早稲田はその「下」にあるのである(早稲田大学も台地の縁に位置していて、正門から入ったキャンパスは登りの傾斜になっている)。その馬場下から浅草に芝居見物に行く場合、まだ市電が走ってない明治の初め頃どうやって行ったかというと、そのルートが漱石の随筆に書いてあるのだが、まず徒歩で現在の飯田橋辺りに行き(今でも早稲田~神楽坂~飯田橋は一本道である)、そこで屋根船(屋形船)に乗る。飯田橋には神田川が流れている。船は、そこから神田川を下り、柳橋で大川(隅田川)に出ると(緑の橋が柳橋)、

川を遡上して吾妻橋を通り抜けて目的地にたどり着いたのである。東京には隅田川のような大きな河だけではなく、神田川やそれよりもっと小さい川もたくさん流れていて、これらが交通網を形成していた。例えば、東武伊勢崎線はスカイツリー辺りから隅田川にぶつかるまで北十間川に沿って走っているのだが、

そこにも屋形船が浮かんでいた。そう言えば、浅草橋から見た神田川にも屋形船がたくさん浮かんでいたっけ。

まっこと、江戸(東京)は水上都市であった。ヴェネチアも真っ青である。

漱石は、他にも気になる船ルートを書いている。綾瀬(今の足立区)方面に船で行った、というのである。さて、ではなく、はて、綾瀬に船で行く、と言うのはにわかにはピンと来ないが……そう言えば、小菅の拘置所前に遊歩道が設けられた水路がある。この水路には、実は古隅田川と言う由緒のありそうな名前がついていて、今では中川と綾瀬川を結ぶ短流でしかもそのほとんど暗渠だが、その昔は隅田川ともつながっていたのかもしれない。これは根拠のない私の推測にすぎないが、関東地方の川は付け替え等々で大変化を遂げているからあり得ない話ではないと思う。