中立で後座の設えを調えます。
床の掛物「隅田川」はそのままとし、白い木槿と灸花を灯明台花入(白洲正子好み)に生けました。
雨戸を閉めて暗くし蝋燭能の設えです。燭台を2つ、床に手燭をおきました。
後座の席入り後、座が静まるのを待って、茶碗を持って襖を開け、濃茶点前が始まりました。
和蝋燭の灯が思った以上に明るかったのですが、点前座は相変わらず暗いです。
その暗さと灯りのコントラストを意識しながら、帛紗をさばき、茶入と茶杓を清めます。
釜から柄杓で湯を汲むと、動く影が壁に映って、自分ではないもう一人が一緒に点前をしているような錯覚を覚えました。
茶入から茶を掬うと、すぐに良い薫りが漂ってきて、きっとお客さまにも待ち遠しく届いたことでしょう。茶入の約半量(2人分)を掬い出し、湯を入れ練り始めました。手指の感覚を研ぎ澄ませて、湯の塩梅や練り加減を確かめながら・・・。
「聴雨の茶事」に続いての暗中の濃茶なので大分要領がつかめてきました。湯を足し、もう一度練り上げてお出ししました。半東YSさんが茶碗を取り次ぎます。
「お服加減はいかがでしょうか?」
「お練り加減も薫りも良く、美味しゅうございます」と美味しそうなお声に心から安堵し、2碗目にかかります。
2碗目は3杓掬ってから、久しぶりの回し出しをしました。残り全部を回し出し、湯を入れしっかり練って2人分の濃茶をお出ししました。
濃茶は「一滴翠」(丸久小山園詰)です。
茶碗のお話をさせて頂きました。
茶碗は黒楽・銘「姨捨」(一入作)と赤楽・銘「西行桜」(佐渡・無明異焼、陶生作)です。
この2つの茶碗はそれぞれ暁庵にとって思い出深い茶碗ですが、その日は能の銘に因むお話です。
黒楽茶碗の銘は「姨捨」、楽美術館の特別鑑賞茶会で黒楽茶碗・銘「姨捨」(左入作)がだされ、15代楽吉左衛門(現在の直入)氏から能「姨捨」の興味深いお話を伺いました。
「能の多くは仏の導きにより成仏して終わるのですが、「姨捨」の老女の霊は成仏してあの世へ帰ったのか、この世の悲しみの中にあって山にとどまっているのか、わからない終わり方になっている・・・」
その時以来、能「姨捨」を観たいと思っていたのですが、やっと5年前に横浜能楽堂で蝋燭能「姨捨」(シテ 浅見真州)に巡り合うことが出来、そのお能に魅せられたお話をしました。
そして、直入氏のお話の通り、最後の場面、旅人が去った後に再び一人山奥に残された老女が慟哭するのです。何とも形容しがたい、心の奥底から絞り出すような声で哭くのです・・・
その瞬間、客席はシーンと息を呑んで静まり返りました。とても成仏したとは思えない悲痛な哭き声でした・・・そして、よろよろと足を運びながら橋掛かりを去って行きました。
(床の手燭は下げて、拝見用に小灯しを出しました)
もう一つの赤楽茶碗の銘は「西行桜」です。京都・観世会館で遭遇した「西行桜」(シテ 片山幽雪)に深く感動したことをお話をしました。
「姨捨」と共にいつまでも忘れられないお能で、このような魂を揺さぶるお能に巡り合うことはもう再びないかもしれない・・・とさえ思いました。
お茶事もそうですけれど、一期一会のご縁が嬉しく有難いです。
茶入は薩摩焼の銘「翁」、仕覆は19世紀末に東南アジアのどこかの島で織られた「島モール」(中嶋由美子仕立)です。
茶杓は銘「初心」、紫野・聚光院の梅の古木を以って作られ、作者は川本光春です。
「初心忘るべからず」は世阿弥の言葉ですが、物事を最初に経験した時の「初心」だけではなく「人生にはいろいろな「初心」がある」と言っています。
世阿弥のいう「初心」とは、いままで体験したことのない人生の壁や困難に遭遇した時に対応する「方法」、或いは乗り越えていく時の「戦略」や「心構え」を言います。
暁庵にとって「老後の初心」に大いに関心があり、今日の「初心」にふさわしい・・・と思いながら使いました。(この続きはいつの日か、書けるかしら・・・?) つづく)
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