2月12日(土)は横浜能楽堂特別企画
「能・狂言に潜む中世人の精神」の第3回「仏教」です。
前日の雪がまだ残り、今にも雪か雨が降ってきそうな寒い寒い日でした。
全四回のこのシリーズは着物で・・と張り切っていたのですが、
横浜能楽堂へは紅葉坂があるので洋服で出かけました。
この日のプログラムは
講演 有馬頼底 (臨済宗相国寺派管長)
狂言 「博打十王」 野村萬斎(狂言方和泉流)
能 「江口」 梅若玄祥(シテ方観世流) でした。
野村萬斎さんが出演されたので人気があり、正面席がとれずに二階席でした。
心配していましたが、二階席は本舞台、橋がかり、垂幕、さらに
舞台全体の動きがよく見渡せて好かったです。
最初に30分ほど有馬頼底氏の講演がありました。
能と仏教、特に相国寺(しょうこくじ)との関係について話されたのですが、
能も相国寺も知識がないので、とても難しかったです。
お話の中でポイントらしいのですが全く理解できず、それ故、最も興味を持ったのが
「観音懺法(かんのんせんぽう」でした。
能の庇護者であった室町足利家と相国寺はとても密接な関係があって、
「観音懺法」は足利家では毎月18日、相国寺では毎月17日に行われていたたそうです。
「観音懺法」とは、相国寺で現在に至るまで毎年6月17日に催される、
美しい梵唄(声明)で知られる儀式です。
「観音懺法(せんぽう)とは?」と講演の最後までわかりませんで、
帰ってから相国寺のHPを開き、抜粋してみました。
私たちは生まれながらにして仏性、仏の心を持っているのですが、
知らず知らずのうちに限りない罪を犯しています。
世俗の社会では法律によって裁かれることになりますが、
私たちはそれとは別に心の世界をもっています。
ここでいう罪とは、日常心の上において犯す罪であり、宗教上の罪であります。
罪を悔いあらため、懺悔の力によって仏の心を取り戻そうとするのが、
懺法という儀式なのです。
観世音菩薩は大慈大悲を御心とし、
抜苦与楽を与えてくださる有難い菩薩なので、
観世音菩薩に自分の罪を懺悔するのです。
観世音菩薩をお迎えし、その前で懺悔する儀式作法を、
観音懺法(せんぽう)といいいます。
能「江口」にも白象に乗った普賢菩薩が登場します。
仏にもいろいろあって、菩薩は仏陀になる前の悟りを求める者で、
ここでは慈悲を司るものとして登場します。
あらすじは、
旅の僧が淀川のほとりにある江口の里へ立ち寄ります。
里人に遊女・江口の君の旧跡について教えられた僧が旧跡を訪れます。
西行法師が江口の君に雨宿りを断られた際に読んだ歌、
「世の中を厭ふまでこそ難からめ 仮の宿りを惜しむ君かな」
を口ずさんでいると、
里の女(梅若玄祥)が現れ、
「世を厭ふ人とし聞けば仮の宿に 心とむなと思ふばかりぞ」
という江口の君の返歌を引いて
「宿を貸すのを惜しんだのではなく、世捨人である西行のことを
思って泊めなかったのです」と語ります。
里の女は江口の君の亡霊でした。
ここで間が入り、里人(石田幸雄)が
「くわしくは知らないけれど 大方語られている物語をつかまつろう・・・」
と、語り始めます。
やがて月の澄み渡る川面に遊女たちの舟遊びの光景が見えてきます。
舟が橋がかりへ運び出され、シテの江口の君とツレの遊女二人が舟に乗り、
「秋の水 漲(みなぎ)り落ちて去る舟の 月も影さす棹の歌」
と三人で吟じます。
謡の文句はきちんと聞き取れませんでしたが、
「まるで声明みたい・・・」
一番印象に残る場面であり、心を揺さぶる謡でした。
江口の君は遊女の身のはかなさや、世の無常を述べ、舞います。
「花よ紅葉よ 月雪の古事も あらよしなや。」
やがて、遊女の姿は普賢菩薩となり、西の空へ去ってゆくのでした。
「白象にのりて西の空へゆきたもう
有難くこそ覚ゆれ 有難くこそ覚ゆれ 」
有馬氏が最後に曰く
「能は悲劇で終わらずハッピーエンドになっている。
仏の力で救われ、成仏する・・・日本の文化の精神に仏教がある」と。
(第2回 神道へ) (第4回 花へ)
のち
写真は上から 「梅林」 (季節の花300提供)
「舞台・・二階席より」
「国宝普賢菩薩像」 (東京国立博物館蔵 ポストカード撮影)
「能・狂言に潜む中世人の精神」の第3回「仏教」です。
前日の雪がまだ残り、今にも雪か雨が降ってきそうな寒い寒い日でした。
全四回のこのシリーズは着物で・・と張り切っていたのですが、
横浜能楽堂へは紅葉坂があるので洋服で出かけました。
この日のプログラムは
講演 有馬頼底 (臨済宗相国寺派管長)
狂言 「博打十王」 野村萬斎(狂言方和泉流)
能 「江口」 梅若玄祥(シテ方観世流) でした。
野村萬斎さんが出演されたので人気があり、正面席がとれずに二階席でした。
心配していましたが、二階席は本舞台、橋がかり、垂幕、さらに
舞台全体の動きがよく見渡せて好かったです。
最初に30分ほど有馬頼底氏の講演がありました。
能と仏教、特に相国寺(しょうこくじ)との関係について話されたのですが、
能も相国寺も知識がないので、とても難しかったです。
お話の中でポイントらしいのですが全く理解できず、それ故、最も興味を持ったのが
「観音懺法(かんのんせんぽう」でした。
能の庇護者であった室町足利家と相国寺はとても密接な関係があって、
「観音懺法」は足利家では毎月18日、相国寺では毎月17日に行われていたたそうです。
「観音懺法」とは、相国寺で現在に至るまで毎年6月17日に催される、
美しい梵唄(声明)で知られる儀式です。
「観音懺法(せんぽう)とは?」と講演の最後までわかりませんで、
帰ってから相国寺のHPを開き、抜粋してみました。
私たちは生まれながらにして仏性、仏の心を持っているのですが、
知らず知らずのうちに限りない罪を犯しています。
世俗の社会では法律によって裁かれることになりますが、
私たちはそれとは別に心の世界をもっています。
ここでいう罪とは、日常心の上において犯す罪であり、宗教上の罪であります。
罪を悔いあらため、懺悔の力によって仏の心を取り戻そうとするのが、
懺法という儀式なのです。
観世音菩薩は大慈大悲を御心とし、
抜苦与楽を与えてくださる有難い菩薩なので、
観世音菩薩に自分の罪を懺悔するのです。
観世音菩薩をお迎えし、その前で懺悔する儀式作法を、
観音懺法(せんぽう)といいいます。
能「江口」にも白象に乗った普賢菩薩が登場します。
仏にもいろいろあって、菩薩は仏陀になる前の悟りを求める者で、
ここでは慈悲を司るものとして登場します。
あらすじは、
旅の僧が淀川のほとりにある江口の里へ立ち寄ります。
里人に遊女・江口の君の旧跡について教えられた僧が旧跡を訪れます。
西行法師が江口の君に雨宿りを断られた際に読んだ歌、
「世の中を厭ふまでこそ難からめ 仮の宿りを惜しむ君かな」
を口ずさんでいると、
里の女(梅若玄祥)が現れ、
「世を厭ふ人とし聞けば仮の宿に 心とむなと思ふばかりぞ」
という江口の君の返歌を引いて
「宿を貸すのを惜しんだのではなく、世捨人である西行のことを
思って泊めなかったのです」と語ります。
里の女は江口の君の亡霊でした。
ここで間が入り、里人(石田幸雄)が
「くわしくは知らないけれど 大方語られている物語をつかまつろう・・・」
と、語り始めます。
やがて月の澄み渡る川面に遊女たちの舟遊びの光景が見えてきます。
舟が橋がかりへ運び出され、シテの江口の君とツレの遊女二人が舟に乗り、
「秋の水 漲(みなぎ)り落ちて去る舟の 月も影さす棹の歌」
と三人で吟じます。
謡の文句はきちんと聞き取れませんでしたが、
「まるで声明みたい・・・」
一番印象に残る場面であり、心を揺さぶる謡でした。
江口の君は遊女の身のはかなさや、世の無常を述べ、舞います。
「花よ紅葉よ 月雪の古事も あらよしなや。」
やがて、遊女の姿は普賢菩薩となり、西の空へ去ってゆくのでした。
「白象にのりて西の空へゆきたもう
有難くこそ覚ゆれ 有難くこそ覚ゆれ 」
有馬氏が最後に曰く
「能は悲劇で終わらずハッピーエンドになっている。
仏の力で救われ、成仏する・・・日本の文化の精神に仏教がある」と。
(第2回 神道へ) (第4回 花へ)
のち
写真は上から 「梅林」 (季節の花300提供)
「舞台・・二階席より」
「国宝普賢菩薩像」 (東京国立博物館蔵 ポストカード撮影)