安芸の野良時計・・・土居郭中をぶらぶらしました
つづき)
5月23日 晴れ
第4日目(5月23日)の行程
道の駅「キラメッセ室戸」~第26番金剛頂寺~第27番神峯寺~安芸の野良時計~龍河洞~第28番大日寺~土佐国司館跡(紀貫之館跡)~第29番国分寺~南国ビジネスホテル(泊)
室戸にある24番最御崎寺(ほつみさきじ)、第25番津照寺(しんしょうじ)、第26番金剛頂寺(こんごうちょうじ)の3寺(室戸三山)はいずれも優しく包まれるような魅力を感じ、ゆっくり留まりたいお寺でした。
第26番金剛頂寺の山門
第27番神峯寺(こうのみねじ)への車道は狭く険しいという情報を得ていましたが、聞きしに勝る、今回の車旅で「一番の難所」でした。
「対向車がどうぞ来ませんように・・・」とお大師様に祈りながら、曲がりくねった傾斜のきつい狭い道を登って行きました。往復1台ずつ対向車に出合ったのですが、カーブの広めの場所でラッキーでした。5月末というオフシーズンなのも対向車が少なくヨカッタ!です。
ツレの話しでは、ハンドルを取られないように必死ににぎっていたので手が痛くなった・・とか。
帰宅してからもテレビ番組「ポツンと一軒家」を見ると、「この番組で紹介される山道より神峯寺の方が凄かったね!」という話にいつもなります。
竹林山神峰寺へ辿り着きました
神峯寺の「土佐の名水」を味わいました(雪の下が満開です)
神峯寺へ到着すると、そこは山道が嘘のような別天地です。
清らかな名水が湧き出で、山の斜面には美しく手入れされた庭園があり、本堂と大師堂で般若心境を唱え、道中の無事をお願いしました。
神峯寺を終えてしばし休憩・・・念願の「安芸の野良時計」と「龍河洞」へ寄り道しました。
「野良時計」は土居郭中と呼ばれる一画にあり、近くをぶらぶらして武家屋敷、安芸城址を訪ねてみました。
土居廓中は、戦国期に築かれた安芸城を中心に、江戸時代に土佐藩家老・五藤家により形成された武家町で、今も名残りをとどめています。
上ったり下りたり滝があったり・・・スケール大の鍾乳洞でした
約1時間かけて龍河洞を探索しましたが、ほんの一部だそうです。
龍河洞(香美市土佐山田町)へはウン十年ぶりで2回目の筈が、行ってみると何も覚えていないので・・・もうびっくりです。
龍河洞の解説板などで興味を持ったのは、昭和6年に地元中学の2人の先生によって発見された話でした・・・鍾乳洞の奥へ入り、神秘なお宝を発見した時の2人の驚きや喜びを想像すると、こちらまでドキドキしてきます。以下に興味ある話を抜粋しました。
1931年(昭和6年)中学教諭・山内浩氏と松井正実氏は、それまで洞窟内の難所と言われていた「記念の滝」の崖を登ることに成功し、さらに洞窟内を突き進んで、出口付近で弥生遺跡を発見したのである。
弥生式土器を発見した2人は直ちに保存会を結成し、やがて本格的な発掘調査が数次に渡って行われ、ここが弥生時代中期の住居跡であることが明らかになった。
石灰華に包まれて固着した土器は「神の壺」と呼ばれ、そのほか弥生土器、石器、炉跡などが見つかっている。
「国司館跡」(紀貫之館跡)
午後になり、龍河洞に近い第28番大日寺にお詣りしてから第29番国分寺へ向かうと、国分寺のすぐ手前に広々と整備された場所があり、看板に「国司館跡」(紀貫之館跡)とありました。紀貫之は4年間国司として土佐に滞在し、京都へ帰る船旅中の出来事を記したのが「土佐日記」です。
第29番国分寺の山門
国分寺の境内・・・奥に本堂が見える
第29番国分寺は行基が土佐国分寺として開き、後に弘法大師が中興しました。天平様式を模して造られたという本堂の屋根が美しく、印象に残る札所です。
今は田園地帯の中に杉木立に囲まれ寂しいくらい静かな場所ですが、この辺一帯は平安時代には土佐の国の官庁街で賑わっていたことでしょう。
手入れの行き届いた庭を眺めながらツレと薄茶一服を頂きました。
お菓子は土地の名菓「土佐日記」でした。
この日は街中なので、当日電話して南国ビジネスホテルに宿を取りました。
遍路の身の上であれこれ言えませんが、食堂で頂いた海老フライ定食がボリューム満点で美味しく大満足です。
車で四国遍路 次へつづく 前へ戻る この項のトップへ