暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

感服係り (つづき)

2009年12月17日 | 茶道楽
だちくゎんさま、ジバゴさまからお知らせいただいた
馬越化生(恭平)翁の写真をご覧ください(井原市史Ⅱより)。
恵比寿さまに似ている・・・と、書かれていましたが、
どうでしょうか?
品のある温厚なお顔ですが、目の奥に鋭さを感じます。

高橋掃庵は「東都茶会記」の「馬越翁桜川茶寮の茶会」(1912年)で
化生翁の亭主ぶりやエピソードをユーモラスなタッチで書いています。

「馬大尽としての翁は豪放不羈の快男児なれども、
 茶会の主人となるときは、ガラリと変わりて
 殊勝らしき謹直家となり、客より道具の質問を受くれば・・(中略)
 ・・恐る恐るこれに答え、ほとんど仰ぎ見るべからざる
 がごとき風情あるは、一奇観なり」

面白いエピソードがたくさんある化生翁ですが、
13歳頃の強烈な体験が茶の湯と深く関わる原点だったようです。

馬越恭平(1844年11月21日-1933年4月20日)(号 化生)は
岡山県後月郡木之子村(現・井原市)の医家に生まれました。

1856年、13歳で大阪に出て、豪商 鴻池家の丁稚となりました。
掃除中に書院に飾ってあった青磁桃花香合を取り落としてしまいます。
これを見咎めた番頭にきつく叱られ、いつの日かこの香合を
買い取ってやろうと心に誓ったのでした。

1873年、益田鈍翁(孝)の縁で上京して井上馨の先収会社に
入社したのを皮切りに実業家の道を歩んで行きます。
後に大日本麦酒(現在のアサヒ・サッポロビール)を創立し、
「日本のビール王」と呼ばれるまでになりました。

1880年頃、益田無為庵(克徳)の勧誘で茶道に入り、
江戸千家の河上宗順について茶を学びました。
茶道具の収集家でもあり、因陀羅筆「寒山拾得図」や
中興名物「田村文琳」などを所持したそうです。
現在、藤田美術館にある「田村文琳」は心惹かれる茶入ですが、
化生翁の手元にあったと知って感無量です。

ところで、あの青磁桃花香合ですが、
1901年頃に鴻池家で茶道具の売り立てがありました。
その時念願の香合を落札し、かつての誓いを果たしたそうです。

岡山県井原市には大阪に出るまでを過ごした生家や、
馬越橋という橋名が郷土に力を尽くした証として残っています。

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