拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

浅草やきそば~浅草橋

2024-06-01 08:24:13 | 地理

そんな上から目線の漱石だが、幼少時には苦労をしている。養子に出された先の養父母が養父の浮気のせいで離婚し、それもあって漱石は夏目家に戻されたのである。その後も実家と養家との間に金銭的なトラブルがあったり、成人した漱石に養父が金の無心に来たりしたことが漱石の自伝的小説である「道草」を読むと分かる。

漱石と言えば、小石川を始めとする山の手の人のイメージだが、子どもの頃は浅草に住んでいた。養父母の元にいた時期である。このたび「漱石と歩く、明治の東京」という古本をゲットしたら、漱石少年が住んでいた辺りを示す地図が載っている。ちょうど両国に用事があったところであるから、ちょうどいい、浅草から漱石の跡をたどりつつ両国まで歩くことにした。

浅草までは東武伊勢崎線を使った。東武スカイツリーラインという愛唱ではなくて愛妾ではもっとなくて愛称が付いている路線だ。途中の業平橋駅も、今では「とうきょうスカイツリー駅」に改称している。まさにスカイツリーの直下に位置し、駅から見えるのはスカイツリーの脚である。

次駅が終点の浅草駅。じきに隅田川が現れた。

荒川に比べると小ぶりの印象があった隅田川だが、やはり昔に「大川」と呼ばれただけのスケール感がある。初代ゴジラは東京に上陸した初日、この川に入って海に戻ったのである。そして、ゴジラではなく東武線は隅田川の上で、左に急カーブして、

松屋の建物内にある浅草駅に突入する。この急カーブはカーブが多いことで有名なこの路線のラストを飾るに相応しいものである。因みに、ジョージア料理のシュクメルリを出す「松屋」はこの松屋だと思っていたら牛丼の松屋であった。ここまでの写真を撮るために、私は先頭車両の運転席の後ろに張り付いていたのだが、途中から乗車してきた少年もその場所を狙っていて、それは分かっていたのだが、まあ大丈夫だろう、この少年も敬老の精神くらいは持ち合わせているだろうと思って隅田川を撮るためにその場を離れたら、その一瞬の隙をつかれて特等席は少年に占領されてしまった。だから、急カーブの写真は、少年の背後から、線路のカーブと同じくらい体をねじ曲げて撮ったものである。

さて。浅草に着いたら漱石の前に見ておきたいものがある。浅草地下街、特に映画「Perfect days」に登場した「浅草焼きそば」である。地下街に入ったらすぐそこにあった。

看板の「浅草やきそば」の文字も含めてまったく映画の通りである(店の名が「福ちゃん」であることは知らなかったが)。店先に出てるテーブルも映画と同じで、役所広司はここに座って一日の疲れを癒やしたのであった。

他にも昭和を感じさせる店がたくさんあった(「レコード買い取ります」って店もあった)。そんな地下街から地上に上がって、漱石少年が住んだ家跡3箇所を巡ったが、いずれも当時を思わせるモノは皆無。写真を撮ったが載せるまでもないだろう。

この後、隅田川にかかる橋をいくつか渡り、台東区と墨田区を行ったり来たりしてるうちに、台東区側で神田川にぶち当たった。そこにかかる橋が浅草橋であった。

下流側には屋形船がひしめいていて、その先には隣の柳橋(緑色)が見える。神田川が隅田川に合流するのはそのすぐ先である。

合流ポイントを隅田川にかかる両国橋から見た絵がこれ。

実は「浅草橋」が神田川にかかる橋であることを初めて知った。今「浅草」と聞くと浅草駅や雷門のあたりを思い浮かべるからそこから随分南にあるこの橋が「浅草橋」と称するのが疑問であったが、昔は、「浅草区」という広いエリアがあり、現在の浅草橋(橋名及び町名)はその区内に含まれていたと知って少し納得した。

てなわけで両国橋を渡って両国での用事にかかる。

両国での用事とはフグを食べることであった。なお、この小旅を敢行したのは某A団の直近の活動日とは別の日である。フグを食べるために活動を休んだという誤解を生まないために申し添える次第である。休んだ理由は体調不良である。などと書くと、そうか、ひれ酒の飲み過ぎによる二日酔いだと思われそうだ。弁解が更なる誤解を生む。我が身の不徳の致すところである。