駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宝塚歌劇花組『ポーの一族』

2018年03月10日 | 観劇記/タイトルは行
 宝塚大劇場、2018年1月1日15時(初日)、2日11時。
 東京宝塚劇場、2月20日18時半、28日13時半、3月1日18時半(新公)、6日18時半。

 イギリスの片田舎スコッティの村近くの森、風が不気味に木々を揺らす夜。まだ赤ん坊の妹メリーベル(華優希)とふたり、乳母に置き去りにされた少年エドガー(明日海りお、子役は鈴美椰なつ紀)はひとりの老婆と出会う。老ハンナ・ポー(高翔みず希)はバラの花咲き乱れる森の奥の館にエドガーをいざなうが…
 原作/萩尾望都、脚本・演出/小池修一郎、作曲・編曲/太田健、編曲/青木朝子。1972年に「別冊少女コミック」にて掲載開始された漫画史上の傑作を原作にしたミュージカル。全2幕。

 大劇場初日遠征の感想はこちら
 その後も回数をそんなに観ていないので、だいたいのところはすでに言い尽くしている感じはあるのですが、東京マイ初日に台詞や動きがいくつか足されたせいか(しかし今回に関しては台詞はむしろ減らしてほしいという珍しいパターンだった気がします…特にキャラクターの感情や物語のテーマに関して、イケコの脚本はちょっと言葉数が多すぎる気がしました。もっと生徒の演技と観客の芝居感知能力を信じてもいいのでは…ただ原作漫画を未読の知人からはバンパネラに関するルール、たとえばどうしたら人間はバンパネラになるのかあるいは単に血を吸わるだけで死ぬのか、バンパネラにできることとできないこと、バンパネラが死ぬ条件などがわからなくて困惑したそうなので、そういう説明はもっと足してもよかったのかもしれません)わかりやすくなったというよりはずいぶんとなめらかで引っかかりがなさすぎるくらいのさらりとした仕上がりになってしまったようにも感じ、大劇場初日にあったもう少しざらりとしたりトゲトゲしたりギスギスした不安定な危なっかしさは原作漫画の雰囲気をよく表していてかえってよかったんだけれどな、とも思ったりしました。でもその後新公を観てまた本公演を観てそうしたら芝居もまた変化していたように感じられたので、やはりまとめとしていくつか語っておきます。
 ところで大劇場観劇時に少しも早く検討していただきたいと訴えた「13年後」「もっといい子がいたんだ」「大先生」「未練」についてですが、最初のものはわりとすぐになくなったそうですね。正解です。
 アランがマーゴットに言う「もっといい子がいたんだ」は呼んだ女をチェンジとか言う男みたいだし(ヒドい)、さらにもっといい子がいたらさらに乗り換えかねないように聞こえるので変えてほしいし、そもそも原作漫画にない台詞なのでなんならなくしてほしいと思っていたのですが、まずもってしろきみちゃんのマーゴットが原作よりいいくらいなのでここでロゼッティのことを持ち出すのもすごく自然で、捨てがたくも思っていたんですよね。そうしたらなんか、まあ私は全体にれいちゃんアランがすっごく好きだっていうのもあるのですが、流れで観ているとこのアランの少ない語彙力でなんか捨て台詞を言おうとするとこんなふうになっちゃうんだな、とすとんと納得できてしまえたのでした。ここは新公のつかさっちの方が変に言いよどむような芝居をしていてかえって変に感じたかなー。ともあれ印象レベルの話で申し訳ない。
 「大先生」についてはもう何故周りの誰かが止めないのかさっぱりわかりません。これは「だいせんせい」ではなくて「おおせんせい」でしょう。若旦那に対する大旦那、若奥様に対する大奥様と同じで、クリフォードを若先生とするからカスター先生が「大先生」なのであって、偉大な医師ということではないはずです。お馬鹿さんなのかな?
 それからするとやはり「未練」云々は引っかかったなー。アランを仲間に加えようとするエドガーに対してメリーベルが「その人、まだ未練があるわ」と言って止めるとか、アランを迎えに来たエドガーが最後に「未練はないね?」と確認するとか…
 だってエドガー自身が、原作では「時どきじゃない/いつだってもどりたかった」と言っている人なんですよ、エドガー自身が人間であることに未練たらたらの存在なんですよ。それで言うとこの問題は根が深くて、舞台版では幼いエドガーがシーラに促されてではあるけれどある種の覚悟を決めて大老ポーに血を吸われに行くし、エドガーと再会したときのメリーベルの一緒に行く宣言もそうだし、ラストのエドガーの手を取るアランもそうなっちゃています。でも原作はもっと、仕方なく、とか流されて、とか強要されて無理強いされて、とかあるいは感情の爆発のままに…というニュアンスが濃くて、決して覚悟を決めた上での冷静な決断ではないんですよね。その根底には、というかこの作品全体の通奏低音として、永遠に生きざるをえない者の孤独とか悲しさとかいったこと以上にこの、何かを理不尽に強要されること、それに服従せざるをえないことへの静かだけれど根強い恨み、怒り、悲しみ、絶望みたいなものがあるのではないかと私は思うのです。それはこの世にそういう存在としての女として生きざるをえなかった(そして今もそうして生きている)若き日のモー様の想いがあふれたものであり、思春期前後であったろう当時の読者の心に響いた部分だったのではないでしょうか。そのあたりが今、先に舞台版を観てあとから漫画を読んでもすでに自身が大人で響かない観客・読者もいるらしい様子に表れている気が私はします。この作品に対して若いまま長く生きられて楽しそうじゃん、という考え方ができる人にはこの作品の本質は伝わらないと思うんですよね…
 未練がなければ、未練がなくなるくらいに満足したり絶望しきってあきらめがついたりしたのなら、そりゃそのあと仲良しと永遠に生きていけるのは楽しそう、くらいに思えるのかもしれません。でも本当はそうじゃなくて、未練がどうとか判断もできないうちに嫌も応もなくこうなってしまったこうされてしまった…という物語なんだと思うのですよ、この話は。だからこの言葉が私の中では一番尾を引いています。だいたい陳腐な言葉だしな…てかイケコの辞書もたいがい陳腐なんだけどさ…

 私はやっぱり原作漫画のファンなので、今回に関しては演目そのものとしてあまり上手く観られていない気がします。全体の評価としては、原作を壊していたら暴れる、という気合い満々で行ったのにそんなに悪くなかった、むしろすごく良くできていたという点で、すごく高く評価しています。どんだけ低く見積もってたんだって話ですが、そしていい意味でも悪い意味でもいかにもイケコっぽい、というかイケコっぽすぎるとも思うのだけれど、それも含めて本当に上手く舞台化、エンタメ化、宝塚歌劇化されていたと思いました。
 一方で、エンタメすぎるというか、なるべくたくさんの人にわかりやすく楽しんでもらうために言わずもがなのことまで言いすぎちゃってるんじゃないかとか、「♪人は愛がなくては生きてはいけない」みたいなわかりやすいお題目に流れすぎてテーマが原作と微妙にズレているんじゃないかとか、の引っかかりはあります。総じてやっぱりイケコの持ち味としては少女漫画より少年漫画なのかな、とかね。すぐに実写映画化されてそして意外に映えるような現代の少女漫画ならともかく、こういうタイプの少女漫画の空気感までをもこの大きな舞台で再現するのはやはり無理があったし向いていなかったのだろう、とかね。でもその中では本当に大健闘していたと思うし、原作を無残に破壊されて泣く、なんてことにならなくてよかった思っています。どんな舞台化をされても原作漫画のすごさが傷つけられることはないしね。「この解釈でいいのかイケコ…」とイケコの株を落とすことはあれど、ね(^^;)。
 でもまた逆の一方で、宝塚歌劇としてはあくまでイレギュラーだし例外的な作品だと考えた方がいいんじゃないかな、とも私は思っているのでした。エドガーみりおはもちろんアランれいちゃんが並びでいたこと、シーラゆきちゃんがいたことという、生徒に恵まれたことは確かだけれど、宝塚歌劇としてはやはりみりゆきの男女の恋愛を描くのが本質だろうと思うのです。だから今回がすごく良くて好評だとしても、続演とか再演とかなくていいし、別にこのまま『小鳥の巣』を観たいとかも私は思いません。宝塚歌劇がやるべきことはもっと他にあるのではないか、その意味でこの演目はイレギュラーでありほとんど評価対象外なのではないかと私は考えているのです。再三語っていますが私は宝塚歌劇にものすごく狭い理想というか「べき論」を持っていて、100年かけたってそれは全然達せられていないんだからまずそこをクリアしてから他のことにも手を広げてくれよ、と思っているからです。
 そういう意味でも、これがみりおの代表作のひとつではもちろんあると思っているけれど、エドガーがベストアクトだとは言いたくない気がするし、『春の雪』や『金色の砂漠』の方が作品としてもやっぱり良かった気もするし、だからやっぱりこれがゴールなんかじゃ全然なくて、もちろんもう『あかねさす~』も天草四郎も決まっているんだけど『あかねさす~』は再演だし天草四郎はダーハラで期待なんかできないんだから(オイ)、その次、もっとちゃんといいものをやって、それで惜しまれつつ卒業…となってほしいな、って話です。だいぶ任期長いしご本人ホントお疲れに見えるし痩せちゃって心配だし、花道を考えてあげてほしいなって話です。これは私が個人的にはみりおファンでは特にないからこそ言っちゃえるクールすぎる意見なのかもしれませんが、これでも親身に心配しているのですよ…ある種歴史に残るスターだとは評価してもいるのです。

 というわけでいつにも増してくどくど屈託ある文章ですみませんでした。
 最後に新公の感想と、合わせてキャストの感想を。
 前半がばっさりカットだったというのもあるかもしれませんし、本役がみんな本当に役にはまっていたこともあるかもしれませんが、総じてみんなちょっとあっぷあっぷして見える新公だったかな、という印象でした。
 ほのちゃんは、劇団が押していてかつ周到に育てているのもわかりますし、映像で見たときには美しくていいなと思ったのですが、だいぶ緊張しているように見えたためかエドガーの超然としたところがあまり感じられず、私はちょっと残念な出来に感じてしまいました。みりおのすごさを痛感しましたね。
 つかさっちのアランは、本役よりむしろ原作に近かったかもしれませんね。つまりアランって、別に必要以上に繊細な美少年である必要はなくて、むしろごく普通のワガママなお坊ちゃんでやんちゃなきかん坊で、ってくらいでいいんだと思うのです。そういう普通さ、まっすぐさ、あたたかさはニンですごく上手かったし、歌も明らかに上手かった(笑)。どうしてもトートツに聞こえる銀橋の「恋は?」もすごく自然に持っていっていて驚きました。
 でも私はやっぱりれいちゃんアランの方がいいなと思ってしまったんですよね…れいちゃんだと美しすぎるくらいで、でもやっぱりニンとしては病的な美形というよりまっすぐであたたかい人で、でも必要とされる繊細さとか不安定さとかを芝居としてちゃんとやれていて、歌がまだまだ弱いのも含めて好きでした。不思議なものです。ああ、れいちゃんの中大兄が本当は観たいんだけどな…
 シーラも、人間時代がカットだったので演じようがないのかもしれませんが、しろきみちゃんは意外にフツーで、ああゆきちゃんのあの人外感は素晴らしいんだなと改めて感心したのでした。
 メリーベルも、実は私は華優希ちゃんはけっこう男顔なのが気になっていて娘役としては舞空瞳ちゃんの方が有望なのではないかと思っていたのですが、比較して観るとやはり新公メリーベルはなんかちょっと生っぽくて、ああこれまた本役の華ちゃんはちゃんと人外の「永遠の少女」を演じているんだなと感じ入りました。
 あかちゃんの男爵はよかったかなー。それは私があきらの芝居をあまり買っていないせいもあるかもしれないんですけれど。あきらの怒り方はずっと一本調子に見えて、でも男爵が性格的に短気だったりするのとエドガーと衝突することにはいろいろ違いがあるはずで、あかちゃんの方がバリエーションがあった気がしました。あとダンディで素敵でした。新公主演したあとにこういう役に回るとまた進歩する、というのはありますよね。
 ジェインが、べーちゃんだとどうしても華がありすぎて見えましたが小うららちゃんだと言い方良くないかもしれないけれどちょうどいい感じがして、これは目を引きました。あと亜蓮くんクリフォードも。もっと使ってあげればいいのになー。
 あ、あと私はまひろんの顔が好きなんですけれど、銀縁メガネもお似合いでしたね! 新公の役付きが悪いのは成績がすごく悪いのか、歌か芝居がめっちゃ下手なのかなと思っているんですけれど、バイクはわりにちゃんとしていたと思うんだけどなー。世間的な評価はどうなんでしょう? 私が甘いのかなー。
 そういえば本公演でホテル場面で下級生チェックにいそしんでいたら、バーテンダーの澄月菜音くんに惹かれました(^^)。

 さらにそういえば、フィナーレは素晴らしかったですね!
 娘役ちゃんに囲まれて大階段に板付くとやっぱりみりおは小さくて、宙組を見慣れている身としてはあと二段分くらい背が足りないんじゃないの?とか思っちゃうんだけど、髪型とか素晴らしいし、ああいうピンクが似合うのも素晴らしい。
 キレッキレの男役群舞も素晴らしいし、ゆきちゃんの至高の娘役芸ががっつり堪能できるデュエダンも素晴らしかったです。 
 マイ楽が友会が当ててくれたSS席観劇で大満足で仕上がったのも大きいかな。千秋楽のライビュは見られそうになく、カメラで切り取られたらどう見えるのか興味があっただけに残念ですが、そんな思いも含めてひとつの思い出として、もうそっとしまうことにしますね。
 おもしろい作品でした、ありがとうよかったねイケコ。そうそう、さすが東京公演は少女漫画家さんたちが端から足しげく通っているようなのもツイッターなどからうかがえて微笑ましかったです。『天河』も楽しみです!





コメント (2)
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