暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

上田宗箇展へ(2)

2012年01月17日 | 美術館・博物館
                  (宗箇松の高蒔絵の大棗と茶杓「いわふね」)

昨年秋に、小説「のぼうの城」(和田竜著 小学館)を読んで以来、
戦国武将の守るべき真義とか、城をめぐる攻防(戦略)の要とか・・・
戦国時代の武将たちに思いを馳せていました。

そんなこともあって、
上田宗箇という武将茶人の生きざまと、
その流れを絶やさず続いた流儀、上田宗箇流に興味を持ったのです。

                 
                    (武具の展示・・・水車園にて

上田宗箇(1563~1650)は、13歳で丹羽長秀に小姓として仕え、14歳で初陣。
長秀亡きあとは豊臣秀吉に仕えました。 
常に「一番槍」を目指して多くの戦場を駆け抜けた勇将でしたが、
茶の湯も好くし、天正18年(1590)11月6日の「利休百会記」が
茶書初見で、利休は69歳(70歳で自刃)、宗箇28歳の時でした。

慶長5年(1600)38歳の宗箇は関ヶ原の合戦で西軍として戦いました。
合戦後は剃髪して宗箇を名乗り、蜂須賀家の客分を経て、
慶長8年(1603)和歌山の浅野家に1万石で客分として迎えられました。
慶長20年(1615)53歳の時、大阪夏の陣へ徳川方として参戦し、
泉州・樫井の合戦で一番槍の手柄をたてています。

元和5年(1619)浅野家の広島移封に従い、1万7千石を賜わりました。
広島へ移ってからの宗箇は、精力的に茶杓、竹花入、庭焼などを作り、
縮景園を作庭し、広島城内上屋敷に和風堂を造営しています。
慶安3年(1650)上田家二代重政(次男)が亡くなりました。
宗箇は二十日間食を断ち、自ら死を選びます。享年88歳でした。

               
                     (武具の展示・・・水車園にて)                
  
茶杓「敵がくれ」は、大阪夏の陣中で削られたと伝えられています。
どのような境地で茶杓を削ったのでしょうか? 
傍にある竹を無造作に採り、陣中に在ることを忘れて
一心不乱に二本の茶杓を削ったのでしょうか?
華奢で雅な茶杓を想像していましたが、
野太く、飾り気のない「素」を感じる茶杓でした。

宗箇自作の茶碗「さても」を拝見しました。
少し歪みのある筒椀のような成型、
辰砂を連想させる、深みのある赤褐色の釉薬がかかり、
魅力的な景色を生み出していました。
茶碗をめぐる鋭いヘラ目が全体の印象をぐっ!と引き締め、緊張感を誘います。
とても現代的な作風に、思わず楽家当代の茶碗を思い出していました。

「さても」の次にお気に入りは薩摩焼の筒茶碗「雪友」でした。
控えめな内にも確かな美意識の主張を快く感じ、銘も素敵です。

それから、鉈で削ぎ落とした竹一重花入・・・思わず息をのみ、
こんな竹花入を造る方だったのだ! 
今まで拝見したどの竹花入よりも心惹かれました。

               
                    (添釜にて  富士釜、染付水指、唐津焼茶碗

広島和風堂の写しの鎖の間や遠鐘(四畳大目)の設えは、
書院の茶と侘び茶を表わしていて、その両者を柔軟に取り入れたのが
上田宗箇流の茶会なのでしょうか? 興味津々です。

見所満載の展示ですが、さりげなく展示されている名品も多く、
君台観左右帳記(はじめて実物を見ましたが、書院(座敷)飾りの教科書のよう)、
珠光青磁茶碗、唐草文染付茶碗「荒木」、小井戸「白雲」、
長次郎の「面影」、光悦の「村雨」も嬉しいお出会いでした。

                          
       上田宗箇展(1)添釜 へ