つづき)
10月14日(月・祭)に横浜能楽堂で蝋燭能「姨捨」(おばすて)をみました。
・・・「姨捨」の能も後半に入り、シテ(老女)の登場です。
満月が昇り、白衣の老女が現れます・・・先ほどの里女と同じシテ・浅見真州が演じます。
橋掛かり近くの脇正面席だったので、舞台に向かう一歩一歩にわが身を投じて見ることができました。
老女の姿と足運びそして発する声は、浅見真州そのものなのか、老女を演じる浅見真州なのか、それとも全く別人なのか・・・一歩一歩よろめく足を運ぶ姿に「西行桜の片山幽雪」を思い出していました。
長い時間をかけて橋掛かりから舞台へ到着すると、老女の霊は、老いの姿を恥じつつも来たこと、はかない世であるから草花を愛で月に興じて遊びたいものだと言います。
姨捨山の仲秋の名月は、すべてのものを透明に浄化するような神々しさで、煌々とあたりを照らしていたことでしょう。
月光の下、老女の霊は昔を懐かしんで舞を舞います。
その舞はいろいろなことを語ってくれました。
姨捨山に捨てられたあの日のことを・・・一人残された心細さ、日が暮れ始めると風が吹き、その音に身を震わせて過ごした一夜のこと、わが身の不幸を嘆き、外界を恋しく思う心の葛藤、やがて仏にすがり静かな成仏を願うようになったこと・・・。
わが心なぐさめかねつ更科や姨捨山に照る月を見て
老女の心の内を語るように序の舞が長く長く続き、執心の深さを思わせます。
はじめて脇正面で観能したせいかもしれませんが、序の舞になっても囃子方の大鼓、小鼓、太鼓、笛が静かなのです。
リズムはしっかり聞こえるのですが、激しく声高ではなく老女の心に添って融和しているように思えました。
なんせ、長い長い序の舞が続いたので、いろいろな妄想だけは広がっていきましたが、
その間、客席の皆様も私も身じろぎもしないで舞台を見つめていました。
やがて舞が終わり、月も山の端に隠れたのでしょうか。
旅の男たちは去って行ってしまい、一人老女があの時のように・・・取り残されました。
老女はその場に崩れ落ち、なんとも形容しがたい声で「う~っ、う~~っ、う~~っ!」と哭いたのです。
この一瞬、客席全員が氷のように固まったように思いました。
その哭き声も止み、老女は静かに立ち上がり、よろめく足取りで何処へと帰っていくのでした。
舞台から後見、地謡方、囃し方が静かに立ち去っていきましたが、皆、なかなか現実に戻れずにいたように思います。
言葉は交わしませんでしたが、お隣の初老の男性が終了後に「ほおっ~~」と大きなため息を一つついたのが、皆の気持ちを表していると思いました。
見事な「姨捨」でございました。
(忘備録)
横浜能楽堂特別講演 -蝋燭能-
令和元年10月14日(月・祝) 午後4時開演
狂言 「空腕」 シテ(太郎冠者) 野村 萬 アド(主) 野村万蔵
後見 野村万之丞
能 「姨捨」 シテ(里女・老女) 浅見 真州
ワキ(信夫何某) 大日方 寛
ワキツレ(同行者) 則久 英志
ワキツレ(同行者) 野口 能弘
アイ(里人) 山本泰太郎
囃子方 大鼓 柿原 弘和 太鼓 小寺真佐人
小鼓 吉阪 一郎 笛 竹市 学
蝋燭能「姨捨」をみる・・・その1へ戻る