4月2日。金曜日。快晴。
昨日から 『主の過越の聖なる三日間』 です。
今日は、 『主の過越の聖なる三日間』の中日&中心、 『聖金曜日』 です。
『神の国』 の訪れを言葉と行動をもって現されたイエス・キリストは
主の受難 と 死 と 復活

『磔刑図』 アンドレア・マンテーニャ作品
受難と死を通して、復活の栄光に移られました。
これが 『主の過越』 です。
これらは 『典礼歴の一年の中心』 です。
そしてそれらは、 キリスト者としての私たちの 『信仰のよりどころ』 です。
それらは、イエス・キリストによって示された私たちへの 『神の愛の神秘』 なのです。
『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』
と言われた イエス・キリストは、

『十字架の立てられた聖穴』 於。聖墳墓教会。2018年巡礼時に
『イエスの御言葉』とおりに・・・
私たちを友として、 私たちのために命を捨ててくださったのです。
私たちがどのような者であったとしても、
その私たちのすべてを許し、
私たちをご自分のおられるところ・『父なる神の懐』 に招き入れるために、
ご自分の命を与え尽くしてくださいました。

十字架の立てられた場所で・・・ 『感謝の巡礼団ミサ』 2018年巡礼時
これにまさる『愛』があるでしょうか。
この『愛』を信じ・・・ この『愛』を語り継ぐために・・・
私たちは、キリスト者 となったのです。
四世紀のエルサレムでは、
木曜日の夜から続く徹夜の祈りの後、
夜が明けると、人々は、ゴルゴタの丘に建てられた教会堂(聖墳墓教会)にもどり、
キリストとの受難の出来事の中から、 『ピラトによる尋問』 の朗読を聞きました。
その後も、聖書を読み続け・・・
午後3時。 ヨハネ福音書から、 『キリストの死の箇所』 が朗読されました。
更に。 ゴルゴタの丘の教会堂に集まり、
キリストの『復活』に希望をおいて、詩編による、
『徹夜の祈り』 をささげました。
そして。
今日は4月2日。聖金曜日。
『主の受難』
キリストの受難と死を思い起こす『主の受難』の祭儀は、
金曜日の午後、できればキリストが息を引きとったとされる三時頃に行われます。
なお、
『キリストの受難と死』 は 『主の過越』の途上の出来事なので、
『主の過越』を記念する『ミサ』は行われず、
『主の到来』を待ち望むための、 『過越の聖なる断食』 が守られます。
でも、
ミサの中の『交わりの儀』で、
昨晩の『主の晩餐の夕べのミサ』の中で聖別された『聖体』を受け、
キリストとの一致のうちに、 『復活』への希望を新たにするのです。
皆様!
今日は、私が2018年に 『聖墳墓教会』 を巡礼したときに撮影しました写真とともに、
『救いの歴史』 におけるキリストの『聖金曜日の受難と死』の意味を思い起こし、
『聖金曜日』 を過ごしたいと思います。
よろしくお願い申し上げます。
キリストが『十字架』をかついで歩かれた・・・

『十字架の道行き』
『1留』:『イエス死刑の宣告を受ける』 から 『14留』:『イエス墓に葬られる』まで
炎天下の中で歩み続けると・・・
着いたところが・・・ 『墳墓教会』
『キリストの磔刑』 の場所に建つ教会。
『道行き』で・・・キリストの 『受難の金曜日』 の一部を追体験をさせていただきました。
キリストに賛美と!感謝!
『今日の第一朗読 主の僕第四の歌』
『主は言われる。
見よ、わたしの僕は栄える。

『主の僕・十字架のイエス・キリスト』
はるかに高く上げられ、あがめられる。
かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように

彼の姿は損なわれ、人とは見えず、 もはや人の子の面影はない。
それほどに、彼は多くの民を驚かせる。
彼を見て、王たちも口を閉ざす。
だれも物語らなかったことを見、 一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。
聖墳墓教会内の 『小さな階段』 を上ると・・・
そこは・・・ 『イエスの十字架が立てられた場所』

巡礼団司祭様たちと巡礼者たちで、『賛美と感謝のミサ』 をささげました。
わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。
見るべき面影はなく、 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

十字架からイエス・キリストが降ろされて 『安置された石板』
多くの人が、 『石板』 にしがみつき、 涙を流していました。

私たち巡礼団のシスター様たちも、『石板』 にひざまずきます。
彼は軽蔑され、 人々に見捨てられ、 多くの痛みを負い、 病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し、 わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのは わたしたちの病
彼が負ったのは わたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた、 神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは、 わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは、 わたしたちの咎のためであった。

『ピエタ』 ミケランジェロ作品 ヴァチカン・サン・ピエトロ大聖堂
『ピエタ』とは、哀れみ・慈悲、等の意味。
『聖母子像』・・・十字架から降ろされたキリストを抱く母マリア様のつらさはいかばかりでしょう。
彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
わたしたちは羊の群れ、 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。
苦役を課せられて、かがみ込み、 彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。
捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、 命ある者の地から断たれたことを。
彼は不法を働かず、 その口に偽りもなかったのに
その墓は神に逆らう者と共にされ、 富める者と共に葬られた。
病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、 彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる。
彼は自らの苦しみの実りを見、 それを知って満足する。
わたしの僕は、 多くの人が正しい者とされるために、 彼らの罪を自ら負った。
それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、 死んで、 罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い、 背いた者のために執り成しをしたのは、 この人であった。』
イザヤ書 52章13節ー53章12節

多くの人がひざまづく・・・ 『キリストの墓』 巡礼時に
順番が来まして、一人ずつ・・・
私たちの腰の高さよりも低く 又 狭い、 『墓の入り口』 をもぐり込むように中に入ると、
中に、『イエスのご遺体』 が安置されていた 小さな『聖場所』がありました。
復活への希望のうちに 『十字架の勝利』 を賛美するものです。
今日の司式司祭様の説教。 ほんの一部です。
『私たちは、救われる時・・・
”ああいうふうに救われたい!” とか ”救いはこういうふうであるべきだ!”
とか、それぞれに考えます。 それぞれに希望があります。
しかし、
キリスト様の 『救いの方法』 は 『十字架』 でした。
これぞ、人間ではくみ尽くすことができない、 『神の神秘』 なのです。』
『今日の祈願』
『あわれみ深い神よ、
御子キリストは、あなたの民ためにご自分の血によって、
『過越の神秘』を定めてくださいました。
いつくしみを忘れず、この民を永遠の愛のうちにお守りください。』
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
本日はお天気がよく、
受難のイエス様が、十字架上から、
私たちに微笑みかけてくださっているのでしょうか。
『主の過越の聖なる三日間』の残り二日間を、 祈りの二日間にいたしましょう!
昨日から 『主の過越の聖なる三日間』 です。
今日は、 『主の過越の聖なる三日間』の中日&中心、 『聖金曜日』 です。
『神の国』 の訪れを言葉と行動をもって現されたイエス・キリストは
主の受難 と 死 と 復活

『磔刑図』 アンドレア・マンテーニャ作品
受難と死を通して、復活の栄光に移られました。
これが 『主の過越』 です。
これらは 『典礼歴の一年の中心』 です。
そしてそれらは、 キリスト者としての私たちの 『信仰のよりどころ』 です。
それらは、イエス・キリストによって示された私たちへの 『神の愛の神秘』 なのです。
『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』
と言われた イエス・キリストは、

『十字架の立てられた聖穴』 於。聖墳墓教会。2018年巡礼時に

『イエスの御言葉』とおりに・・・
私たちを友として、 私たちのために命を捨ててくださったのです。
私たちがどのような者であったとしても、
その私たちのすべてを許し、
私たちをご自分のおられるところ・『父なる神の懐』 に招き入れるために、
ご自分の命を与え尽くしてくださいました。

十字架の立てられた場所で・・・ 『感謝の巡礼団ミサ』 2018年巡礼時
これにまさる『愛』があるでしょうか。
この『愛』を信じ・・・ この『愛』を語り継ぐために・・・
私たちは、キリスト者 となったのです。
四世紀のエルサレムでは、
木曜日の夜から続く徹夜の祈りの後、
夜が明けると、人々は、ゴルゴタの丘に建てられた教会堂(聖墳墓教会)にもどり、
キリストとの受難の出来事の中から、 『ピラトによる尋問』 の朗読を聞きました。
その後も、聖書を読み続け・・・
午後3時。 ヨハネ福音書から、 『キリストの死の箇所』 が朗読されました。
更に。 ゴルゴタの丘の教会堂に集まり、
キリストの『復活』に希望をおいて、詩編による、
『徹夜の祈り』 をささげました。
そして。
今日は4月2日。聖金曜日。
『主の受難』
キリストの受難と死を思い起こす『主の受難』の祭儀は、
金曜日の午後、できればキリストが息を引きとったとされる三時頃に行われます。
なお、
『キリストの受難と死』 は 『主の過越』の途上の出来事なので、
『主の過越』を記念する『ミサ』は行われず、
『主の到来』を待ち望むための、 『過越の聖なる断食』 が守られます。
でも、
ミサの中の『交わりの儀』で、
昨晩の『主の晩餐の夕べのミサ』の中で聖別された『聖体』を受け、
キリストとの一致のうちに、 『復活』への希望を新たにするのです。
皆様!
今日は、私が2018年に 『聖墳墓教会』 を巡礼したときに撮影しました写真とともに、
『救いの歴史』 におけるキリストの『聖金曜日の受難と死』の意味を思い起こし、
『聖金曜日』 を過ごしたいと思います。
よろしくお願い申し上げます。
キリストが『十字架』をかついで歩かれた・・・

『十字架の道行き』
『1留』:『イエス死刑の宣告を受ける』 から 『14留』:『イエス墓に葬られる』まで
炎天下の中で歩み続けると・・・
着いたところが・・・ 『墳墓教会』

『キリストの磔刑』 の場所に建つ教会。
『道行き』で・・・キリストの 『受難の金曜日』 の一部を追体験をさせていただきました。
キリストに賛美と!感謝!
『今日の第一朗読 主の僕第四の歌』
『主は言われる。
見よ、わたしの僕は栄える。

『主の僕・十字架のイエス・キリスト』
はるかに高く上げられ、あがめられる。
かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように

彼の姿は損なわれ、人とは見えず、 もはや人の子の面影はない。
それほどに、彼は多くの民を驚かせる。
彼を見て、王たちも口を閉ざす。
だれも物語らなかったことを見、 一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。
聖墳墓教会内の 『小さな階段』 を上ると・・・

そこは・・・ 『イエスの十字架が立てられた場所』

巡礼団司祭様たちと巡礼者たちで、『賛美と感謝のミサ』 をささげました。
わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。
見るべき面影はなく、 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

十字架からイエス・キリストが降ろされて 『安置された石板』
多くの人が、 『石板』 にしがみつき、 涙を流していました。

私たち巡礼団のシスター様たちも、『石板』 にひざまずきます。
彼は軽蔑され、 人々に見捨てられ、 多くの痛みを負い、 病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し、 わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのは わたしたちの病
彼が負ったのは わたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた、 神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは、 わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは、 わたしたちの咎のためであった。

『ピエタ』 ミケランジェロ作品 ヴァチカン・サン・ピエトロ大聖堂
『ピエタ』とは、哀れみ・慈悲、等の意味。
『聖母子像』・・・十字架から降ろされたキリストを抱く母マリア様のつらさはいかばかりでしょう。
彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
わたしたちは羊の群れ、 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。
苦役を課せられて、かがみ込み、 彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。
捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、 命ある者の地から断たれたことを。
彼は不法を働かず、 その口に偽りもなかったのに
その墓は神に逆らう者と共にされ、 富める者と共に葬られた。
病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、 彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる。
彼は自らの苦しみの実りを見、 それを知って満足する。
わたしの僕は、 多くの人が正しい者とされるために、 彼らの罪を自ら負った。
それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、 死んで、 罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い、 背いた者のために執り成しをしたのは、 この人であった。』
イザヤ書 52章13節ー53章12節

多くの人がひざまづく・・・ 『キリストの墓』 巡礼時に

順番が来まして、一人ずつ・・・
私たちの腰の高さよりも低く 又 狭い、 『墓の入り口』 をもぐり込むように中に入ると、
中に、『イエスのご遺体』 が安置されていた 小さな『聖場所』がありました。
復活への希望のうちに 『十字架の勝利』 を賛美するものです。
今日の司式司祭様の説教。 ほんの一部です。
『私たちは、救われる時・・・
”ああいうふうに救われたい!” とか ”救いはこういうふうであるべきだ!”
とか、それぞれに考えます。 それぞれに希望があります。
しかし、
キリスト様の 『救いの方法』 は 『十字架』 でした。
これぞ、人間ではくみ尽くすことができない、 『神の神秘』 なのです。』
『今日の祈願』
『あわれみ深い神よ、
御子キリストは、あなたの民ためにご自分の血によって、
『過越の神秘』を定めてくださいました。
いつくしみを忘れず、この民を永遠の愛のうちにお守りください。』
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
本日はお天気がよく、
受難のイエス様が、十字架上から、
私たちに微笑みかけてくださっているのでしょうか。
『主の過越の聖なる三日間』の残り二日間を、 祈りの二日間にいたしましょう!
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