麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第46回)

2006-12-17 17:09:47 | Weblog
12月17日


 立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

「世界のしくみ」に来てくださった方々、本当にありがとうございました。
1週間という短い開催期間で、午後1時から7時という、かなり自由になりにくいと思われる時間の中、予想以上に多くの方に見ていただいて、宮島氏も私も驚きです。
 小さい催しですが、2人とも、今年はこのために仕事をこなしてきたようなもの。それがなんとか形になって、なおかつ多くの人に見ていただけてよかったです。

 これから、展示物を片付けにいってきます。

 今週は、前から書いてみたいと思っていた「ピアニスト」という創作を頭だけ読んでいただこうかと思います。ストーリーはまったくなく、長くなるか短いまま終わるかもわかりません。よければ、ちらと読んでみてください。

 最近は、そのときそのときのことを書いた文章がほとんどありませんが、これはなによりも、日銭稼ぎの仕事が忙しいからです。
 年が明けて、2月ころになったら、以前のペースを取り戻して、思いつきの感想文なども書いていこうと思います。
 もちろん、「友だち」も進めていきます。

 よろしくお願いします。

 では、また来週。
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ピアニスト (第1回・不定期連載)

2006-12-17 17:00:04 | Weblog
 ……ピアニストは、椅子を引き、腰かけた。
 ゆっくり腰かけるイメージを頭の中では描いていたが、尻を椅子の板の上に沈める瞬間、焦りを感じ、動作が速くなってしまった。それは、ピアニストが恐れを感じたからだった。彼にはそのことがはっきりわかっていた。
 どんな恐れか。つまり、自分は椅子に座れないのではないかという恐れだ。椅子に座るには、椅子が存在しなければならない。しかし、彼は、彼の尻の下で、椅子がどこかへ滑り出してしまうかもしれない可能性を思いやった。これは比ゆだ。これは、いま表現した言葉が想像させるような、たとえば、椅子を誰かが押して椅子の位置が変わってしまう、というようなことではない。本当には、椅子の存在が消えることである。椅子という存在は、別の存在に対して「それは空気ではない。それはピアノではない、それはドアではない、それはドアノブではない、それは私ではない」というところで、椅子という存在であるわけだが、彼にはいま、その椅子が、どこを境界線として椅子であるのかが、わからなくなりそうだったのだ。だから、椅子の存在がいまにも消えてしまうのではないかとおそれたのだ。しかし、このことは、彼が椅子に座ろうとした動機がどういうものであるのかを明かしている。もし、彼が疲れて自分の体を足で支えておけなくなったのなら、彼は椅子の存在を意識もしないでその上に腰かけることができたろう。それこそがふだん現実と呼ばれるものであり、そうやって腰かけた椅子は、椅子と意識されないことで、鼻血の出そうなほどの存在充実を持つからだ。しかし、彼はいま、そのような動機から椅子に腰かけたわけではなかったのだ。では、その動機とはなにか。それは、彼が「僕は椅子に腰かける」という文を成立させたいと願った、そのことである。彼は、「僕は椅子に腰かける」という文を成立させることで、休息したかったのだ。
                        (第2回に続く)
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