暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

車で四国遍路・・・(7)室戸から高知へ

2019年09月06日 | 車で四国遍路

   安芸の野良時計・・・土居郭中をぶらぶらしました

つづき)
5月23日 晴れ 
第4日目(5月23日)の行程
道の駅「キラメッセ室戸」~第26番金剛頂寺~第27番神峯寺~安芸の野良時計~龍河洞~第28番大日寺~土佐国司館跡(紀貫之館跡)~第29番国分寺~南国ビジネスホテル(泊)


室戸にある24番最御崎寺(ほつみさきじ)、第25番津照寺(しんしょうじ)、第26番金剛頂寺(こんごうちょうじ)の3寺(室戸三山)はいずれも優しく包まれるような魅力を感じ、ゆっくり留まりたいお寺でした。


       第26番金剛頂寺の山門

第27番神峯寺(こうのみねじ)への車道は狭く険しいという情報を得ていましたが、聞きしに勝る、今回の車旅で「一番の難所」でした。
「対向車がどうぞ来ませんように・・・」とお大師様に祈りながら、曲がりくねった傾斜のきつい狭い道を登って行きました。往復1台ずつ対向車に出合ったのですが、カーブの広めの場所でラッキーでした。5月末というオフシーズンなのも対向車が少なくヨカッタ!です。
ツレの話しでは、ハンドルを取られないように必死ににぎっていたので手が痛くなった・・とか。
帰宅してからもテレビ番組「ポツンと一軒家」を見ると、「この番組で紹介される山道より神峯寺の方が凄かったね!」という話にいつもなります。


    竹林山神峰寺へ辿り着きました

神峯寺の「土佐の名水」を味わいました(雪の下が満開です)

神峯寺へ到着すると、そこは山道が嘘のような別天地です。
清らかな名水が湧き出で、山の斜面には美しく手入れされた庭園があり、本堂と大師堂で般若心境を唱え、道中の無事をお願いしました。

神峯寺を終えてしばし休憩・・・念願の「安芸の野良時計」と「龍河洞」へ寄り道しました。
「野良時計」は土居郭中と呼ばれる一画にあり、近くをぶらぶらして武家屋敷、安芸城址を訪ねてみました。
土居廓中は、戦国期に築かれた安芸城を中心に、江戸時代に土佐藩家老・五藤家により形成された武家町で、今も名残りをとどめています。

 
上ったり下りたり滝があったり・・・スケール大の鍾乳洞でした


約1時間かけて龍河洞を探索しましたが、ほんの一部だそうです。

龍河洞(香美市土佐山田町)へはウン十年ぶりで2回目の筈が、行ってみると何も覚えていないので・・・もうびっくりです。

龍河洞の解説板などで興味を持ったのは、昭和6年に地元中学の2人の先生によって発見された話でした・・・鍾乳洞の奥へ入り、神秘なお宝を発見した時の2人の驚きや喜びを想像すると、こちらまでドキドキしてきます。以下に興味ある話を抜粋しました。

1931年(昭和6年)中学教諭・山内浩氏と松井正実氏は、それまで洞窟内の難所と言われていた「記念の滝」の崖を登ることに成功し、さらに洞窟内を突き進んで、出口付近で弥生遺跡を発見したのである。
弥生式土器を発見した2人は直ちに保存会を結成し、やがて本格的な発掘調査が数次に渡って行われ、ここが弥生時代中期の住居跡であることが明らかになった。
石灰華に包まれて固着した土器は「神の壺」と呼ばれ、そのほか弥生土器、石器、炉跡などが見つかっている。





         「国司館跡」(紀貫之館跡)

午後になり、龍河洞に近い第28番大日寺にお詣りしてから第29番国分寺へ向かうと、国分寺のすぐ手前に広々と整備された場所があり、看板に「国司館跡」(紀貫之館跡)とありました。紀貫之は4年間国司として土佐に滞在し、京都へ帰る船旅中の出来事を記したのが「土佐日記」です。


       第29番国分寺の山門

     国分寺の境内・・・奥に本堂が見える

第29番国分寺は行基が土佐国分寺として開き、後に弘法大師が中興しました。天平様式を模して造られたという本堂の屋根が美しく、印象に残る札所です。
今は田園地帯の中に杉木立に囲まれ寂しいくらい静かな場所ですが、この辺一帯は平安時代には土佐の国の官庁街で賑わっていたことでしょう。
手入れの行き届いた庭を眺めながらツレと薄茶一服を頂きました。
お菓子は土地の名菓「土佐日記」でした。



この日は街中なので、当日電話して南国ビジネスホテルに宿を取りました。
遍路の身の上であれこれ言えませんが、食堂で頂いた海老フライ定食がボリューム満点で美味しく大満足です。  


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車で四国遍路・・・(6)室戸の空と海と夕陽

2019年09月03日 | 車で四国遍路

    道の駅「キラメッセ室戸」の食堂「食遊 鯨の郷」から見た夕陽

つづき)
第23番薬王寺から次の第24番最御崎寺(ほつみさきじ)までは75.4kmあり、歩き遍路では2泊3日の長く辛い行程だったのが、車だと1時間余で着いてしまいます。
なにか大事なものを見落としているようで、早く着きすぎるのが残念な気がします。
室戸岬にかけて寄り道をしたい番外霊場が点在しています。

先ずは室戸市佐喜浜入木の番外霊場・佛海庵(ぶっかいあん)。
国道55号線に看板が出ていたので、今回も寄ってみました。

僧佛海(1700~1769)は諸国行脚や24回の四国霊場巡礼の後、宝暦10年(1760年)庵を建て、お地蔵さんの石像を自ら刻んでお祀りしました。海辺の難所で立ち往生する遍路を助けたという佛海は生涯に三千体の仏像や地蔵を作り、「木喰佛海」の名が仏像に刻まれています。



10年前に「四国遍路」(岩波新書)の著者・辰濃和男氏の文章に惹かれて佛海庵へ立ち寄った記憶が今なお鮮明です。
1974年当時、法香さんという庵主が居て、雨に降られて困っていた辰濃氏と同行者を泊めてくれたという。五右衛門風呂を沸し、まめまめしく夕食を作ってくれた・・・と書かれています。
一番強烈なのは「ごろごろ石」のこと、次のような記述がある。

庵の前には墓があり、墓の向こうに生きものの影のない黒ずんだ石ころの浜辺があって、
風の強い日、その石の群れが闇の中で一斉にうめきだすという。
道路ができる前、お遍路さんは石だらけの海岸を歩き、難渋し、
ごろごろと鳴る石の音におびえながら先を急いだものだという。 
           (辰濃和男著「四国遍路」(岩波新書)より)


庵の前にある古い墓石群は10年前に訪れた時のままですが、佛海庵(無住)は新築されていました。お堂の中の様子は以前と変わりなく、誰でもお立ち寄りください・・・という佇まいに安堵し、お詣りしました。
昔、困窮している遍路を助けたという佛海庵ですが、今は「宿泊できません」の札が掛かっています。



        番外霊場・御厨人窟から空と海を見る

国道55号線を室戸岬へ向かい走っていると、岬の手前に番外霊場・御厨人窟(みくろど)があります。
今、御厨人窟には五所神社が、右隣りにある神明窟には神明宮が祀られています。
いつでも御厨人窟に入れると思っていましたが、海蝕による落石が頻繁に起こったため入洞が禁止されていました。入口に鉄製防護屋根が設置され、2019年4月末から入洞ができるようになったばかりで、ヘルメット着用で入りました。

洞窟は、空海著「三教指帰(さんごうしいき)」(797年)に記された
「土佐室戸崎に勤念す。谷響(たにひびき)を惜しまず、明星来影(らいえい)す」のまさに修業の場でした。(興味のある方は、空海若き日の哲学「三教指帰」をお読みください)


「聾瞽指帰」(ろうこしいき)(巻頭部分、空海撰・筆、金剛峯寺蔵、国宝)
(注・・空海24歳の著書『聾瞽指帰』は空海50代に改訂し「三教指帰」と改題された)

平安初期、青年であった弘法大師が御厨人窟で修業をし、見える風景は空と海のみ・・・後にここから「空海」の法名を得たと言われています。
また、神明窟で「虚空蔵求聞持法」の修業中に「明星が口に飛び込む」という体験をし、その時に悟りが開けたと伝えられています。



番外霊場・御厨人窟は怖いような暗闇の中に大きな海蝕洞が拡がり、賽の河原のようにおびただしい石が積まれ奉納の蝋燭がゆらいでいる、お籠り堂のような霊場でした。でもあまり長居はしたくない気がしました・・・。
ここから空と海を見ると、明星来影の神秘体験がさもありなむ・・・と。



    第24番最御崎寺の山門

第24番最御崎寺(ほつみさきじ)と第25番津照寺(しんしょうじ)をお詣りし、その日は道の駅「キラメッセ室戸」で2度目の車中泊です。


陽があるうちにツレがいろいろ寝る準備を・・・道の駅「キラメッセ室戸」駐車場にて

道の駅「キラメッセ室戸」はすぐ海が迫っているロケーションが先ず気に入りました。
食堂「食遊 鯨の郷」で頂いた夕食もデザートのジェラード(塩味)も美味しくお勧めです。  
でも一番の御馳走はサンセット。
お店の方が窓のブラインドを全開にしてくれて、まさに夕陽が落ちる瞬間を食堂に居る全員で鑑賞したのも良き思い出になりました。
その場で地図を広げ、5月22日の夕陽の沈んだ位置を推定すると、足摺岬ではなく宿毛市あたりでした。



もう一つ、感激したのはトイレに生けられた花でした。
トイレに行く度に「どんな方が生けたのかしら?」と思い、道の駅「キラメッセ室戸」のおもてなしの心を感じました。

  



夜は潮騒を聞きながら、カーテンの隙間から満点の星を仰ぎ見ながら眠りにつきました。
「あぁ~なんて素晴らしい1日だったのだろう・・・」  
車中泊2泊目なのでだいぶ身体も狭さに慣れたのか、疲れていたのか、朝までぐっすりでした。


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車で四国遍路・・・(5)ロープウェイに乗って太龍寺へ

2019年09月02日 | 車で四国遍路

   太龍寺(たいりゅうじ)ロープウェイ・・・那賀川を取り囲む町や山々が一望できました


(遅くなりましたが、「車で四国遍路」のつづきです。頭のネジを巻き戻して書き出しました。お付き合いくださると嬉しいです・・・)
つづき)
5月22日(水) 晴れ
4日目(5月22日)の行程
道の駅「ひなの里かつうら」~第20番鶴林寺~ロープウェイで第21番太龍寺~第23番平等寺~別格4番鯖大師~第23番薬王寺~仏海庵~御厨人窟~第24番最御崎寺~第25番津照寺~道の駅「キラメッセ室戸」にて車中泊


7時過ぎに道の駅「ひなの里かつうら」を出発し、第20番鶴林寺へ向かいました。
すぐに狭い山道に入りましたが、鶴林寺から下りる車は別の道(太龍寺方面へ行く)を通る筈なので、すれ違う車の心配はほとんどなく、今思うと快適な山道でした。
鶴林寺の愛称はお鶴さん、「一に焼山、二にお鶴、三に太龍、遍路なく」とうたわれた、遍路泣かせの「阿波の三難所」の一つです。
弘法大師の合掌した手に鶴が舞い降りたという伝えがあり、本堂前の2羽の鶴に再会し、懐かしくお詣りしました。


    第20番鶴林寺の山門をくぐる


    早朝なので、灰が美しく調えられた大香炉


美しい三重塔・・・文政6年(1823年)に地元の宮大工が建立したという

次は第21番太龍寺へ向かいました。
今回の遍路は、ロープウェイがある所は利用しよう・・・と決めていたので、大分遠回りしてロープウェイ乗り場・鷲の里駅へ行きました。
全長2775mのロープウェイに乗ると、眼下に曲がりくねった那賀川や緑の山林が広がり、緑の中に白い花が密集して咲いていました。
ガイドさんに尋ねたのですがわからず、空木または山法師でしょうか? 素晴らしい10分の空中散歩でした。



山を越えると、今度は紀伊水道や橘湾の海側が見えてきて、標高600mの山頂駅が近くなりました。
山頂駅近くに舎心ヶ嶽があり、修行している弘法大師の坐像を見ることが出来ます。
延暦12年(793年)弘法大師空海が19歳の時、太龍嶽(舎心ヶ嶽)で百日間にわたり「虚空蔵求聞持法(ぐもんほう)」を修法された修業地で、山頂駅近くの舎心ヶ嶽に修行している弘法大師の坐像を見ることが出来ます。
「虚空蔵求聞持法」は、虚空蔵菩薩の真言を1日2万回、50日間唱えることで、すべての経典を暗記できるという秘法だそうです。


   「西の高野」太龍寺(たいりゅうじ)の大師堂

巨大な杉が聳え立つ境内には古い伽藍が点在し、「西の高野」と呼ばれる太龍寺の落ち着いた佇まいが大好きです。
ご本尊は虚空蔵菩薩。焼山寺に続いて2回目のご真言なので、長く難しいご真言を3返頑張りました。
奥の大師堂で般若心経を唱え出すと、美しく澄んだ鳥のさえずりが・・・「せっかく太龍寺大師堂へ来たのですから、私の啼き声も聞いてね」と聞こえ、仲良く唱和しました。



   からりっと明るく開けた第22番平等寺へ

鬱蒼とした杉木立の下の寺が続いたけれど、田園地帯の丘の上にある第22番平等寺は開放感が溢れ、ここにたどり着くとなぜかほっとしました。
前回、ここで足首の違和感を感じたのだった・・・と思い出しながら、万病や健脚のご利益が名高いご本尊・薬師如来にお詣りする。
考えも進歩的なお寺のようで、こちらの薬師如来は秘仏だったのをやめて、年中拝観できるようになったという・・・有難く、とても素晴らしいことです。


        第22番平等寺・薬師如来に手を合わせて・・・

平等寺で運転をツレと交代し、ここから懐かしい海の遍路道を選んだはずなのだが・・・歩きと車の感覚の違いを思い知らされ、迷ったり、道を間違えたり散々でした。
それでもなんとか海の道を走り、前回お接待して頂いた田井ノ浜・遍路小屋を確認できて、やっと「車は車の道を行くべし・・・」と思いきれました。

別格4番鯖大師と第23番薬王寺へ詣でて、これにて徳島県の札所をすべて終了です。


   ユキノシタが咲き乱れる手水場・・・別格4番鯖大師(だと思う?)にて


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車で四国遍路・・・(4)初めての車中泊

2019年07月10日 | 車で四国遍路


初めての車中泊は道の駅「ひなの里かつうら」(徳島県勝浦郡勝浦町)でした。

慈眼寺(別格第3番)から道の駅「ひなの里かつうら」へ到着したのは17時の閉店間際でした。
「えっ!17時で食堂が閉店なのですか? 近くに食堂があったら教えてくれませんか?」
「喫茶オレンジ」の店員さんがとても親切にお接待してくださって、飲食店やらお風呂の情報を教えてもらい助かりました。
道の駅は17時閉店が多く、食堂や産地直売のモールがあっても車中泊の人にはほとんど役に立たないことがわかりました。
その代りといっては何ですが、駐車はフリー、閉店中なので静かで、トイレが夜間でも使用可能なので有難いです。


       勝浦町の「ガーデンタイムこのむ」で夕食

お勧めのレストランは「ガーデンタイムこのむ」、19時閉店なので最初に行くことにします。
イングリッシュガーデン風の広い庭があり、300種類以上の木や花が植えられているそうです。
早速食事前に散策しました。
白、ピンク、紫の花々が咲き乱れ、庭を見ながら食事できるスペースもあって、素敵で個性的なレストランでした。
こちらで夕食(ツレはピラフ、私はパンが食べたくってオーブンサンドのプレート)を食べました。
お遍路さんなので、なるべく倹約して夕食の予算は一人千円以内です。


     第8番熊谷寺の山門脇の田んぼ

風呂は「清流荘」というデイサービスの施設内に「天然温泉かけ流し・喜楽の湯」があり、入浴料300円で入れるとのことでした。歩くと30分以上かかりそうなので車で行きました。こちらは20時まで。
途中のコインランドリーで3日分の洗濯と乾燥をすませ、21時頃に道の駅へ戻りました。

私たちの他にも車中泊の車が10台ほど居たように思いますが、広い駐車場だったし、手作りのカーテンで窓を覆ったので、外のことはあまり気になりませんでした。
後部座席を倒して設えたベッド部分から段ボール2個(食料、調理器具、食器、雑貨、茶箱などを収納)とリュック2個(衣類が入っている)を運転席側に移すと、そこは快適な(?)寝室空間に早変わりです。


    昼咲月見草と古い道しるべ・・・第9番法輪寺で

いつもなら本を読んだり、パソコンに向かったり、テレビを見たりの気ままな時間帯ですが、電気もなく何もやることがありません。明日のスケジュールを確認して、早々に寝袋へもぐり込みました。
ベッド部分は敷布団2枚を重ねているので、背中も腰も痛くなく快適でしたが、敷布団一枚に大人2人が寝るのですから横幅が狭く、寝返りをうつのが大変でした。

それでも疲れていたし、「天然温泉かけ流し・喜楽の湯」のおかげでポカポカ温かく、いつの間にか寝入っていました。
夜中に寒くって目が覚めました。ツレも寒くって目が覚めたみたいです。
怖いので一緒にトイレへ行ってもらいました。
ふたりとも持って来た衣類を重ね着して、また寝袋にもぐり込み、朝までぐっすりでした。

翌朝、6時に起床。道の駅のトイレが大活躍。
トイレはもちろんのこと、歯磨き、洗顔、飲料水の調達までお世話になりました。
持参の薬缶とコンロで湯を沸し、備え付けの木のテーブルで朝のコーヒーを飲んだのですが、朝食に何を食べたのか・・・う~ん、思い出せません。
今日(5月22日)も車中泊の予定ですが、どこに泊ることになりますやら?


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車で四国遍路・・(3)焼山寺と慈眼寺

2019年07月08日 | 車で四国遍路

     第12番焼山寺(しょうざんじ)の山門


5月21日(火) 雨が上がり青空が広がっています。
8時にホテル四季の里を出発し、遍路ころがしの第12番焼山寺(しょうざんじ)を車で目指しました。
途中、焼山寺から下りてくる車にも合わずに順調に山道を進みましたが、1つだけびっくり!することが・・・。
ナビの指示通りに走っていたら
「本当にこれが焼山寺への道なの? 人も車も長らく通っていない廃道みたいだけれど・・・」
その後も狭く急峻な山道をたくさん通ったけれど、この廃道は一番ひどい経験でした。
それからは愛車のナビが今一つ信用できず、最新のナビを入れておくべきだったと後悔しきりです。





広い駐車場から見覚えのある焼山寺参道を進むと、大師像が傍らにたたずむ山門が聳えています。
山門をくぐると、樹齢500年を超えるという杉の大木の参道が続き、清冽な霊気がみなぎるお気に入りの札所です。
本堂のご本尊は虚空蔵菩薩、
虚空蔵菩薩のご真言は初めてで、しかも超難しく、二人ともしどろもどろで3返唱えました(あまりのしどろもどろさについ笑ってしまい、どうぞお許しを・・・)
   のうぼう あきゃしゃ きゃらばや
   おん ありきゃ まりぼり そわか


焼山寺大師堂ではお大師様がライトアップされていて、これはこれで素晴らしく親しみを覚えます。
読経を終えたらすぐに立ち去るのではなく、弘法大師像(もちろんご本尊も)を拝見するように心がけましたが、そのお姿は札所によってさまざまでした。

参拝者近くに大師像(またはご本尊)を祀っているところ、厨子の奥深くお姿が暗くてよく見えないところ、厨子の扉が固く閉ざされているところ、拝顔どころか階段から堂上へ上がらせない札所もありました。
印象に残っているのは、内陣近くで読経できる札所、読経用の椅子が用意されている札所、ライトアップしている札所、大師像は見えにくかったけれど、天井から釣り下げられた灯籠の灯りが美しく幻想的な札所・・・などなど。

大師像も若き日の御姿を髣髴させるもの、悟りを開いた後の落ち着いた御姿など、いろいろありました。
20日(2日目)の最後に訪れた別格2番童学寺の大師堂には稚児大師(子供の姿のお大師様)が祀られています。
童学寺という寺号は、弘法大師が幼少の頃、こちらで学問修業に励んだ故事に由来しているとか。



 弘法大師が水行を行ったと伝わる「灌頂ヶ滝(旭の滝とも)」

3日目の最後に訪れた別格3番慈眼寺(じげんじ)のことを書いておきます。
山道に入り、しばらく進むと素晴らしい滝に出合いました。
「灌頂ヶ滝(旭の滝とも)」といい、弘法大師がこの滝で水行を行ったことからその名がついたと伝わっています。
直下70mの雄大な滝は見ているだけで身に付いたこの世の垢が洗い流されるようでした。
晴天時の8時から10時頃に滝の飛沫が五色の虹に彩られ、「不動の来迎」と崇められているそうです。

15時30分頃に慈眼寺に到着。
鐘を突いてから本堂(?)にお詣りすると、「こちらは大師堂で、本堂は20分ほど階段のある参道を登ったところです」と寺の方が教えてくれました。
「穴禅定へ行きたいのですが・・・」と尋ねると、
「穴禅定へは15時過ぎているので今日はご案内できません」

穴禅定についてよくわからなかったのでいろいろ尋ねてみました。
弘法大師19歳の時、修行中に夢のお告げにより不思議な鍾乳洞を発見した。
弘法大師は洞窟の邪気を払うため護摩をたいて洞窟を清め、悪魔悪霊を洞窟の壁に封じ込め、末代衆生のため結縁潅頂の秘法を修せられたそうです。この洞窟の行場が穴禅定でした。

本坊で着替えてから案内の導師と一緒に心身を清めてから穴禅定(鍾乳洞)という行場へ入る習わしになっています。
僅か100メートルの洞窟ですが、案内の導師の言われるとおりにしないと進退窮するそうで、素直な自分(心)を取り戻す御利益があるそうです。
穴禅定を無事に御参りできると、他にも無病息災、金運、開運などの御利益がいただけるとのことでした。



     20分登り、慈眼寺本堂へ辿り着きました

本堂まで約20分かけて登り、お詣りしました。
急階段の参道には楓が数多く植えられていて、秋の紅葉の美しさを想像しました。
ご本尊は十一面観世音菩薩。
本堂近くに怖いような霊気を感じる岩屋の行場(水行を行う)がありました。
岩屋の上方に穴禅定の入口があり、それなりの修業の覚悟を持つ行者がお詣りするところだと思い至り、すごすごと退散したのでした。

初めて車中泊をする道の駅「ひなの里かつうら」へ向かいました。


       岩屋の行場(水行を行う)


穴禅定(洞窟の行場)の入口

第3日目行程
第12番焼山寺~第13番大日寺~第14番常楽寺(池の畔の参道が懐かしく、自然の岩盤を生かした「流水岩の庭園」にまた出会えました)~第15番国分寺~第16番観音寺~第17番井戸寺(面影の井戸に我が身を映しました)~第18番恩山寺(古い札所の雰囲気があり、大好きな寺です)~第19番立江寺(前回、尺八さんと再会した寺)別格3番慈眼寺~車中泊(道の駅「ひなの里かつうら」泊)

  
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