鈍想愚感

何にでも興味を持つ一介の市井人。40年間をサラリーマンとして過ごしてきた経験を元に身の回りの出来事を勝手気ままに切る

「題名のない音楽会」が大竹しのぶの独唱会になるなんて、いくらなんでもやり過ぎだ

2015-03-31 | Weblog

 30日は東京・初台の東京オペラシティへ題名のない音楽会の公開録画に行った。前半はソプラノ歌手の森麻季が山田耕筰の赤トンボなどを叙情たっぷりに聞かせてくれてうっとりさせてくれたのに、後半はなんと大竹しのぶの独唱会となって、座をしらけさせた。もうすぐ50年を迎える名音楽番組が一舞台俳優に番組をあげてゴマを擦っている感じがして、なんともいえない後味の悪いものとなった。なぜ、こんなことが許されるのか、だれが仕組んだことのなのか、理解を超えるものであった。

 大竹しのぶが舞台女優としては第一線に立ち、読売演劇大賞最優秀女優賞などを受賞し、映画、テレビで活躍する受有であることは確かである。しかし、音楽番組の代表である「題名のない音楽会」で東京フィルハーモニー交響楽団の演奏のもとにエディット・ピアフの「バラ色の人生」から、「群衆」、「水に流して」、そして最後に「愛の讃歌」と4曲を歌いまくるのはちょっと度を超えた扱いである、と思わせた。舞台女優としての歌いっぷりは立派なものといえるだろうが、森麻季のあとで、堂々と舞台を務めるのにはいささか荷が重い、と思わせた。

 歌の合間に司会の佐渡裕が熱唱で汗を掻いている大竹しのぶにハンカチを差し出そうとするジュスチュアーをして笑わせたりしていたが、演奏する東京フィルハーモニーの楽団員がなんともいえない表情で次の演奏を待っているのが不気味な感じがした。指揮の渡邊一正が歌が終わるたびに楽屋へ引っ込んで、次の歌が始まる前に一旦引っ込んだ大竹しのぶと共に登場してきたのに違和感を感じた。この番組で指揮者が演奏の度に楽屋に引っ込む姿は初めてみた。佐渡裕が「リハーサルの時に演奏について注文をつけたのを聞いたが、出演者がそんなことをしたのは初めて」と驚いていたが、そんなことが楽団員の不興をかったのかもしれない、と思わせた。

 それと大竹しのぶが佐渡裕とのやりとりのなかで、大竹しのぶは「この会場に見えている方たちは恵まれた方で、ここにこられない人たちに思いを伝えたい」と聞きようによっては観客をしらけさせるようなことを語っていたが、大竹しのぶの演劇を観に行く人はもっと恵まれた人たちであり、そうした人たちのなかで称賛を浴びていることをることを考えているのか、と言いたい気持ちになった。鈍想愚感子はもともと大竹しのぶは好きな俳優ではないこともあって、最初、この日のプログラムを見て、前半だけを聞いて帰ろうかな、とも思ったが、嫌いなことでも味わったうえでどんな感想を持つのかを感じてから正直な思いを感じればいいのかな、と思い直して、後半も聴いてみたが、やはり当初感じた通りの感想だった。

 2年前に名古屋でエディット・ピアフの生涯を舞台化した「ピアフ」に主演し、愛の讃歌などを歌い、大喝采を浴び、来年はじめに東京・日比谷のシアタークリエで再演が決まっていることから、その前宣伝の場として企画されたのであろうが、いくらなんでもやり過ぎだ、と思った。

 

コメント (2)
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