マリアテレジアの独り言

日々の生活の中で見つける・・
  小さな感動をつづります。

『もはや戦うことを学ばない。』

2013-12-08 20:00:00 | 日々のこと。 世界のこと。
イザヤ書 2章4節
  『彼らは剣を打ち直して鋤(すき)とし 槍を打ち直して鎌(かま)とする。
    国は国に向って剣を上げず もはや戦うことを学ばない。


新島襄の後を継いで、同志社英学校の学長になった『山本覚馬』

最後の公職となった・・・   
     『同志社英学校 卒業式』

                      卒業式の覚馬。 NHKHPより。

山本覚馬は、卒業生に 『祝いの言葉』 を贈ります。

まずは
聖書の言葉を語ります。
  『彼らは剣を打ち直して鋤(すき)とし 槍を打ち直して鎌(かま)とする。
    国は国に向って剣を上げず もはや戦うことを学ばない。』イザヤ書 2章4節
そして
自分の言葉で・・・
「皆さんは、この学校で学んで、これから、いろいろの職場で働くことになります。
そこで、皆さんは 世界の良心となって下さい。 知恵で道を切り開いてください。
                     

     日曜日の楽しみは、『NHK大河ドラマ』
       今日・8日は来週の最終回の前回。

最終回を来週にひかえ・・・ 

今週のクライマックス・・・   『山本覚馬の最期』

                           懐かしい故郷のシーンを思い出す。  26歳の覚馬。
1862年:32歳。京都守護職に就任した藩主・松平容保に従い上洛。 
    ~ 以来。故郷・会津に帰ることなく失明生活の30年間。 ~64歳の帰天。
                    
最期を迎えた山本覚馬・・・
 『これでやっと皆の待つ会津の地に戻ることが出来る!』 と。 喜びの涙。別れの涙。涙涙の最期


亡くなった山本覚馬の生涯を称え、生涯を振り返ってみます。

『山本覚馬の生涯』
1828年: 会津藩士・砲術指南役の山本権八の長男として誕生。
9歳: 藩校・日新館に学び、武士の表芸である 「弓馬刀槍の奥義」 を極める
22歳: 洋式砲術の研究のため江戸に出る。 兵学者・佐久間象山の塾に、武田斐三郎、勝海舟らと学ぶ。
26歳: 会津に戻る。 日新館教授となる。 蘭学所を開設。

     守旧派批判により・・・1年間の禁足処分になる。 『瞑想の世界』にこもる。
     それでも・・・
     初志を貫き軍制改革を訴えて、軍事取調役兼大砲頭取に抜擢される。

34歳: 京都守護職に就任した藩主・松平容保に従い上洛。 京都に洋学所を開設。 在京の、会津藩士だけでなく諸藩士や新選組に、洋学の講義を行い、洋式砲術も教授する
36歳: 『禁門の変』・・・砲兵隊を率いて参戦し、勲功を挙げ、公用人に任ぜられる。


  公用人となった覚馬・・・
  幕府や諸藩の名士等と交わる機会が増え、活動範囲を広げるが、不幸にも眼病を患い、ほとんど失明同然の状態になる。

  失明という障害を負いながらも・・・
  暗殺された象山の遺児の世話を勝から頼まれて引き受ける。
  更に・・
  西周を紹介され、西洋事情の見聞を広めていく。 
  のちに・・
  西の主著 『百一新論』 を出版。


40歳:  『鳥羽・伏見の戦い』・・・京に残り、薩摩藩に捕われて同藩邸に収容される。 再び、幽閉禁足処分。 『瞑想の世界』にこもる。 一年間。


  幽閉中の山本覚馬・・・
  建白書 『管見』 を口述筆記し、藩主に上程。 

  『管見』(かんけん)。
  政治、経済、教育等22項目にわたり『将来の日本のあるべき姿』を論じた建白書。  自分の見解(管見)と謙称している。
  将来を見据え、優れた先見性に富んでおり、 『明治新政府の政策の骨格』 とも繋がる。

  『管見』の内容。
  三権分立の「政体」。 大院・小院の二院制の「議事院」。 「学校」。「変制」封建制から郡県制への移行や世襲制の廃止、税制改革まで唱えた。
 「国体」。「建国術」。「製鉄法」。「貨幣」。「衣食。、女子教育を勧めた「女学」。遺産の平均分与の「平均法」。
 「醸造法」。「条約」。「軍艦国体」。「港制」。「救民」。「髪制」。寺の学校への開放を唱えた「変仏法」。
 「商律」。「時法」。太陽暦の採用を勧めた「暦法」。西洋医の登用を訴えた「官医」。 と。内容は多岐にわたり、将来を見据え優れた先見性に富む。


40歳: 仙台藩邸の病院に移され、ここで岩倉具視の訪問を受け、41歳: 釈放された。

42歳: 自由の身となった覚馬。 京都府大参事・河田佐久馬の推挽により京都府庁に出仕
    当時、権大参事として府政の実権を握っていた槇村正直(のち京都府令・知事)の顧問として府治を指導する。


  槇村の下での山本覚馬・・・
  有能な人材に支えられ、京都の近代化に大きく寄与した
  小中学校・女学校・病院・医学校などの設立に尽力。 大阪と北陸を結ぶ京都鉄道の敷設願書を当局に提出。  他。開明的諸政策を推進。
  家では講筵を開いて政治学・経済学を講義した(のちの滋賀県・東京府知事の松田道之。大阪府知事の藤村紫朗。 等。が学ぶ。)

44歳: 明治5年。 日本初の「内国勧業博覧会」を開催。 日本で最初の英文案内記を著す。  また、この頃脊髄を損傷し、体の自由も利かなくなる。


47歳: 春・・・信仰時代に入る

  宣教団体:『アメリカン・ボード』との出会い。
  当時大阪で伝道中のアメリカの会衆派の宣教団体:アメリカン・ボードの宣教医:M・L・ゴルドンから贈られた 『天道溯原』 を読んで大いに共鳴。
  キリスト教こそが…真に、『日本人の心を磨き、進歩を促進する力となり得る』 と感じた。

  その頃・・・
  新島襄と知り合い、彼の学校設立計画を知り、協力を約束する。
  『同志社』設立。
  覚馬は維新後に購入していた 『旧薩摩藩邸の敷地(6000坪)』 を学校用地として新島に譲渡
  次いで・・
  新島との連名で、『私学開業願』 を文部省に出願。 そして 認可
  この校地は・・
  やがて設立された『同志社英学校』から、その後身である『同志社大学』に継承され、現在の『今出川キャンパス』となっている。 『同志社』は覚馬の命名である。

64歳:明治25年。  没。 帰天

以上。
  『彼らは剣を打ち直して鋤(すき)とし 槍を打ち直して鎌(かま)とする。
    国は国に向って剣を上げず もはや戦うことを学ばない。

  『もはや、戦うことは許されじ。』  遺言を遺した 『山本覚馬の生涯』


『大河ドラマ』が大好きです
『人の人生』を、一年間かけて、学ばせていただく私。 今回の学び=『瞑想は人を造る。』。 2度の幽閉による瞑想。盲目による瞑想。 
今年は、『山本覚馬の生涯』を、見せていただき、学ばせて頂きました。
 お返しに・・
私も…『常に、自分の心を一段上に上げていく生き方』 をと。 決意の今宵でした。 感謝!感謝!

皆様!
御訪問に感謝申し上げます。 楽しい週末をお過ごしになられましたか?  続く仕事の1週間…頑張りましょうね!



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記録 
今日・12月8日のラン距離:12km
走る気分は・・・ホノルルマラソン。 ホノルル現地で走る息子夫婦と神戸の母親…3人一緒です
走った後は・・・年に一度の地域の大掃除。 師走です

     12月走行距離合計:48km 

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