マリアテレジアの独り言

日々の生活の中で見つける・・
  小さな感動をつづります。

わずか10年の近江・八幡山城・・・『同窓会遠足日』 そして 『お前が用意した物は、いったい誰のものになるのか。』 

2019-10-22 05:20:15 | 登山・ハイキング

10月20日。日曜日。晴れ。

  今日は、卒業校関西支部ウォーキング部の 『歴史遠足日』
       豊臣秀次の28年の短い人生を学びます。

      
     豊臣秀次・・・   『近江・八幡山城』
  「八幡山城」の画像検索結果
                         八幡山城案内板

         豊臣秀次18歳。 豊臣秀吉の命令により築城。

 1585年。 築城年。18歳。
     豊臣政権の跡継ぎと目されていた羽柴秀次(豊臣秀次)が、43万石にて八幡山城主となります。
      その築城工事は、同じ頃築城されたた大阪城に入る豊臣秀吉の主導のもと、行われました。


そして。
10年後。

1595年。  豊臣秀次28歳。 臣秀吉の命令により切腹。 没。

   『磯かげの松のあらしや友ちどり いきてなくねのすみにしの浦』
        生きて鳴く音の澄みにしの浦
       秀次の心は澄んでいたかのごとく
         豊臣秀次『辞世の句』


そして。
今日。

     今も残る風情ある城下町
     
           『近江商人屋敷 通り』
   
                            今日の遠足の仲良し仲間は30人

       先に見えるのが・・・  『八幡山』
              標高は283m
     八幡山の南半分山上に築城された『八幡山城 跡』 を目指します。


歴史を振り返って・・・

    『豊臣秀吉の策略』

1582年。 『本能寺の変』 織田信長が横死。
      近くにある織田信長の安土城に、3歳の三法師(織田秀信)を城主とする。後見として織田信雄を入れます。

1583年。  『賤ヶ岳の戦い』  
      豊臣秀吉が新しい天下人となるべく威光を示すのには、織田信長の安土城があると何かと都合が悪かった。   
       
   そのため。

1584年。  5歳の三法師(織田秀信)を、安土城から、近江・坂本城へ移す。
    
   そして翌年。

1585年。  安土城に代わる 『近江の新拠点』 として 『八幡山城』 を築いたのです。

    
    豊臣秀次は18歳の若さで八幡山城主となったのです。    

    秀次の補佐をしたのは 水口城主・中村一氏、佐和山城主・堀尾吉晴長浜城主・山内一豊 たちでした。


1590年。 
23歳になった豊臣秀次は、尾張・清洲城100万石として移封される。
         その後。 八幡山城には、京極高次が入ります。

1595年。『秀次事件』で、謀反の罪で、豊臣秀吉は、豊臣秀次に切腹を命じる。

      豊臣秀吉は、徹底的に豊臣秀次の痕跡を絶つため、
        既に豊臣秀次が退いていたにも関わらず
          八幡山城を破壊しました。

     
      八幡山城は築城から僅か10年で廃城となったのです。

   その時、 城主だった京極高次は、加増されて大津城主6万石となりました。


そして。
今日。  私たちは、豊臣秀次を偲んで、八幡山を登りました。

  
  今残るのは・・・    『八幡山八城 跡』
  

    『八幡山城』は、険しい山城であったため、
     安土城のように山の斜面は活用できず、
   麓に建てた 『居館』が『政務の中心』 となりました。


   更に進むと・・・   『西の丸 跡』
        

      広い平地になっていました。

 
西の丸跡から眺めると・・・

   眼下に・・・       『比叡山 琵琶湖』
   
                          美しい景色を秀次も眺めたのでしょう。

       秀次も秀吉も、歩いた地。眺めた景色。
    今日、私も、同じ地を歩きます。同じ景色を眺めます。感慨無量です。

 

『滋賀県近江八幡市』

           風情ある城下町が残る水の都
 
                         私たちも乗りました。30分ほど。

       豊臣秀吉が自ら普請の指揮をとり、
     『居館』などは、安土城からも多数移築し、
   『城下町』も、安土城の城下をそっくり移転させ、
      『町民』も、移住しました。
    近江八幡の城下町
     また、
 『八幡楽市楽座を敷いて近隣の町村からも移住を促したので、
     『近江商人発祥の地』となったのです。

 

  『八幡山』は険しい山城であったため、
     山の斜面は活用できず、
  麓に建てた『居館』が政務の中心となりました。
そのため、
  麓には『水堀』などが巡らされ、
 琵琶湖の湖水をひき、直接「舟」で琵琶湖に出れるようにしました。

 

     このように、
    『八幡山城』は築城から僅か10年で廃城となりました。

 

今日の遠足の最後は。

      豊臣秀次
  
     を忍んで・・・

              献杯!
        

          歴史は面白い。大好き。
          仲間も面白い。大好きです。
           


そして。

今日は10月21日。年間第二十九月曜日。

  イエスも、『お前の命は今夜に取り上げられる』 と忠告します。


『今日の福音 イエスの御言葉

       『そのとき、群衆の一人がイエスに言った。
  
  「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」

イエスは一同に言われた。

     「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。
 有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」

それから、イエスはたとえを話された。

       「ある金持ちの畑が豊作だった。
 
  金持ちは、

   『倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、
       こう自分に言ってやるのだ。

     「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。
    ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』

  しかし神は、

      『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。
    
     お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』 
                    と言われた。

  自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」』
             ルカ福音書 12章13-21節

 

    豊臣秀吉は、沢山の富を持ち、その責任も大変なものだったでしょう。
 豊臣秀次は、秀吉に翻弄されながらも、その人生は近江の地を栄えさせる結果となりました。

   
    神は、神からの賜である財産をどのように使うのかを、問われる御方です。

       財産を、
       自分自身のためにだけ、私欲のために、使っていますか?
       多くの人に役立つように、隣人愛のために、使っていますか?


      豊臣秀次の人生は、秀吉に翻弄されて、28年の人生でした。
      私たちの人生も、
     金持ちのように、今夜神に召されるかもしれない、明日も分からない人生です。

   
    私たちは、
        私たちの持っているものを、お金も能力も何もかも、

     お人のために役立つものとして使うための『愛』を神に願いましょう!
          神に富を積んでまいりましょう!

 

皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
紅葉もはじまり旅の秋の到来です。『溫古知新』の旅もいいものですね。 お元気で!


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