駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

かしらかしらご存じかしら? ~遅れてきた私の『少女革命ウテナ』論~

2018年03月13日 | 日記
 しつこく少女漫画の話からしますが、そんなワケで私はさいとうちほに関しても通らないままに育ってきたワケです。大人になって仕事で読んでいいなと思ったのは『花冠のマドンナ』や『花音』あたり? きちんとリアタイしたのは最近完結した『とりかえ・ばや』くらいでしょうか。これは鉱脈を引き当てている気がしましたね、次の新作も楽しみです。それまでは、人気がある息の長い作家であることも知っていたし流麗な絵柄か美しいしロマンチックでドラマチックな作風で素敵で、でもなんか意外に萌えや情熱が感じられないというか、手慣れて器用に描いてしまっているだけでもの足りなく感じることがあるというか…私にとっては、残念ながらそういう漫画家さんだったのでした。
 『少女革命ウテナ』についても、どこかで一度読んでみたことはあったと記憶しているのですが、ファンタジーでも全然いいんだけれど私には世界観が把握できないというか作品内ルールがうまく解読できない印象で、「よくわからん…」という認定をした気がします(今アニメ版と比べて読み返してみると、漫画版の方がだいぶ整合性があると思われるのですが。あとあたりまえだけどアニメより作画ブレがなくてイイ)。その後も、テレビアニメや劇場用アニメともども一時代を風靡したらしい、ということは知識として認識していても、世代じゃないしなあ…という思いで棚上げというかなんというか、にしていました。
 でも去年、テレビアニメ20周年ということでイベントがあったりなんたりと世間的な盛り上がりがあって再びちょいちょい私のセンサーに引っかかってきて、しかもフェミ的にあれはそれこそ革命的だったのではみたいな話がチラホラ聞こえてくるにつれ、勉強してみたい、というかむしろ単に気になって仕方がない!と無視できなくなり、そこへ優しく心広く歳若いリアル世代のお友達がいたので、甘えてコンプリート・ブルーレイ・ボックスをお借りするに至りました。
 たまたま時間にも恵まれてほとんど三日間で一気見みたいなことをしたら、恥ずかしながらまあこれがハマりにハマりましてですね! 合間に新装版コミックスも再度読んだりしたのですが、これがまたある種のバージョン違いなんだけどアニメ版を上手く補完してくれているようでもあり、でもイマジネーション先行のアニメ版にワケもわからず溺れること含めて、本当に「エウレカ!」だったのです!!
 企画としては、さいとうちほ含めビーパパスという集団の創作したもの、という知識はありました。ちょうどゆうきまさみが仲間内で企画ごっこ遊びとして始めたものがヘッドギアとしての『機動警察パトレイバー』として結実したような?みたいなイメージはあったのです。当初は単に男装した美少女戦士グループが悪の組織と戦う、みたいな企画イメージだった時期もあったそうで、そら単なる『セーラームーン』の亜流みたいに思われても仕方ありませんよね(ちなみに私はセラムンもちゃんと勉強できていません。いかんですよね…(><))。でもそこからみんなしていろいろディスカッションして紆余曲折あって取捨選択していって、それでもあふれるドリームやイメージはあまり理屈づけせずにいい意味でそのまんまにして、かつ進行的にもけっこう行き当たりばったりでやった部分もあって、そうしてあのテレビシリーズ全39話になったんでしょうね。
 創作活動って本当にダイナミックで不思議なものです、狙って傑作が生まれるとは限らない。でもスタートになんらかのこうした熱い情熱がなければ、それは決して生まれないのです。幾原氏のどこにどこから何故、最初のこの情熱が芽吹いたのでしょうね…? それもまた不思議です。
 主人公が女子中学生であり、漫画版が小学校四年生を読者ターゲットとした「ちゃお」に連載されたことからもわかるように、アニメ版もメイン視聴者ターゲットは小学生女児だったのでしょうね。実際にはもう少し上の世代も見ていたのかもしれませんが。しかしすごいよなあ、よくこんな話数を完遂できたよなあ。周りの普通の大人からしたらホント、ナゾ企画だったと思うけれどなあ。
 今でも愛されている作品であることは明らかですが、でもたとえばこれが『エヴァ』なんかと同じ熱量で語られ論評され評価されているか?と考えるとどうもそうでもない気がしますし(私が知らないだけかもしれません、すみません)、それこそが男女格差の表れなんじゃないの?それこそ世界が未だ革命されていないことの証なのではないの?と思ってしまいます。遅れてきたファンとして、だが遅すぎるということはないはずだ、このままにしておいてはいけない、少なくとも私のハートが納まらない!と愛用のポメラに熱く向かってしまったのでした。
 豊かなイマジネーションに彩られた作品でもあり、いちいち解釈したり理屈をつけたり言葉にして語るのは野暮なのかもしれませんが、私はこうしないと消化できない質なのです。よかったらおつきあいくださいませ。ちなみにネタバレはしていますが、あくまで私なりの解釈で書いたものでしかないので、興味ある方は是非ゼヒ一度ご覧になってみていただきたいです。今だと配信とかもありますしね。
 当時のリアル視聴者は今は30代前半の世代でしょうか、当時はどんなものとしてとらえていたのかな、今また見直すことはあるのかな、どんな大人になったのかな、彼女たちの胸に根付いて咲く薔薇はあるのかな、それはどんな香りを放っているのかな、輝いているのかな…そんなことにも、想いはせたり、します。

 さて、私は自分自身が性格的には男っぽいというか、少なくともあまり女らしいタイプではないのだけれど、外見的にはたとえば髪が長かったり(面長でショートが似合わないこともあり、また日々のセットが要らないからという無精な理由にすぎないのだけれど)胸が大きい方だったり自分のお尻があまり好きじゃなくてパンツよりスカート派だったりするので、そういう意味では女っぽいと思っています。男になりたいと思ったこともないし、来世は男に生まれ変わりたいと思ったこともありません。いろいろ面倒ではあっても、女である自分が意外に好きなタイプの人間です。また残念ながら(?)性的志向としてはヘテロセクシャルなので、ジャンルとして根強くある、男装するユリ少女、とかにずっとピンと来ないでいました。てかそれはユリじゃなくてトランスジェンダーの異性愛じゃんね? 私も女子は好きだけど、たいていの女は好きな男以外の男は嫌いで女の方がむしろ好き、というヤツです。だからウテナに関しても、ビジュアルのぱっと見とかそこから受けるイメージだけからすると、どう解釈していいのかよくわからないでいました。
 でも改めてちゃんと見てみると、この作品の主人公・天上ウテナは、確かに男子の制服を着ているんだけれど、それは活発で活動的でスカートが邪魔だからズボンを履きたい、というだけのことなんですね。胸をつぶしたりはしていないし、髪も長い。なのでこれは厳密には男装とは言えないのです。
 また彼女は「王子さまになりたい」と公言してはいるのだけれど、それは「男の子になりたい」という意味ではないんですね。一人称が「ボク」なのもなんというかおそらくたまたまで(これまた私事ですが私は弟がいたためにものごころついて最初の一人称は確か「お姉ちゃん」で、その後「わたし」と言うのがなんかすごく恥ずかしくて思えて、ひととき「ボク」と冗談めかして自称していた時期があったので、男になりたい、男として扱われたいというのとは違うんだ、というのは理解できるのです)、男の真似をしているとか、男になりたがっているとかではないのです。「こう見えてもボクは健全な女子なの、健全な男子にしか興味ないの!」と自らごく初期に明言してもいます。「普通」「健全」という表現には問題があるとわかっていますが、ここではあえて台詞のママに引用します。これがのちに心折れたウテナがセーラー服を着てきた回で、「そんなの、ウテナの”普通”じゃない!」という若葉の台詞につながる部分もあるので。
 彼女は女の子のままで王子さまになりたいと言っているのであり、この場合の「王子さま」とは「大人になっても強さ、気高さを失わない人間」ということであって、実は男だ女だという性別とは無関係の、人間としての在り方、生き方の問題です。「守られるお姫さまよりも、王子さまになりたい」と言う彼女はだから、周りに親切で義に厚く情が深く、だから人気者なのです。それは男女問わずに対してであって、女の子のみをただむやみと庇護しようとするようなものではありません。誰に対してもまっとうに向き合おうとするまっすぐな人、それが天上ウテナなのです。
 彼女はかつてとある男の子に出会い、彼が王子さまに見えて、彼が今の強さと気高さを失わなければいつかまた会えるよと言って去ったので、彼女としてはただ守られるお姫さまとして王子さまを待つだけでもよかったのかもしれないけれど、彼にあこがれるあまり自分も彼のような王子さまになりたいと思うに至った、ちょっと行動的な、でも至って普通の女の子だったということです。だから王子さまになろうとしつつも王子さまを愛し続けていて彼との再会を待ってもいる、そういう意味ではいっぷう変わった女の子なのかもしれませんがあくまで異性愛者なのであり恋に恋する少女であり、女の子が好きな女の子であるとかそういうことではないのでした。
 それがわかったら、この作品のこの主人公像が私にはすんなり理解できたのでした。

 そんなウテナがひょんなことから出会う姫宮アンシーですが、これまた以前の私がよくわからないと感じたのは、まずは名前です。
 たとえば「ウテナ」という名前は「蕚」とか「台」を単にカタカナ表記しただけだろうからやはり日本人の名前なのだろう、ウテナは日本人なんだろうと思えるからいいとして、「アンシー」という名前は明らかに外国語なんだけれどでは彼女は日本人ではないのだろうか? またアンジーならエンジェルの愛称だろうけれどアンシーとは聞かない名前で、たとえばエレンとかキャサリンとか、なんでもいいんだけれどとにかくメジャーな欧米圏の名前ではないようだけれどではいったいどこの国の人なんだ?ってところにまずつまずきました。
 漫画版では肌にトーンが張られているんだけれどこれは黒人だとかそういうことを表しているんだろうか、外国人だとしても何故白人ではなく褐色?の肌の人種設定なんだろうか。それは何を表しているのだろうか、なんの記号なんだろうか?ということが解読できなかったのです。
 またメガネっ娘というのは一般的には地味であるとか優等生であるとかいう記号なんだけれど、彼女はどうもそれに当たらないような…ということにも混乱させられたのでした。
 でも、たとえば漫画版を読んでみると、こちらはディオスと暁生の設定がアニメ版と違うというか膨らませてあることもあって、この兄妹(と一応しておきますが)は外国人とか異人種というより異星人というかむしろ異世界人、なんなら神?というような種族?のキャラクターなので、そういう特殊さの記号としての肌の色なのかもしれないな、と思えました。SFで青とか緑の肌色の異星人とか出がちだけど、ソレ?みたいな。
 また名前に関しては、ハイ・ファンタジーではシーないしシーリーとは妖精種族のことで、アンシーリーは悪い妖精のことです。たとえばそのあたりから想起された名前なのかもしれません。
 またアニメ版はそういう神様めいた色合いはあまりないんだけれど、逆にやはり単純に外国人というか、単にこれが日本だけの話ではなくダイバーシティとか多様性というか、すべての人種の女の子たちの物語なのである、ということを表現しているのかな?とも思いました。コミックスの巻末おまけにあったさいとう先生の初期ラフなんかを見ると、そうした意味づけより単に『機動戦士ガンダム』のララァあたりからなんとなく、みたいなイメージも覗えるので、厳密にはあまり意味はないのかもしれません。でも私はそう解釈することで一応納得がいったのです。
 メガネに関して言えば、優等生の亜流イメージである参謀、もっと言えば悪の参謀、黒幕、みたいな記号から来たものなのではないかな?と、アニメ版の特に終盤、メガネが光って目の表情を見せない、素顔や本心を明かさないという演出から感じられました(だからやはりメガネのない劇場版はいろいろ違うと思うのだ…!)。
 何より、地味でおとなしいキャラクター、という記号としてはとてもわかりやすいです。しかして彼女はおとなしいどころか実は空っぽの生き物だったのですが、これはそこから始まる物語であり、私はこのふたりのキャラクターの記号が解読できて初めて、ストーリーのスタートラインに立てたのでした。

 そんなわけでウテナはアンシーと知り合い、彼女が邪険に扱われているのに憤慨して、事態に巻き込まれていきます。彼女は王子さまとしてお姫さまのアンシーを守ってあげたいと思う一方で、ごく単純に女の子同士として友達になりたい、と思ったのです。同性愛要素はまるでなくて、むしろこれはシスターフッドの話、女子同士の共闘の話、女の子の居場所を巡る物語なのです。守られるだけのお姫さまとは自分がなってしまったかもしれない姿であり、でもそれがなんの自主性もなく空っぽでいることを見過ごせず、ちゃんとしよう、させようとする。そんなウテナと、それを受けるアンジーの物語…その構造がつかめたとき、私の違和感や拒否感は雲散霧消し、俄然おもしろく感じてこの作品にのめり込み出したのでした。

 ウテナは西園寺がアンシーをいいように扱うのに怒って生徒会だの決闘だのなんだのに関わり始めたわけですが、当のアンシーは「薔薇の花嫁」を名乗って平然とエンゲージ相手の言いなりになっています。自己主張がなく心がなく、空っぽなのです。ウテナはそんなのはおかしいと思うわけですが、ではアンシーをそうさせてしまっているものはなんなのか、「薔薇の花嫁」とはそもそもなんなのか、デュエリストとは、薔薇の刻印の指輪とは、「世界の果て」とは…ということで、ウテナはアンシーを今の状態にさせているこの世界そのものに対して戦いを挑んでいきます。アンシーが自身の意思も持たずただ「薔薇の花嫁」としてだけ存在するようなこの世界はおかしい、人は人であるべきだ、男であろうと女であろうと人としてきちんと立たなくては、世界が人にそうさせないというのならそんな世界は革命で変える必要がある…という流れです。実にちゃんとしてますね! 決め台詞は「今こそ示せ、世界を革命する力を!」。ここで「革命する」という聞き慣れない動詞を持ってきたことがまた素晴らしい。
 これはウテナがアンシーと友達になろうとする物語です。ひとりの女の子がもうひとりの女の子の居場所を作ろうとする物語、と言ってもいい。決してこのふたりが恋愛する話ではなく、だからユリではなくてシスターフッドの話なのです。
 でも、ウテナが戦うものは生徒会メンバーだったり「世界の果て」だったりするのだけれど、それがイコール「男」とは言いきれないところもまたミソなのです。ウテナが戦い殻を破ろうとし革命しようとする世界とは実は、結局アンシーその人だったりもしてしまうのです。アンシーは単なる守られるべきお姫さまなどではなく、王子さまたろうとする主人公のパートナーにして戦う相手そのもの、ラスボス、というものすごい構造になっているのです。そして確かに女自身が、女を差別するものを助長していたり依存していたりそこに安住していたりすることって、ある。ウテナはそういうものとも戦うことになるのです、だからフェミなのです。
 王子さまを助けた女を魔女と呼んで排斥した世界とは、魔女になってまでも王子さまを独占しようとした女と表裏一体でもあったりする。アンシーは空でありかつすべてであろうとしている。ウテナはそんな彼女に、それじゃダメだよ、それはムリだよ、そうではなくてただ自分自身でありさえすればいいんだよ、と訴えたかったのではないでしょうか。ヤダ、「ありのままに」と先取りだったのか!?
 暁生たち男たちが求めるディオスの力とは、権力といったもののことなのかはたまた核兵器とかそういったものの暗喩なのか、それはわかりませんが、ウテナはそんなものを望んだことは一度としてありません。ただ、アンシーと友達になりたかった、彼女と共に輝きたかっただけなのです。だから彼女が最後に叩いた門はアンシーが隠れ住む柩になったのです。そしてアンシーはついに目覚めて、ウテナに手を伸ばしたのでした。これこそ革命だったのではないでしょうか。
 アニメ版最終回で、学園はウテナを忘れ暁生たちもまたそのままだったとしても、アンシーは彼の元を去り、ウテナを探して旅立ちます。暁生が再び誰かを薔薇の花嫁に仕立てて同じことを繰り返すのだとしても、それと次に戦うのは残された私たちなのです。私たちこそが世界を革命せねばならないのです。アンシーはそこから抜け出した、ウテナの革命はなされたのです。
 ウテナがアンシーを見つけた、今度はアンシーがウテナを見つける。そこでまったく逆の形でまったく同じことが繰り返される…のでは、ありません。これはそんなグルグル話ではない。アンシーがウテナを見つけて、そこから紡がれる物語はまた別の話であり、次のステージに進化したものであるはずです。だって世界は革命されたのだから。
 けれど私たちにはその物語は語られない。私たちはまだここにいて、この世界を革命せねばならないからです。次のステージに進化したウテナとアンシーを追うために、いつかそこにたどり着いて共に輝くために、世界を革命して新たな世界を創造するためにこの『少女革命ウテナ』という想像の物語は存在しているのです。
 想像の先は私たちが創造するものなのです。今こそ示せ、世界を革命する力を!

 ウテナは女の子だろうが、男の子に恋をしようが、お話の途中で処女でなくなろうが、強く気高くあり続ける。そしてアンシーと関わり、友達になりたいと思った。彼女の幸せを願い、行動した。その優しさ、共感性の豊かさこそが人としての「気高さ」なのではないでしょうか。でもそれが普通にできることが「王子さまだから」とされる世界はおかしい。それは単に人として普通のことであるはずだから、性別とは関係ないはずだから。なのにそれをわざわざ「王子さま」とする世界は、実はウテナと同じく強く気高くもあるアンシーを、王子さまを守ったのに魔女と呼び空っぽの薔薇の花嫁として利用しようとした世界と同じくらいおかしい。女を花扱いし、脇役にし、その尊厳を認めず、不当に貶める世界はおかしい。だからそんな世界は革命する。これはそういうお話です。
 そして世界とは単に男のことではなく、アンシー自身を含む女をも含めた世界丸ごとのことです。男も女も世界ごと革命されなければ、次のステージへ進化できないということです。
 これは単なるユリ作品ではないし、フェミ作品ですらないのかもしれません。実は性別は問題ではなくて、あくまで人間の尊厳の物語だからです。でもそれをさいとうちほのザッツ・少女漫画の絵柄で、この主人公とこのヒロインの物語としてあえて展開したところがミソ。そしてあくまで女子向けに、もっといえば女児向けにテレビアニメとして製作したところがミソ。
 そんな奇跡的な作品なのだと思います。樹璃があんなにも求めていた「奇跡」は、実はここにあったのではないでしょうか。

 奇跡、永遠、輝きというキーワードに心震えました。
 またリミテッドアニメの無限の可能性にも。宝塚歌劇、舞台を意識しているというのも今考えるとおもしろい。あの印象的すぎる挿入歌が、そもそも演劇の音楽だったとは…!
 それから、メイン・キャラクターではないかもしれないけれど、若葉と七実というこのふたりの女性キャラクターの存在意義もとてもとても大きい、と思っています。

 劇場版『アドゥレセンス黙示録』はまたバージョン違いと言いますか…私にはオトナのお遊び版に思えました。女児は映画館に行かないもんね。予算その他ビジネスとして大きくなっていて、ちょっとテーマがブレている気がしたのです。
 ショートカットにして胸をつぶしているウテナは私にはウテナじゃないし、髪を結わずに下ろしていてメガネをかけていないアンシーはアンシーではないと私は思う。車は男子アイテムだからアキオカーはよくても、ふたりがこの世界の殻を破る手段として選ぶとは思えない。何よりユリの話ではないはずなんだから、ふたりが裸で抱き合う必要性などあるはずがない…
 なので、ちょっと「ムムム?」なのでした。
 
 新作舞台も上演中で、こちらは好評のようですね。でも私は日程的にもう行けそうにありません、無念!
 また「月刊フラワーズ」にさいとうちほの新作漫画が掲載中で、こちらはもうすぐコミックスにまとまるそうなので、また読んでみたいと思っています。
 とりあえずサントラCDとか欲しいなー、もう流通していないのかなー。音源DLとかはできるのかな、進化できてなくてアナログ人間ですみません…
 ともあれ、出会えて本当によかったです。少女たちよ、自分のために咲く薔薇たろう。この「少女」とは女の子たちのことだけではありません。「青少年」が若き男女をまとめて呼ぶ言葉だというのと同じ辞書で、性別問わずにただ若き男女に「少女たちよ」と私は呼びかけたいのです。
 少女たちよ、自分のために咲く薔薇たろう。周りがそうさせないというのなら、そんな世界を革命しよう。今こそ示せ、世界を革命する力を!

 



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