拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

紙の本

2024-06-28 17:35:41 | 日記

「ソフィーの世界」をダウンロードした。これでも、高校生のときは、教科書に出てくる哲学書は一通り読んだ。分かったつもりでいたが、今思うと1%も分かってないと思うので、読み返してみたい、と思っていたタイミングであった。今回ダウンロードしたきっかけは、朝ドラが終わった後も流れでテレビを見てる人にはバレバレだろう。そう、あさイチで紹介してたからである。高知なすを買うのも、「ソフィーの世界」をポチるのもあさイチの影響である。

こんな具合に、最近の読書のほとんどは電子書籍のキンドルで。いくら購入しても部屋は埋まらないし、どこにいてもすぐ読みたい本を読める。そもそもタダの本が多い(いくら著作権が切れていても、紙の本でタダで売ってるモノはないだろう)。だが、一つ気に入らないことがある。ところどころに傍線が引いてあって「何人がハイライト」との表示が出ている。つまり、多くの人が重要箇所だと言ってるとご丁寧にも教えてくれてるのである。だから心して読め!と言うことだろうか。大きなお世話である。だいたい、外国企業はお節介が過ぎる。フェイスブックも、むやみに「お友達に声をかけよう」とか奨めてくる。読んで良かったと思う箇所は自分で決めるし、お友達へのご挨拶だって自分で決める。「お友達」と言えば、バスの車内宣伝放送で、「1歳2歳のお友達、○○幼稚園に入りましょう!」と言っているのだが、幼稚園に入る前からなぜ「お友達」なのだろう、と奇異に感じるひねくれ者で友達のいないワタクシである。

そう言いながら読書生活をキンドルに頼り切っているワタクシだが、こんだけ依存してて、万が一、アマゾンがキンドルから撤退したら、これまでポチったヤツは一切読めなくなる。そんなことがあるものか……いや、つい最近、中国で、キンドルが撤退したそうだ。企業の逃げ足は速い。なんと、パナソニックはブルーレイ・レコーダーの生産を打ち切ったそうな(これは私にとって大事件である。回を改めて書くつもりである)。やはり、読書で最後に頼りになるのは紙の本なのだろうか。デジタル依存は見直した方が良いのだろうか。

だからってわけではないのだが、実は、わが家の本棚の紙媒体もちょこちょこ増えている。例えば、最近買った紙の本はこんな具合である。

こう見ると、最近の私の趣味がよく現れている。山座同定には大きな紙の地図をだーっと広げて定規をあてたいし、凸凹の地形の把握は印刷した地形図で見たい。草木の事典に関しては、私のキンドル端末は白黒だから、カラー印刷の紙の事典の敵ではない。実は、もう一つ紙の本が増える理由がある。奥地に行くときの乗換駅で30分電車が来ないのはざら。そうしたとき、構内にある本屋さんに自然と足が向く。しかも、場所柄、「山歩き」「田舎生活」系の本が、都市部よりもずっと充実している。だからポチる……いやネットではないからポチらない、現物を購入するのである。

わが家の紙の本の絶滅を防ぐかもしれない事象はまだある。わが家には前の仕事の関係で法律の本(紙の本)が腐るほどあったがだいぶ処分した。残したのは偉い先生の書いた所謂学者本である。それも開くことはないと思いダンボールに詰めた矢先に、また読みたくなり、ダンボールから復活と相成った。朝ドラの寅子のせいである。また、資格試験用のレジュメでも書いてみようかしらん。もう人を教えることはないから、誰のためということではなく自分のために。ところで、「偉い先生」の多くは過去の人である。だから、大先生が書いた本は、大概法改正で今では通用しなくなっている。そういう過去の遺物を残して現在通用する法律本を処分してるのがワタクシである。変だなー、と思う今日この頃である。

因みに、法律が改正で通用しなくなるってあたりは芸術と異なるところである。例えば音楽で五度の和音が綺麗なのは自然の摂理であり、お上(おかみ)に綺麗だと思えと言われたから綺麗なわけではない。お上が「これからは五度よりも二度に感動しなさい」と命じても無理な相談である(二度でぶつかるのが好きな人もいるが)。そこへいくと、法律はあくまでも「人の作ったもの」だから、人の手による改正で中身が変わりうるのである。ただし、法律の上位にある憲法となると話は違う。憲法が拠って立つ人権思想は近代以降普遍的である。