5月12日。木曜日。曇り。雨。
昨夜、
水曜日の夜には、
私の大好きなテレビ番組
『英雄たちの選択』
があります。
昨夜の英雄は・・・
『画狂老人卍(まんじ)』
と自らを称した
『葛飾北斎の選択』でした。
我が家の和室にかかる・・・ 『菊』
北斎の落款印は・・・『齢八十八歳卍筆』
『菊』の上部分に書かれています。
私の両親は、
信州・小布施にある『北斎館』を訪ねたようです。
年を重ねたとき、
88歳になって『菊』を描く北斎に興味を持ち、親しみがわいたのでしょうか?
両親の遺品として、
掛け軸:『菊』 と 画集:『肉筆 葛飾北斎』が、我が家に遺されています。
昭和59年10月発行
以前から・・・
※両親はなぜ葛飾北斎なのだろう?
※江戸っ子の浮世絵師・葛飾北斎 と 信州・小布施は
どんな関連があったのでしょう?
との疑問が、私にありました。
そして、
昨日のテレビ番組:『英雄たちの選択』で、
長年の私の疑問が解けた気がしました。
葛飾北斎は、
70年の『画業生活』で・・・
まず最初は、
※江戸の浮世絵師として、
【狩野派】から、大胆な構図方法を身に着け、
【中国の南蘋派】から、花鳥画方法などを身に着け、
【西洋画】から、遠近方法を身に着け、
世界中の絵から学び、独自の画法を築き上げたのです。
その後、
※自分の【師】は【森羅万象】であると悟り、
『自分の道』を一人で歩こう、と舵を切ったのです。
この時に、大きな『人生の選択』をしたのです。
90歳の人生で93回の引っ越しをして、
『新しいところに移ると・・・
新しい何かを発見する。
新しいアイディアーが出てくる。』
と言っていたそうです。
93回の大きな『人生の選択』をしたのです。
そして、
70歳過ぎにして、
今までのような『版画師』として、
多作を描くのではなくではなく、
※『肉筆画家』として『一点作品』への挑戦の人生に、
180度、人生を転換したのです。
※『一点一画』にして、生けるがごとく描きたいと、
自らを、『画狂老人卍』、と名を改めたのです。
・・・一大決心の『人生の選択』をしたのです。
最期に、
90歳にしてこの世を去るときは、
「あと十年、いやあと五年の命があれば、
まことの絵描きとなれたものを・・・。」
と、言ったそうです。
肉体に縛られない・・・。固定観念に縛られない・・・。
年を重ねても、
食べて、寝るだけ、で満足するのではなく、
『パッション』にあふれた葛飾北斎の人生でした。
・・・との、番組の結論でした。
私の両親は、
齢を重ねた75歳のころに、
葛飾北斎の『絵』に出会って、
その人生の生き方に共鳴したのかもしれません。
人生は、
何かの目的に向かって節制するときに、
人生の醍醐味・幸せを味わうのではないか?
と考えたのかもしれません。
父は、70歳から生涯、『書』を楽しみました。
我が家に遺る、『父の書』の掛け軸
母は、『木目込み人形』を教えていました。
我が家に遺る『母の人形』の一つ
私も、
昨日は、葛飾北斎の生き方を学び、
今日は、両親の生き方を振り返ってみて、
自分のこれからの『人生』を考えることができました。
あれこれとその目的を考えて悩まないで、
心の望むままに、一生勉強! 一生青春! です。
75歳になってこそ、
転機を迎えた北斎や両親が目指したように、
パッションを持って、
最後の『人生の選択』をして、
残りの生涯を、
目に見えない精神性、宗教性を目指して生きていきたいものです。
しばらく休んでいる『絵画教室』に通うことにいたしましょうか。
感謝!感謝!
そして。
今日は5月12日。復活節第四木曜日。
『今日の入祭唱』
『神よ、あなたが民を導き出し、荒れ果てた地を進まれたとき、
地は震え、天は雨を滴らせた。 アレルヤ。』
詩編 68章8-9節
『今日のアレルヤ唱』
アレルヤ、アレルヤ。
『イエス・キリスト、まことの証人、死者の中から最初に復活された方。
わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方。』
ヨハネの黙示録 1章5節 アレルヤ、アレルヤ。
『今日の福音 イエスの御言葉』
『イエスは弟子たちの足をお洗いになった後、
こう言われた。
「はっきり言っておく。
僕は主人にまさらず、
遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。
このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。
わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。
わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。
しかし、
『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』
という聖書の言葉は実現しなければならない。
事の起こる前に、今、言っておく。
事が起こったとき、『わたしはある』ということを、
あなたがたが信じるようになるためである。
はっきり言っておく。
わたしの遣わす者を受け入れる人は、
わたしを受け入れ、
わたしを受け入れる人は、
わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」』
ヨハネによる福音書 13章16-20節
今日のイエス様は、
弟子たちの足を洗うほどにヘリ下り、『模範』を残されました。
その後、
弟子たちの一人がイエスを裏切る、ことを予告しました。
弟子たちは、
先生・イエスに勝る者ではありません。
それどころか、
先生・イエス様は弟子の足を洗うという、『僕の仕事』をなさったのですから、
弟子たちもイエス様の『模範』に倣って、
互いに『仕えあい』、互いに『世話をしあう』のです。
イエス様は、
ユダの裏切りを知っていました。
そこで、最後の晩餐の席で、弟子たちに話されたのです。
※『「わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった」
という聖書の言葉は実現しなければならない。』 と。
又、
弟子たちに以前に三回話しておいたことを思い出させて、
『イエスがご自分の命を捧げることによって、
神から受けた『使命』を果たすことになる。』
だから、
※その時が来て、イエスが『受難』を受けられるのを見ても、
つまずいてはいけない。
※イエスは神から派遣された方で、
神とイエスは、共に、『わたしはある』という御方であり、
神とイエスは、一緒にいて、必ず、すべての民をお救いになる。
そのことを疑ってはいけない。
そのことを、証ししなさい。
…と、話されたのです。
後にイエスを裏切るユダは、
イエスと同じ『最後の晩餐』の席に着き、
『友情の食事』に参加しました。
イエスに足を洗ってもらいましたが、
他の弟子たちのようには、綺麗にはならなかったのです。
イエスが神から派遣された方だと認めることができず、
イエスを裏切ってしまいました。
私たち・キリスト者は、
キリストの『受難』につまずくことなく、
キリストの残してくださった『模範』に倣い、
『愛徳』を実施しながら・・・キリストを証ししてまいりましょう。
互いに世話をしあいながら・・・キリストに出会ってまいりましょう。
祈りましょう。
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
齢がいくつかは関係なく、周りに惑わされることなく、
好きなことをしながら、穏やかな生活を送りたいものですね。 お元気で!
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