麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第33回)

2006-09-17 01:59:37 | Weblog
9月17日+18日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

念願の秋が来て、とてもうれしいです。

本好きとしてもうれしいことがひとつ。

光文社文庫から、古典の新訳シリーズが出ましたね。
「カラマーゾフの兄弟」、「小さな王子(星の王子さま)」、「マダム・エドワルダ」など。

「カラマーゾフ」の新訳は、私の知る限り、池田健太郎訳以来、30年ぶりくらいではないでしょうか。訳者は、去年か今年の頭に、みすず書房の「理想の教室」シリーズで「悪霊」の「スタヴローギンの告白」を新訳した人です。たしかにその訳はよくて、私はこの人の「悪霊」の新訳がでるのかな、と思っていたのですが、「カラマーゾフ」が先だったようです。
「カラマーゾフ」はたぶん、5回くらい読んでいますが(すべて池田健太郎訳で)、今度の訳は、たしかに日本語が自然で、読みやすいと思いました。導入部が、とにかくまどろっこしいので、ここでゾシマ長老の言葉があまりにジジ言葉に訳されていたり、説教くさくなっていたりすると、先に進む気力が萎えてくる人が多いでしょう。そのせいで次に進めなかった人には、絶好の訳です。

 しかし、まあ、私にとって「カラマーゾフ」とはなにかといえば、それは「ミーチャ」の章と、「少年たち」の章である、ということになるでしょう。
 ミーチャ(ドミートリー・カラマーゾフ)が、グルーシェンカを完全にあきらめ、彼女が追っていった昔の男と友だちになろうとして、ただその道化役を遂行しようとして、真夜中にモークロエ村まで馬車を飛ばす場面。もう、信じられないような、ドン・キホーテ的な、笑えて泣ける場面です。でも、それをとても若いときに読んだ私には、そのときの夜空がまるで自分で体験したもののように、記憶に残ってしまっています。
 また、「少年たち」の章のこみいった設定。おそらくほかの誰も思いつかないような展開、それなのにまるで本物の少年が書いたようなリアルなディテール。(作者は60歳のはずなのに)

 私はよく、20世紀の作家は、ドストエフスキーをタネ本にして、その中から自分が得意なところを取り出して発展させただけだ、と感じることがありますが、「少年たち」の中には、サリンジャーがのちに発展させたものが多く入っていると思います。
それは、「大審問官」を、サルトルやカミュ、埴谷雄高らが発展させたということと同じです。
ドストエフスキーは、そういうさまざまな方向を1人で抱えているというところがなによりすごいと思います。
あまりにその「哲学」ばかりが話題にされることの多いドストエフスキーですが、私はそれはまったく間違っていると思います。ドストエフスキーは、ディケンズやゴーゴリを師とあおぎ、なによりも感動を狙って書いたのですが、シェークスピアも大好きだったために、せりふが長くなりすぎて、小説としてはちょっと散漫になったのだと思います。「大審問官」にしても、それはたしかに深刻な話ですが、その思想も、それを語るイワンも、作者にとっては1人の登場人物とその考えに過ぎない。つまり、作者の中のいくつかの人格のひとつに過ぎない。たぶん、「大審問官」の提示する問題の解決は、イワン、アリョーシャ、ミーチャ、スメルジャーコフ、フョードル、グルーシェンカなどなどの人格・考えの総合である作者その人の中に、作者がそれらを抱えながら生き生きと生きていたということの中にすでにあるように思います。

ずれてきましたが、私は「ミーチャ」と「少年たち」の章をこれから新訳で読めるのが楽しみだ、と言いたかったのです。

今週は、「友だち」の3回目を、「風景をまきとる人」の33回と同時に読んでいただこうと思います。

では、また来週。

※9月18日、午後5時40分、「友だち」第3回、改稿しました。