麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第250回)

2010-11-20 22:23:25 | Weblog
11月20日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

何週間か前、初めて「伊豆の踊子」を読みました。
最初に買ったのは小学校6年のとき。なんのことだかさっぱりわからず(だいたい「踊子」がなんなのかわからない)、最初の1ページでやめました。その後、何十回も挑戦したのですが、どうもリズムが合わないというか、読み進められなくて、そのたび挫折しました。映画も一度も見たことがありません(どうでもいいですが、ついでに書けば、私は同じ年生まれの山口百恵をいいと感じたことが一度もありません。中学のころ、よく「おっさんに人気があるなんて気持ち悪い女。中学生を好きだというおっさんも気持ち悪いけど」と思っていました)。

今回は新潮文庫でなく、わざと今風のイラストの入った集英社文庫を買ってきました。そのおかげというわけでもないでしょうが、ゆっくり自然に読めて、とてもおもしろかったです。ただ、これが映画になるようなものなのかどうかはよくわかりません。また、自分にとってどうしてもなくてはならない小説かといわれると、まったくそうではないと思います。でも、名高いノーベル賞文学をちゃんと読めて、よかったです。

私は、日本文壇史のようなものにまったく興味がなく、誰が何派なのかとかまったくわからない。でも、川端康成が新感覚派と呼ばれていたことくらいは日本史で習って知っています。また、その仲間に横光利一がいたことも知っています。

横光利一の「春は馬車に乗って」を、半年ほど前に初めて読んで、とても感動しました。そうして今日、近所の本屋に行ったら、今流行りの、「カバーを若い女の子の写真にした著作権の切れた小説の文庫」で「別れ」をテーマにした短編集が出ていて、その中に、太宰治の「グッド・バイ」や鷗外の「普請中」といっしょに横光利一の「花園の思想」が入っているのを見つけました。立ち読みを始めたら、思わず引き込まれて買ってきて読みました。「春は馬車に乗って」の続編というか完結編というか、奥さんが亡くなったときのことを書いたものですが、「春は~」と同様、絶望的な悲しみの中になにか不思議な明るさのある作品で、やはりとても感動しました。いつか「旅愁」も読んでみようと思いました。



ご存知の方も多いでしょうが、
岩波文庫からも「失われた時を求めて」の新訳が出始めました。
なんてこと。新訳文庫と同じ全14冊で出るようです。すごい、を通り越して、ちょっと不気味な現象です。

訳者は、「プルースト全集」と、そのあと文庫化された「プルースト評論選」で「サント・ブーヴに反論する」を訳された吉川一義さんです(プロフィールはわかりません)。もちろん買ってきて読みました。新訳文庫と甲乙つけがたいと思いますが、どちらかというと、吉川さんの訳が好きです。新訳文庫の訳者は若く、私の苦手な「そのとき思ったのだけれど、」などという、「だけれど村上春樹節」を多用するので、読んでいると「プルーストを読むのに村上春樹は必要ない!」と、イライラがつのってくるからです。個人的すぎる意見ですみません。

でも、まあ思うのは、ある本について深い読書ができたときには、翻訳ものの場合、そのときの訳が自分にとって決定訳になるのは当然ということ。私にとってプルーストは(誤訳もあるらしいですが)やはり、井上究一郎訳しかないのでしょう。あの、センテンスの長い、ちょっと感傷的な、「まるで~のように。」で終わる文が多いあの感じ。あれが、私のプルーストなのでしょう。「カラマーゾフ」は池田健太郎訳以外なく、「罪と罰」は江川卓訳か小沼文彦訳、「悪霊」は小沼文彦訳、「白痴」は今回の河出の新訳というのと同じことです。

そうだ。新訳文庫から「ツァラトゥストラ」も出ましたね。買いました。でも、ダメです。私の年だと、これは笑ってしまう。これはツァラトゥストラではない。でも、今高校生がこれを読んで心をうちぬかれるのなら、それはとてもいいことでしょう。そういうのはもうどうしようもないことなので。そのこととは関係なく、「ツァラトゥストラ」もずっと読み返していますが、このごろは岩波文庫の訳が一番いいのかもしれないという気がしています。ただ、やはり第一部は、私にとって吉沢伝三郎訳以外ない。浪人のとき出会ったあの衝撃。「ハエたたきになるのは君の運命ではない!」。すっかり一匹のハエ男になった今もダリの時計みたいにふにゃふにゃになる心を支えてくれるのはツァラトゥストラだけです。



では、また来週。
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