麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第1回)

2006-02-04 22:12:41 | Weblog
最初の土曜日がやってきました。

今日から週に一回の予定で、『風景をまきとる人』を連載のような形でお送りし、また、短編をひとつ併載させていただきます。

まずは、なんといっても、自己紹介を、遅ればせながら、させていただくべきですよね。といいつつ、「、」ばかりが並ぶのも、私があまりそんなことをしたくないという心の表れだと思います。
しかし、やはり、何もそういうことをしないのも失礼かもしれないと考え、書きます。

麻里布栄は、もちろんペンネームです。
麻里布とは、私の生まれた町の名前、栄は母の名前です。
戸籍にも書いてありますが、私は麻里布町一丁目で母の股から生まれました。
ですから、このペンネームは、自分にとって、「ゼロ地点」というような意味になるかと思います。
性別は男。1959年11月生まれです。
父方の薩摩地方の血と母方の中国地方の血を併せ持つ混血児です。
小学校から高校まで、地方の公立校に通い、地元で1年浪人したあと、東京の私立大学に入学し、上京しました。2年留年し、社会に出てからは、30代の半ばまでは主に編集者として飯を食っていました。そのあとは、ほぼ、『風景をまきとる人』を書くことと、それを本にすることに費やしたといっても過言ではありません。

これが、だいたいのプロフィールです。

もう少し、内面的なことを書けば、高校2年生の前半まで、およそ文学とは縁のない人間で、好きな科目は唯一数学、趣味は音楽でした。
高2の半ば以降、急に文学が好きになり(よくあるパターンだと思います)、文系に鞍替えしたかったのですが、すでにコースは理系で決まっており変更は不可。そのせいもあって、学校に行かなくなったり、出席しても2限で帰るなどという生活が続き、何とか進級できましたが、卒業時には2科目追試を受けました。
1年後、第一志望の大学に受かったのはいいのですが、1限が8時20分開始ということにまず驚き、続けて大学が出席を取るということにも驚き(私は、文学部というところは1年中本を読んでいれば卒業できると思っていたのです)、あわわと思っているうちに、3年が過ぎていきました。しかし、そうやって教養課程で留年している間に少しずつやりたい勉強が見えて、専門に進級してからは、自分でも驚くほど勉強しました。強制されない勉強はとても楽しかったです。

学生当時から、やはり、文学部の学生ですから、自分で何か書いてみたいと思い、何度かやってみましたが、当時は原稿用紙2枚以上の文章をつづるのは私にとって至難の業でした。たぶん、少し神経症的な病気だったと思うのですが、「僕は、今日とんかつを食べた」というような単純な文を書くのさえ、「『僕』とは、なんのことだ? おまえはその意味をわかりながら書いているのか」などと疑念がわき、『僕』という概念は何なのかということを考えているうちに、一文字も進まなくなるのです。
このような状態から、なんとか脱出したいと思い、やり始めたリハビリは、寝ている間に見た夢を書くことでした。
夢に出てくる風景や人物は、たしかに、元々は私が作り出したものなのでしょうが、その、元になった経験と、夢の世界の因果関係は、無意識の領域内に隠されていて知ることはできません。それをいいことに、私は、「それはどういう意味なのか」という自分自身の突っ込みに、「知らないよ、意味なんか。夢で見たんだから」と言い訳をすることで、少しずつまた文が書けるようになりました。
(このころ書いた短編もこれから、載せていくつもりです)

仕事に就いてからは、自分では「さらなるリハビリ」と称し、ありとあらゆる文章を書きなぐり、書き捨てました。もちろん、そうしないと生活できなかったから、というのも事実ですが、そうすることで、文章に厳密な突っ込みをする自分を抹殺し、その代わりに三流ジャーナリストとしての、「書きゃいいんだよ。埋めりゃいいんだよ」というニヒリスティックなキャラを自分の中に作り上げ、そいつに奉仕するマゾ的自分を楽しむ……。なんだかそんな復讐的な動機で「書くこと」に接していたように思います。自分を苦しめるだけ苦しめ、そのくせ才能は与えてくれなかった文章の神に対する復讐的な気持ちで。

当然、文学に対する考えも変わっていきました。出版の世界にいると、さまざまな仕掛けが見えてきます。いやらしい話もいろいろ聞きます。近くで見もします。「どんな文学書も商品に過ぎない」。いつのまにか私の中のニヒリスト・ジャーナリストは、私の全部をのっとって、そう言い始めていました。
また、大人になった私には、以前にもまして、作家の、その作品を書いた動機が見えるようになり、その動機がどうやら最終的には、どれもこれも自分の自慢なのだと考えるにいたって、作ろうとしている人すべてに、うんざりしました。
作家たちのことを、まるで「自分キチガイ」のような人間の集団がいる、というふうにしか感じられなくなっていったのです。

……長くなりすぎました。

この続きはまた来週。

今回、掲載します短編は『絵本』という童話です。23歳ころ書いたもので、ノートに殴り書きで一気に最後まで書き、いまだにどこも直す必要を感じないという、唯一の作品です。
短編のほうは、『夢』、『童話』、『詩(の様なもの)』、『その他』に分けられるような感じです。ランダムに提出していくつもりです。

それでは、『絵本』と、『風景をまきとる人 第一回』をよろしくお願いします。

                                麻里布栄
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絵本 (短編1)

2006-02-04 22:06:56 | Weblog

 絵本の中の3ページめで、主人公の、青い目の赤いジャケットの小さな男の子は、自分のお話に飽き飽きしました。
 なぜって、もう何百回となく同じ森の中を通ったり、同じ女の子と踊ったり、同じ山に登ったりしたのですから。
「あーあ、なんてつまんないんだろう」
と、男の子はいつもの森の切り株の上に座ってため息をつきました。
「これからまたあの女の子に会って『やぁおはよう』『踊ろうよ』『じゃあまたね』って言わなくちゃいけないんだなあ」
 空には、いつものように赤いでんでん虫のようなおひさまがはりついています。
 でも、男の子は、いくらうんざりしても、同じことをくりかえすしかなかったのです。
 なぜって、男の子は自分が絵本の中にいるのだとは知らなかったし、だから絵本の外にも世界があるということも知らないのです。
「ああ、なんてつまんないんだろう」
と、また男の子はため息をつきました。
 すると、向こうからもう何百回も見慣れた女の子がかけってきます。
「やあ、おはよう」
と、男の子は言います。いくらうんざりしても男の子はこう言うしかないのです。
「あら、おはよう」
と、青い目の白いエプロンの赤いスカートの女の子は言います。女の子のほうはいつも本当に楽しそうで、何百回も同じことを平気でやっています。男の子にはそれがふしぎでふしぎでなりませんでした。
 でも、男の子だって初めからうんざりしていたわけではありません。
 初めの百回くらいまでは、絵本の最後まで行ってまた最初のページに戻ると、もうどんなお話だったか忘れていたのです。
 けれども何回目からかは覚えていませんが、男の子はだんだんお話を思い出すようになったのです。そして「ああ、これからぼくは山へ登るんだっけ」というふうに、山へ登る前のページあたりでわかってしまうようになったのです。そのうちには10ページ先のことまでもわかるようになり、いまではもうお話をすっかり覚えてしまっています。
 自分のお話を全部覚えてしまった絵本の中の主人公がどうしてうんざりせずにいられるでしょう!
 目の前に立っている女の子に、
「踊ろうよ」
と、男の子は言います。本当は、もう踊りたくないんだけれど。
「ええ」
 女の子は言います。
 ふたりは森の動物たちといっしょにワルツを踊ります。ト長調の美しい曲でしたが、男の子にはうんざりでした。
 でも、男の子の顔はにこにこ笑ったままです。男の子はその顔以外の顔のことを知らないのです。いえ、男の子にとっては顔というのは、にこにこしている顔のことでしかないのです。
 男の子と女の子は踊りながら森をぬけ、もうひとつ森をぬけ、おまけにもうひとつ森をぬけていきました。すると、大きな川のそばまできたところで夜になりました。
 いったい何ページくらいたったのでしょう? いっしょに踊っていたはずの動物たちはいつのまにかみんないなくなってしまい、群青色の空には赤いでんでん虫のおひさまのかわりに、今度は気どった紳士の横顔のような三日月のお月さまが出ています。
 女の子は夜をこわがってふるえています。
 男の子は、けれども夜が大変好きで、だからこのページがいちばん好きでした。
 川のそばでお月さまを見ていると、そのときだけ男の子は「ああ、もしかしたらこのお話よりほかにも別のお話があるのかもしれない」と思うことがありました。
 絵本の外のことが、男の子には少しわかるのでした。
 女の子は男の子のとなりで、飽きもしないでぶるぶるふるえています。
 すると、おきまりのオオカミが森の中から現れて、
「食べてやるぞー」
と、言いました。
「た、助けてオオカミさん」
 女の子は泣きながら叫びました。
「ぐるるる、うまそうな子どもたち、どっちを先に食べてやろう?」
 オオカミは言います。
 それからオオカミは女の子に飛びかかり、それを男の子がぽかりぽかりと打ちこらしめて、オオカミはすごすごと森へ帰ってゆく、というのが、この絵本のお話です。
(なんてつまらない絵本でしょう!)
それで、オオカミは女の子のほうへ飛びかかりました。「キャーッ」と、女の子が叫びました。
でも、どうしたことでしょう? 男の子は女の子を助けないのです。
男の子は、お月さまを見ているうちにふしぎな気持ちになって「ぼくは女の子を助けない」と、初めて自分で自分のことを決めることができたのです。
オオカミも女の子も、これにはちょっとびっくりしたようでした。けれどもオオカミも絵本の中の月の光のせいでしょうか、いつのまにか本物の、おなかをすかせたオオカミになっていたのです。
オオカミになったオオカミは、むしゃむしゃと女の子を食べはじめました。
女の子は「キャー」とか「痛い」なんて言わないで、にこにこ笑いながらオオカミに食べられていきました。いつもなら、男の子がオオカミをぽかぽかとげんこつでなぐっているのをうれしそうに見ている時分だったからです。
にこにこ笑いながらオオカミに食べられている女の子を見ながら、男の子はうれしくてうれしくてしかたありませんでした。
といっても、女の子が食べられるのがうれしいわけではありません。
そんなことはどうでもいいのです。
男の子は、自分がいつものお話とはちがうことができた、そのことがうれしかったのです。
オオカミは女の子をすっかりたいらげてしまっても、まだおなかがいっぱいになりませんでした。だってオオカミは、この絵本ができてからずっと、何も食べていなかったのですから。それでオオカミは今度は男の子を食べようとおそいかかりました。
男の子は、すなおに足のほうから食べられていきました。
男の子もやっぱり、食べられながらにこにこ笑っていました。
でも、それは、女の子とはちがって本当にうれしかったのです。
男の子は、初めて本当にうれしくてにこにこ笑いながら、オオカミのおなかの中へ消えてゆきました。

お話の主人公のいなくなった絵本は、もうどこにもありません。
いえ、こんなつまらない、いいかげんな絵本など、もちろん初めからありはしませんでした。
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