麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第275回)

2011-05-15 20:46:14 | Weblog
5月15日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

「紅楼夢」を読んでいます。
講談社世界文学全集で1976年に出た抄訳(一冊本)。
訳者は岩波文庫の全訳を手がけた松枝茂夫さんという先生で、全訳の四分の一の量。それを今半分まで読みました。とてもおもしろいです。

二年前、やはり講談社から出た「要訳 紅楼夢」を読みました。
今回の本はそれ以前からずっと持っていたのですが、いつか読もうと思っただけで本棚の飾りになっていたもの。

「要訳」のほうは女性が訳者だったせいもあって、登場する女性たちの生き生きした姿が前面に出てくるように構成されていました。たしかにそれも作者の意図のひとつだと思いますが、より全訳に近い形で読むと、やはりこの小説は、宝玉(ほうぎょく)という少年のお話なのだとわかります。

貴族に生まれ、ほとんど屋敷の外の世界を知らずに、多くの召使やお手伝いの女性に囲まれて育ち、祖母や母親にあまやかされ、学問を熱心にやるわけでもなく、なにか武術のようなものを習うわけでもなく、毎日感受性だけを全開にして生きる虚弱な男の子。林黛玉(りんたいぎょく)という少女(いとこ)とのやりとりはあまりに微妙で幼く、また甘美です。本当は2人はお互いを一番好きなのに、幼い頃からいっしょにいすぎたために、うまく恋愛の方向に移行できずにいる。また、宝玉は少年ながらすでに女中と肉体関係を持ち、黛玉もそれを知っている。そういうシチュエーションが、つねに2人の間に仲たがいと仲直りを繰り返させる。そのつど「もう死にます。二度と会いません」などと、大げさなやりとりをし、泣きわめき、また泣きながらお互いを抱きしめる。

これに最も近いのは、やはり「失われた時を求めて」でしょう。語り手の少年時代、ジルベルト・スワンとのやりとりがすぐに頭に浮かんできました。相手のちょっとした不注意なひと言に傷つけられ、その原因を自分のうちに探り、「それを許してくれないならもう死にます」などと手紙に書いて出し、またそのことを後悔して手紙を取り戻そうと考えたりする。

どちらも、作者は実際にこういう経験を持ったのでしょう。

現実には、作者・曹雪斤は、14歳ころ自分の家の没落を経験し、最後は貧困と不遇のうちに死んだと解説に書いてあります。「紅楼夢」には、虚無的な雰囲気が漂うところも多々あります。それもまた、体験によるのでしょう。誰にもわかるのは、この小説を書くことが、作者にとって永遠の少年時代を生きる方法だったということ。

庭園に散り落ちた花びらが川面に浮かぶのを見て、あれはあのまま流れて行くと、邸の外に出て行き、きたないものが捨てられた下流の水に穢れてしまう。だから花びらは集めて土に埋めよう、と黛玉が提案し、2人は花を埋葬する。たぶん、それも作者の実体験でしょう。なんという甘美な記憶。このような記憶のある人に現実の不遇がどれほど意味をもっていたか。おそらく大した意味はなかったに違いありません。

ゆっくりと最後まで読もうと思います。
何年か先には全訳を読みたいと思います。

では、また来週。


コメント
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