(金沢市・玉泉園にある隠れ切支丹灯篭のマリア像)
ゴールデンウィークに石川県金沢市と富山県南砺市へ出かけました。
金沢といえば、裏千家四代・仙叟宗室(1621-1667)が活躍したところです。
金沢に現存する仙叟ゆかりの茶室・灑雪亭(さいせつてい)を訪ねてみました。
仙叟は三代玄白宗旦の四男、裏千家流の初代です。
仙叟は31歳の時、加賀三代藩主・前田利常に御茶堂として仕え、
150石を賜りました。
利常亡きあとには五代藩主・前田綱紀に仕え、その間、金沢と京都を
精力的に往復しながら、およそ二百十回の茶会を催しています。
72歳の時やっと致仕が許されて京都へ戻り、1967年76歳で亡くなりました。
「灑雪亭」は、兼六園の東隣にある西田家庭園「玉泉園」にあります。
「玉泉園」は、初代脇田直賢(なおかた)が着手し、、
四代九兵衛の代に完成した、上下二段式の池泉回遊式庭園です。
初代脇田直賢は朝鮮人で、名を金如鉄といいました。
7歳の時、征韓の役で孤児となり、豊臣秀吉の家臣・宇喜多秀家が
憐れんで如鉄を日本へ連れ帰りました。
その後、宇喜多秀家は失脚し、秀家夫人(前田利家の四女、豪姫)に伴われ
金沢城へ入り、二代前田利長夫人・玉泉院に育てられます。
如鉄は帰化し、前田家臣・脇田直賢となり、晩年には知行1500石となりました。
切支丹であったと伝えられています。
直賢の子の直能(なおよし)は加賀藩御茶堂の仙叟に茶を学んでいました。
仙叟の指導により直能は、邸内の一画、一段高くなっている高台に
茶室(二畳台目と一畳)と八畳書院の「灑雪亭」をつくりました。
玉泉園は、池や露地が現存する「灑雪亭」のある庭が最初に造られ、
下段の方に広げられたそうです。
さぁ、ご一緒に仙叟お好みの「灑雪亭」を見学しましょう。
写真は、灑雪亭の「腰掛待合」と「露地」です。
腰掛待合(1986年に復元)に腰掛け、美しい緑の苔に覆われ、
伽藍石がある石組の露地を歩むと、簡素な造りの茶室があります。
半間幅の土間庇(ひさし)があり、板戸もついていて雪国ならではの造りです。
ここから茶室へ入ります。
写真は、「貴人口と躙り口」と「茶室内部」です。
躙り口は板戸二枚の引違いで、その上が中連子窓、
この右手に障子二枚が入り貴人口となっています。
茶室は一畳と台目二畳と板付、炉は向切で、仕付棚がありました。
畳の寸法は京間と田舎間の合間の寸法だそうです。
柱は杉面皮、床は踏込の板床で、幅四尺五寸弱、奥行二尺強です。
床前に一尺二寸五分幅の松の板が入っています。
床柱は赤松皮付の二寸五分丸。
天井は、点前畳の上が落天井、その他は露地側へ流れる化粧屋根裏天井です。
茶道口は幅二尺八分の火頭形となっています。
この侘びた、寂びしいような茶室で、雪が降り灑ぐ(そそぐ)庭を眺めながら、
どんな茶会が催されたのでしょうか?
雪を風流に愛で、春の息吹きを感じ、苔の美しさに心躍り、
秋風に人生のはかなさを感じ、人を招き、茶を点て、茶をのむ・・・。
そんなことをぼんやり考えながら何度も茶室の中を覗き込みました。
「灑雪亭」の下段の旧脇田家本邸にある寒雲亭写しの茶室で、
菓子「かきつばた」と美味しい薄茶を頂きました。
明治11年に脇田家が屋敷、庭園を一切売却して金沢を去り、
その後所有者が点々と代り、西田家所有となり保護されました。
昭和46年(1971年)西田家より寄贈され、(財)西田家庭園保存会が設立され、
「玉泉園」の管理運営をしているそうですが、維持が大変なことを伺いました。
由緒ある庭園が後世へ伝えられることを願わずにはいられません・・・。
(金沢・南砺の旅 次へ)
ゴールデンウィークに石川県金沢市と富山県南砺市へ出かけました。
金沢といえば、裏千家四代・仙叟宗室(1621-1667)が活躍したところです。
金沢に現存する仙叟ゆかりの茶室・灑雪亭(さいせつてい)を訪ねてみました。
仙叟は三代玄白宗旦の四男、裏千家流の初代です。
仙叟は31歳の時、加賀三代藩主・前田利常に御茶堂として仕え、
150石を賜りました。
利常亡きあとには五代藩主・前田綱紀に仕え、その間、金沢と京都を
精力的に往復しながら、およそ二百十回の茶会を催しています。
72歳の時やっと致仕が許されて京都へ戻り、1967年76歳で亡くなりました。
「灑雪亭」は、兼六園の東隣にある西田家庭園「玉泉園」にあります。
「玉泉園」は、初代脇田直賢(なおかた)が着手し、、
四代九兵衛の代に完成した、上下二段式の池泉回遊式庭園です。
初代脇田直賢は朝鮮人で、名を金如鉄といいました。
7歳の時、征韓の役で孤児となり、豊臣秀吉の家臣・宇喜多秀家が
憐れんで如鉄を日本へ連れ帰りました。
その後、宇喜多秀家は失脚し、秀家夫人(前田利家の四女、豪姫)に伴われ
金沢城へ入り、二代前田利長夫人・玉泉院に育てられます。
如鉄は帰化し、前田家臣・脇田直賢となり、晩年には知行1500石となりました。
切支丹であったと伝えられています。
直賢の子の直能(なおよし)は加賀藩御茶堂の仙叟に茶を学んでいました。
仙叟の指導により直能は、邸内の一画、一段高くなっている高台に
茶室(二畳台目と一畳)と八畳書院の「灑雪亭」をつくりました。
玉泉園は、池や露地が現存する「灑雪亭」のある庭が最初に造られ、
下段の方に広げられたそうです。
さぁ、ご一緒に仙叟お好みの「灑雪亭」を見学しましょう。
写真は、灑雪亭の「腰掛待合」と「露地」です。
腰掛待合(1986年に復元)に腰掛け、美しい緑の苔に覆われ、
伽藍石がある石組の露地を歩むと、簡素な造りの茶室があります。
半間幅の土間庇(ひさし)があり、板戸もついていて雪国ならではの造りです。
ここから茶室へ入ります。
写真は、「貴人口と躙り口」と「茶室内部」です。
躙り口は板戸二枚の引違いで、その上が中連子窓、
この右手に障子二枚が入り貴人口となっています。
茶室は一畳と台目二畳と板付、炉は向切で、仕付棚がありました。
畳の寸法は京間と田舎間の合間の寸法だそうです。
柱は杉面皮、床は踏込の板床で、幅四尺五寸弱、奥行二尺強です。
床前に一尺二寸五分幅の松の板が入っています。
床柱は赤松皮付の二寸五分丸。
天井は、点前畳の上が落天井、その他は露地側へ流れる化粧屋根裏天井です。
茶道口は幅二尺八分の火頭形となっています。
この侘びた、寂びしいような茶室で、雪が降り灑ぐ(そそぐ)庭を眺めながら、
どんな茶会が催されたのでしょうか?
雪を風流に愛で、春の息吹きを感じ、苔の美しさに心躍り、
秋風に人生のはかなさを感じ、人を招き、茶を点て、茶をのむ・・・。
そんなことをぼんやり考えながら何度も茶室の中を覗き込みました。
「灑雪亭」の下段の旧脇田家本邸にある寒雲亭写しの茶室で、
菓子「かきつばた」と美味しい薄茶を頂きました。
明治11年に脇田家が屋敷、庭園を一切売却して金沢を去り、
その後所有者が点々と代り、西田家所有となり保護されました。
昭和46年(1971年)西田家より寄贈され、(財)西田家庭園保存会が設立され、
「玉泉園」の管理運営をしているそうですが、維持が大変なことを伺いました。
由緒ある庭園が後世へ伝えられることを願わずにはいられません・・・。
(金沢・南砺の旅 次へ)