日本青年館、2011年8月13日ソワレ(初日)、17日ソワレ、18日マチネ、19日ソワレ(千秋楽)。
ドラマシティでは初日と前楽、千秋楽を観劇しました。
ドラマシティでの演出助手は生田大和、青年館公演では小柳奈穂子になったそうです。
そのせいなのか、こちらの感覚の違いなのか…よりメリハリがついた舞台になったと思います。
それと同時に、作品が持っている骨格がよりクリアになって、なんかいろいろと見えてきて考えさせられてしまいました。
ドラマシティ公演を見終えた時点では、そこまでは考えていなかった気がします…もちろん地震のことがあって、あまりものが考えられる状態ではなかったのかもしれないけれど…
舞台って本当に生き物で、深化し進化し変化する。おもしろいものだなあ、としみじみ思います。
第1幕序、クリーヴランド号甲板の場面。
なんといってもすっしぃさんの優しい親父さん然とした船長が素敵ですよね。
その船長さんに、片言英語で果敢に話しかけるルディーの愛らしさ、まっすぐさ、すこやかさ、キラキラ感はたまりません。
アランチャを投げるところで綺麗に暗転するところも大好き。
東京に来てより若いルディーになったな、と思ったのですが、数年たったマキシムでは、ナンバーワンダンサーとして十分スレていました(^^;)。
ビアンカに対してがっつりいくのは、ジゴロとしてのデモンストレーションでもあるとは思うけれど、『ルナロッサ』のシャーハンシャーの名残を見たりして(^^;)。
そうだ、その前にマダムからチップをもらうところなんだけれど、むしろ他の客からはその行為を隠し、観客にはよく見えるよう、体の向きを逆にした方がいいんじゃないのかなあ。
日本にはあまりおひねり文化が根付いていないと思うので、何やってるかよく見えなくてわかんなかった人もいたのではないかと心配です。
ちなみに私が見た回ではマダムのハンドバッグのチェーンが切れたか何かでバッグが床に落ちたことがあり、マダムはしばらく空手で踊っていましたが、いいタイミングで拾い上げて、無事にバッグから出した札をルディーの胸ポケットにねじ込んでいました(^^)。
ビアンカの浮気を疑って乗り込んでくるデ・ソウル。もともと後半のクールさとの対比で、ここは間抜けに見えてもいい、という演出だったと思いますが、よりオーバーアクションになって、観客の笑いを誘うようになっていました。
おたおたあわてて逃げるルディーはすっかり元の少年の顔。
それでも最後には自首するかのように挙手して前に出るのですが、デ・ソウルには気づかれません。
逆にそれまでルディーをかばって隠していたマダムが、テーブルクロスを持ち上げて、テーブルの下に隠れなさいよっ!と必死で身振り手振りする芝居が増えて、クスクス笑いが倍増でした。
ボスより強いビアンカの大活躍(^^)で、ルディーは窮地を逃れ、カリフォルニアに旅立ちます。
エキストラの場面のおかしさは変わらず。
そしてジューンのバンガローでの出会いの場面になります。
ルディーの、わざとの片言英語での嘘のつきっぷりには磨きがかかり、ここでもクスクス笑いが倍増。
「よっ、姉ちゃん!」
の蓮っ葉さもいい感じに倍増したかと(^^)。だからこそより憎めなくて、ジューンでなくても家に上げたくなってしまうというものです。
招き入れられた家の中を興味深げに眺め回すルディー。
座るように言われて、おずおずと椅子に腰掛けるルディー。
怪我の手当てをするのに
「手を出して」
と言われて
「ハイ」
と子供のように手を突き出すルディー。相手を信用しきっている感じ、まったくの純真な子供です。
ジューンが食事の支度をしている間、ジューンのタイプライターをいたずらするのですが、乱打っぷりが日々激しくなって、これまた笑いを誘っていました。千秋楽には、
「勝手に触らないで!」
とぴしゃりと叱られたあと、もう一回だけキーを押すいたずらっ子ぶり。
その後食事にかぶりつくくだりもアドリブタイムで、ほおばりすぎたルディーが返答できないでいると、ジューンが
「よく噛んでよ」
と言ったり、ルディーが
「ちょっと待って」
と水を飲んだり…
でも私はこのくだり、カステラネータという地名が聞き取れなくて(というか聞いたこともない土地だったのでしょうが)、
「え?(何?)」
みたく聞き返すジューンが、ホントの外人さんがよくやるように目を眇めるのがすごく好きでした。またそういう仕草がナチュラルなんだよね。
ルディーがタンゴを踊れると知って、スタジオにカメラテストに来るよう言うジューン。
エキストラではお金を貯めるどころか日々食べるのもままならないくらいだったけれど、カメラテストが上手くいけば道は開けるかもしれない。何もかも上手くいき、母親を呼び寄せることもできるかもしれない。
「本当に? 本当にそうなると思う?」
と聞くルディーの甘えた、でもそれにすがりつきたくて必死な声の可愛らしいこと! ジューンでなくても請け負いたくなるってしまうというものです。
で、
「ありがとうマシスさん!」
なんて天真爛漫に言われて抱き上げられてくるんと回されて頬にチュッ、なんてされた日には、ジューンでなくても恋に落ちようってものですよ!
「ジューンって呼んで!」
なんて言っちゃって、思わず引きとめちゃって、思い出したようにオレンジなんか渡しちゃって、
「ブォナノッテ、ジューン。チャオ!」
なんて手を振られて、思わずこちらもチャオ、なんて返しちゃって…そのときにはもうすっかり恋の中ですよ。
人が恋に落ちるときの突然の幸福感を、とてもよく表しているシーンだと思います。
そのあとの、撮影小道具の拳銃で自殺の真似事をするくだりは、だからちょっと謎なんですけれどね。
だってジューンは弾が出ないことは知っているわけで、それで自殺なんかできないことはわかっているわけですよ。
なのになぜあんな仕草をするのか?
私は、「ちょっとジューンあんた冷静になんなさいよ、結婚に失敗してもう男なんてこりごり、ひとりで生きていくって決めたところじゃなかったの?」なんて感じでちょっと自分を諌めようとしているのかな、とは思いましたが。
でも、止められないのが恋心というものです。そしてさらにジューンは作家でもあったので、筆が乗ってしまうのでした。
タイプライターを軽く叩きながら楽しそうに歌う「ラテンラヴァー」の美しいこと!
ちなみに、序の甲板からこのバンガロー、ナターシャの家やリングなど、すべて少し八百屋の小さな白い床というか台というかに乗った形になっているのですが、場面転換でこの床が引っ込んでいくのが繰り返されて、とても印象的ですよね…上手い。
同様に、電話がまた上手く効果的に繰り返し使われている舞台でもありました。
ジョージの電話芸の鮮やかさは特にすばらしい(^^)。
翌朝、ルディーは特に身綺麗に支度することなど考えもせずそのまんまでやってきて、ジョージに対しても屈託なく握手なんかしちゃって、それでもどうにも胡散臭がられているのはわかるので、さて困ったどうしよう、というところにジューンがやってきます。
思わずあげる
「ジューン!」
という声の情けないこと可愛いこと! 絶品!!
ジョージの「ジューン」とハモるから、でもあるのですが、ここでも思わず笑いが起こります。
奇跡の鏡で(アリサちゃんの歌がいいんだまた!)「ルドルフ・ヴァレンチノ」に変身したルディーは『黙示録の四騎士』のセットに入り、華麗なタンゴで役をさらう…ということになっていますが、踊っているのは桜子ちゃんではという無粋なつっこみ早めておこう(^^;)。
ただ、踊り始める前にルディーがガウチョの鞭をヒュン!と鳴らすのがカッコいいよね(^^)。
映画は大ヒット、ルディーは一躍アイドルスターに。
ヴァレンチノヘアにしたジョージのアドリブタイム、千秋楽は「俺もタンゴ習おっかなー!」でした(^^)。
ところで、続くくだりでジョージがやっかみ半分とはいえルディーのことを「あのイタリアの女ったらし」とかいう根拠はなんなんですかねえ。
ルディーに一番近いところにいる彼らからしたら、ルディーがそんな器用でチャラいプレイボーイとかでは全然ないことはわかりきっているんじゃないのかな? それくらいステレオタイプなイタリア男像ってものが根強くあるってことなんでしょうねえ。
「ルドルフ・ヴァレンチノ」の生みの親といったところね、と言うジューンに対し、ジョージは
「へー、お母さんだったの?」
と冷やかします。これが後々引っ張るモチーフのひとつとなるわけですね。
当のルディーはあいかわらずで、せっかくの黒燕尾を着ても自信なさげに猫背のまま。まさしくママが見守っていてくれないと何もできないお子ちゃまです。
ジューンとジョージに付き添われて、ルディーは『椿姫』のセットへ。そして、ナターシャと出会うのでした。
ところでナジモヴァはナターシャべったりで絶対デキてるだろって感じなんですがそこはスルーですかそうですか。
あと、ナターシャでないときちんと着付けられないドレスですが、ナターシャが手を貸す前もどこがおかしいのかよくわかりませんでしたが…もうちょっと差がはっきり出てもよかったんじゃないのかな?
ルディーはナジモヴァに気に入られ、テストは好評。そこへ電報が届きます。
「ロドルフォ・グリエルミさんは」
と言われて
「ハイ、ボクです」
ってゼヒこの表記で書きたいこれまた屈託ないルディーの台詞と仕草がたまらなく愛らしい。
しかしそれは母親の訃報だったのでした。
ジューンとジョージはテストを中止させ、ルディーをひとりにしてくれます、しかしナターシャはつけつけと彼を自宅に誘うのでした。
メロソープ役のスーパーあもたまタイムは例によってすばらしい。でも前公演の部分休演が尾を引いて、フィナーレのダンスには出ていませんでした。早く全快してね。
そして船長役とはうって変わったラスキー役のすっしぃさんの一癖ありげな業界人っぷりがまたたまりません。でも、この人もドサ周りのバンドマンだったころはまっすくで夢にあふれていた青年だったろうに…とも思わせる。すごい。
ルディーは今の仕事に特に不満を持っていません。ラスキーにギャラアップをチラつかされてもピンと来ていないし、ナターシャに前世がどうとか言われても信じられないでいる。
でも、ナターシャが名前を変えていた、という事実は響いたのです。長くて笑われようが、本人にとって自分の名前は神聖で絶対なものです。なのに、芸名の「ルドルフ・ヴァレンチノ」がひとり歩きし始めている。そのとまどいは感じ始めている。
一方で、新たな人生を切り開くために、自分で名前を変えたという美女が目の前にいる。チャンスをつかんで、それを逃さないように必死で努めている、自分と似た境遇の女性。
「朝焼けの海を一緒に見たいの」
なんてベタな口説き文句ですが、まあひっかかっちゃうのが男だよね。
それでもルディーは自分からキスしかけたのを止めて一度は身を離すんだけれど、ナターシャに腕をつかまれて引き戻され、今度はキスしてしまうわけです…
ちなみにここのナターシャのキスが今イチ不器用なんですよね。
それは演じるカイちゃんの技術の足りなさなのかもしれないけれど、この場合はよかった気がします。
いったいに、ドラマシティでのナターシャはスカしていたというか、とにかくクールで美しいファムファタールでなければ、という形にハマろうと必死だっただけのように見えて、そしてビジュアルだけだともちろん美しいんだけれどもっと美人は世の中に他にもいるよたとえばユキちゃんのナターシャとかね、とか言えてしまうわけで、ナターシャの魅力がよくわからず、ルディーが何故身そんな彼女に惹かれるのかもよくわからなかったんですよね。男って結局、神秘的な美女に弱いってこと? 何ソレ、けっ、みたいな。
でも、青年館のナターシャには血が通いました。生身の人間になりました。美しいしつっぱらかっているけどやっぱり中は普通の女の子、という感じになりました。これがよかった。
おそらくジューンの方がナターシャより年上だし、学生時代の恋と早い結婚に破れているとはいえ、なんというか全体的にジョーンの方がナターシャよりも世慣れた人間なのではないかなあ。家族や社会に恵まれた感じがするというか。
でもナターシャは多分、美貌と才能を持っていながら田舎に生まれてしまって、あまり周りの評価を得られず、周りから浮いて生きてきたのではないかと思うのですよね。名前を変えてハリウッドに出てきて一躍ときめいたけれど、意外にやることをやっていないのかもしれないわけですよ(^^;)。
ナターシャは愛と評価に飢えた少女、子供なんですね。
ナターシャにとって、このたどたどしいベタな口説きは、一世一代のものだったかもしれないわけです。自分に初めてインスピレーションを感じさせてくれた男性を、絶対に手放したくなかったのです。だから体当たりで落としたのです。
一方ジューンは、ルディーより年上だし自分はバツイチだしそもそも仕事上のつきあいであって…とかなんとかいって手を束ねていたんでしょうねきっと。そして確かドラマシティ初日感想に書いたかもしれませんが、史実は知りませんがおそらくジューンはナターシャほどは美人ではなかったのだと思う。十人並みというか、綺麗というより可愛い、親しみやすいと言われてしまうタイプ、とかさ。もっと言えば不美人というかさ。そういうコンプレックスがあって、とてもそんな体当たりでいけないでいる間に、さらわれてしまったのではないかしらん…
この前の場面までクスクス笑いがあふれていただけに、このスピリチュアルの妖しさと人間関係がもつれていく深刻さが浮かび上がって、観客はぐっと物語りに入り込むことになるのだと思います。
ともあれヴァレンチノ人気はうなぎ登りでファンはエスカレート、警備の警官たちをもなぎ倒すイキオイです(^^;)。
クールでスターなんか興味ないよって感じのりくくん、スターが現れるとファンと一緒になって寄ってっちゃって匂いとかかいじゃうカケルの警官が楽しかったです(^^)。
こーまいの「ルディー!」もね。怒号のときもあれば裏声のときもありました(^^)。
ナターシャが思わせぶりな婚約宣言なんかしちゃって、ルディーはジューンの顔色うかがっておたおたしちゃって。
ナジモヴァが怒髪天ついてたのはナターシャを取られちゃうからですよね?(^^;)
ルディーはパラマウントに移籍して、ジョージはその責めを負ってメトロをクビに。ジューンはルディーの映画の脚本を書き続け(ラスキーのアタマにアクセントを置いた「キャラクター」という言い方がたまらん)、ファンはますます狂信的になっていきます。
この、ファンが持つルディーのプロマイドというかポスターが、暗闇の中でライトが点くとポスターが透けてファンの顔が亡霊のように浮かび上がって見える…というのは再演までにはなかった演出だそうな。
とてもいいです、怖いです。さっきまで警官だったヒトたちがファンに混じってて怖いとかそういうこととはまた別に(^^;)。
「ルディー、ルディー、独り占めしたい。憎いほど好きよ」
と歌うファンの心情は、そのままルディーを巡って立つジューンとナターシャの心情でもあります。これまたとてもよくできている。
ジューンの描くキャラクターとロマンスは、ベタだの陳腐だのと言われようと全世界の女性のある種の夢、望みなのですが、ナターシャがルディーに見ようとしているものとは違う。ルディーとナターシャは結婚し、ジューンは身を隠します。
闘牛シーンの練習のために、カポーテと格闘するルディー。中の人のアレがたどたどしいせいもありますが(^^;)、ここでルディーにまとわりついたり、なかなか意のままにならなかったり、でもそれを持つ人を大きくも美しくも見せるカポーテは、ルディーにとってはまさに「ルドルフ・ヴァレンチノ」という名前そのもの。
アランチャを踊るルディーに、ラテンラヴァーのアレンジメロディとともにジューンが絡み、インスピレーションのメロディとともにナターシャが絡む、その美しく残酷な構図。
そしてひとりになったルディーは、カポーテを床に叩きつけ、天を仰ぐ。
そこで第一幕の幕が下りる。美しい…
第二幕はナジモヴァのパスタアドリブから始まります(^^)。
千秋楽は
「忘れられない味になりそうだわ」
なんて言って、上手いこと言うなと思っていたらパスタがうまくフォークに絡まず、一口食べて退場するまでけっこう時間がかかりましたが、シリアスに耐えたルディーはカッコいいなあ。てかここのスモーキング・ジャケット姿好きだなあ。
新婚旅行を終えて共に暮らし始めたとはいえ、ルディーとナターシャの生活スタイルは何もかも違うし、結婚生活に対するビジョンも違う。そしてふたりとも相手の変化と理解を求めてしまう。
ルディーが部屋を出て行ってしまい、ひとり残されたナターシャが歌う「夢の行方」がまた上手くないのがいいのです(カイちゃんごめん)。ナターシャの必死さがよくわかるし、ナターシャが普通の女の子だってことがよくわかる。ちょっと美人で才能があって、でもそんなこととは別にメンタリティとしてごくごく普通の少女なんですよ彼女は。大人になるとか母親になるとか、そういうめんどくさいことはイヤなの。好きなようにしていたいの。義務を負わせられたくないの。わかってほしいの、そのままでいいよって言われたいの。
彼女はまだまだ少女なのです。美貌と才気を別にしたら、おそらくはごくごく平凡な…
それは、ルディーが美貌やダンスを別にしたらただの普通の男だったのと同じなのです。彼は母と妻と子供たちとの家庭を望むだけの、ごくごく平凡な男性だったのです。
そりゃ、平行線をたどるに決まっています。
ナターシャには少女らしい野心があって、ルディーをシェイクスピア劇に挑戦させます。そして失敗に終わる。結婚生活もまた…
ルディーはまたも移籍して、しかしジョージと再会して、監督に転進する夢を語ります。
一方世間ではヴァレンチノ人気はやや翳りを見せ始めていて、冷やかしや中傷記事が新聞なんかを賑わすようになっている。いつだって真剣なルディーは受け流すことができなくて、ますます騒ぎの元になったりしてしまいます。
リング記者会見のあとの、女性記者とのくだりがせつないんですよね…
キャラクター名でサインをせがむ彼女たちは結局ルディー自身のことなんか見ていないし、「今度、ボクシング映画撮ってくださいね」なんて言う彼女たちはルディーの会見の真意がわかっていない。ベスト姿も麗しいルディーがグローブを投げつけて佇む背中の悲しさに泣けます。
そのキャラクターたちを生み出したのはジューンでした。ルディーに頼まれてジューンを探し当てたジョージは、ジューンを訪ねてルディーと会うよう頼みます。
ジューンが電話番号をメモする間のジョージのたたずまいがいいんだよねー。ジューンの手元を眺めて書きあがるのをただ待っているようでもあり、ジューンの横顔を見つめて何かを確かめているような慈しんでいるような、でもある。
温かい人柄が随所に現れる好演技でした。
さて、ジョージからの吉報を飲んで待っていたルディーはデ・ソウルとの思わぬ再会を果たします。
ゲストルームに呼ばれての…まあなんというか、簡単に言うとリンチってことですよね。
要するにルディーの物語はスターの光と影、栄光と転落みたいな、典型的な話なワケですよ。
本人自身は意外に平凡で、周りが作り上げたスター像との乖離に悩み、平穏な家庭生活は得られず、スピリチュアルなものに流されかけ、暗黒街と絡みができちゃって酒と女と薬にダメにされる…って、ベタすぎるでしょ。俳優から監督に転進したがるとかもね。だってルディーが作ろうとしている映画、絶対当たりそうにないもんね、もうお定まりだよね。
それはともかく、『カサブランカ』で戦場の記憶に苛まれるリックといい、『美しき生涯』でカルマダンサーに絡まれる三成といい、とにかく翻弄されてなんぼみたいな中のヒトですが、そこにさらに相手がムダに色気のあるもっさんが相手ですから(ムダ言うな)、集団私刑というかむしろ性的暴行の香りが漂ってしまっているのは再演まではなかったってホントですかそうなんですか?
でも今回は明らかにそういう演出意図、振り付けがありますよね? それは現代の何かにおもねったものなのかなあ…でも初演時だってすでに『トーマの心臓』も『風と木の詩』も発表はされていたけどね。イヤだから何と言われるとアレなんですが。
でもぶっちゃけ個人的には純粋な暴力よりレイプの方が理解しやすいし耐えられる気がするんだよね…女性が体格とか体力とかで男性にかなわないのは絶対なワケで、だから暴力って本当に怖いわけですよ。絶対に勝てないから。でもセックスは対等とは言わないんだけどイロイロあるわけだし、広い意味では望まないセックスを経験したことない女なんかいないんじゃないのかなとかみんなそのやり過ごし方を知っているよねとか思うと、ルディーに対してもだから大丈夫だよと思える気がするの。まだ望みや救いがある気がするの。単純な暴力の方が、逃げ場がなくて、不快に感じると思うのです。
だからこれはBL人気を当て込んで安易に変更されたものではなく、より女性観客にわかりやすく受け入れられやすくするための改変だったのだと思いたいです。
ボロボロになったルディーは、浮浪者からオレンジを譲ってもらい、遠い日の夢を思い出します。
おりしもニューヨーク港、イタリアから海を渡ってきたあの日と同じように、自由の女神が朝焼けの空に輝いている。
もう一度、今度こそ。
ここ、贅沢ですが生オケだったらなあ、と思ってしまいました。感情が乗りすぎて早く歌いすぎていて、音楽と合っていないように聞こえる回もあったから。
それをなんとかコントロールするのがプロなんだ、ってのもあるでしょうが。
パーティー会場でのルディーのスピーチはとても明快です。
促すジョージはどこまでも優しい。でもジューンは逃げ出そうとします。それはなんかほとんど本能的なものですよね。
でもルディーの
「ジューン、行かないで!」
という悲痛な声が足を止めさせる。出会ったころのまんま、変わらずまっすぐに自分の助けと支えを必要としている、嘘のない声。
こんな人前で、こんな席で。断りようがない状況に追い込むなんてルール違反。
でもこれしかなかった。こうなる運命だったのだ。
「ルディー…あなた自身が、どの役よりもずっと好きよ」
初日に見たときもハッとさせられた台詞でしたが、千秋楽のこのあとの間は本当にすばらしかった!
ルディーが思ってもいなかった、でも実は一番言われたかった言葉を、目の前の愛する人が言ってくれた驚きと喜び。
そのキャラクターたちを書いたのも彼女なのに、そのすばらしさも一番知っているのに、それを演じているだけであとはダメダメな自分のことも全部知っているのに、好きだといってくれた。愛していると言ってくれた。
万感の「ジューン!」と、抱擁と。パーティー客と一緒に拍手したいくらいだったなあ。
そのあとのパパラッチ(とはこの時代はまだ言わないのかな?)とのやりとり惚気の微笑ましさは、でも、筋書きを知っていると「終わりの始まり」であることもわかっているわけで、こそばゆそうにうれしそうなジューンやウキウキルンルンで茶目っ気たっぷりになっているルディーを見るだに胸が締め付けられます。
そして「チャオ!」と手を上げて、笑顔で去っていくルディー…
ええ、ええ、死亡フラグですよ。でもこのときのジューンにはそんなことは当然わからないのです。わかっている観客は、ただただ泣くしかない。
ルディーからの連絡を待ちながら、いつものようにラジオを供に仕事をするジューン。そこにニュースと、電話。
電話の声に固まるジューンの背中の、なんと雄弁なことか。どうして幸せというものは、手に入れたと思えた瞬間にすり抜けていくものなのか。
ジュリオの、アルマンの、ムハメッドの、ガラルドの幻がジューンの周りに現れます。でもそれは幻でしかない。ジューンが本当に欲しかったもの、得られるはずだったものとは違うのです。
オレンジの木の向こうに消えていくジューンの姿に、毎回涙が止まりませんでした。
ジョージによって語られる、ルディーの葬儀の様子と、その一年後のジューンの急死。
それは事故のようなものだったのだけれど、でもジューンとしてはやはり生きてはいけなかったのでしょう。最初の恋に破れ、慎重になっていたのにまた恋に落ち、失いかけ、やっと手に入れて、手に入れたと思ったらすり抜けていって…もう、耐えられない。もうこの先なんて、ない。
最後のくだりは、なんなのでしょうね。
ジューンの夢? ジョージの夢? 天国でのふたり? こうなることもありえたというもうひとつの現実? 来世?
アランチャってなんなのか。人と人が出会うとはどういうことなのか。誰かが誰かに何かを渡すとはどういうことなのか…
言葉にしきれない、思いがまとめられないうちに幕は下ります。早すぎるのではとヒヤヒヤすることもあった幕の下り方も、むしろあれが正しい狙いなのかもしれません。
…長いおさらいでしたが、本題は実はここからなのです(^^;)。
途中書きましたが、要するにルディーの物語としてはほとんどベタで平凡と言っていいくらいにステレオタイプな展開なわけですよ、この作品は。
しかし、まあ史実だからというのもあるのでしょうが、というかナターシャとの結婚と離婚は史実だけれどジューンとの関係はどのあたりまでどうだったのかというのがあるわけですが、要するに私は、この作品のヒロインがジューンであることがこの作品において何より重要だと思うのですね。
小池先生自身はプログラムに
「今の私がこの題材を書いたなら、矢張りルディーとナターシャの愛のもつれを主軸にした物語になって行くだろう」
と書いているのですが、私は当初からこれに異論がありました。それは多分おもしろい話にならないと思うのです。男と少女は平行線のままだと思うから。
少女のために男が変わる話をおそらく男の作家は書けないし、よっぽど上手く書かなければ観る女にもただの夢物語にしか見えなくてつまらないだろうし、男も少女も変わらなければ関係は結ばれずふたりは別れていくしかなく、それは悲しい話にしかならないしそんなの当たり前すぎてお話にもならないかもしれないからです。
でも、ルディーとジューンは結ばれえたわけですよ。
ジューンとナターシャ、ふたりの共通点と差異はなんなのか。
ジューンもナターシャもクリエイターです。そもそもこの設定が特殊です。しつこいですがたまたま史実だったからかもしれませんが、こういうキャラクターを取り上げた着眼点がすごいと思う。
つまり普通のよくある物語というかロマンスでは、ヒロインは王女様であることが一般的だと思うのですよ。実際の身分とか肩書きのことではないですよ、人間としてのタイプが、ということです。世の中をどう捉えているタイプの人間かということです。
王女様タイプとは、世の中のことも自分自身のことも信じきっていてなんの疑いもいだいていなくて、今日よりもっといい明日が必ずやって来ることも疑いなく信じていて、幸福を信じ悪の存在を下手したら知らない、みたいな人間のことです。
蝶よ花よと愛され美しく育つとそうなります。そして賢すぎなければ。綺麗なおばかさんで周りに恵まれれば。
でもジューンもナターシャも、
「王女様になれぬなら、おとぎ話を作るのよ」
というタイプの人間だったのです。これはナターシャが歌う歌詞ですが、ジューンも同じです。
王女様になれない、そしてけれどおとぎ話は作れる人間。なんらかのコンプレックスがあって、愛されて幸せ、なんて夢が単純には見られない女。けれどそういう夢の物語をオリジナルで作り出せる才能と賢さに恵まれた女。
要するに、現代のいわゆるオタク女子がものすごく自分を投影しやすいキャラクターなんですね、このふたりは。
いや、今も昔も物語りする女子というものはいたわけですが。職業として自立するには時代の問題もあるけれど、たとえば本邦では遡れば紫式部とか清少納言とかね。
もちろんもっと遡れるでしょう。それこそ原始の時代まで。そしてもちろん物語りするのに男女は問わない。
けれど昔から、やはり男性は戦記とかの叙事詩を語ることが多く、女性は叙情を、ことに愛を書いたのではなかろうか? もちろん西洋の中世の吟遊詩人なんかは男性で愛を語るものですが、おそらく男性が語る愛の物語と女性が語る愛の物語とはどこかが違うし、どちらが女性好みかと言われればそれは同性が語るものなのではなかろうか?
そして宝塚歌劇は、座付きの脚本家はまだまだ男性が多いとはいえ、実際の性別はともかく、女性思考で女性志向(^^;)、つまり女性向けに作られている愛の世界ですよね。
そこに、ドリームヒロインとしての王女様ではなく、オタクでリアルな精神性を持った女性キャラクターがヒロインとして置かれていることがすごい思うのですよ。しかもふたりも。25年も前に! 作者がどれだけ自覚的だったかは別にして、こんな作品、類を見ないのでは?
ジューンとナターシャとの差異は、個人的には恋愛経験の差だと思っています。異論もあるでしょうが。
ジューンは別れた夫とそれなりに真剣に恋愛したのだと思うのです。結婚生活は敗れたとはいえ、恋愛でお互い変わったりもしたのだろうし、「男とはこういうもの」というだいたいのところがわかった状態でルディーと出会っていて、だから許容範囲が広いんだと思う。愛があれば母親代わりがやれちゃう程度には。
ナターシャにはそういう経験がないから、狭量なわけ。まず自分の夢、ドリームを相手に押し付けてしまう。頑なで潔癖な少女なわけですよ。
それは実際に処女かどうかということとはあまり関係がない。あくまで恋愛の経験だと思います。
恋愛で自分が変化する、ということを知っているかどうかが大きいのだと思うのです。恋愛で変わらない人間なんていないのだけれど、それがわからない人は経験してみないとそれこそ本当にわからないのです。
そしてナターシャは上手く変われなかったわけですね。パスタも好きになれないし、子供も欲しいと思うようになれなかった。
ジューンの方が母性的な女性だった、ということではないと思うのです。実際にはジューンだって子供なんか欲しがらなかったかもしれない。
だた、愛を知っていると、いろんな愛し方で相手を包めるようになるものじゃないですか。それこそときには母のように。
私は個人的には子供が嫌いだし出産は痛そうで怖いし、もういい歳だしおそらく子供を持たないままで終わりそうですが、それでも好きな相手がいたときには、この人との間になら子供を持ってもいいなと思ったことくらいありました。それは母性愛とかいうよりもやっぱり恋愛主軸のものなのだけれど、好きな男の子供の母親になりたい、というのは恋愛感情と地続きの発想だと思うし、男に母親扱いされて甘えられるのが苦痛という一方でそれくらいまで相手を丸ごと愛して面倒見てあげたくなっちゃうくらい好き、という恋愛感情ってあるものだと思うんですよね。
だからジューンは
「お母さん代わりはもうこりごり」
と言いながらも、やっぱりルディーを愛していた、愛せたわけです。
けれどナターシャは、愛されることに飢えていて、相手から丸ごと愛してもらうことを望んでしまった。愛し愛されることをまだ知らない子供だったから。愛で自分が変わることを知らない子供だったから。
そして男は、子供だろうが大人だろうが、女以上に自分が変わることに無自覚な生き物です。
ナターシャが子供でも、相手が変わってくれたらナターシャもまた変わることを学習できたかもしれないのだけれど、そんな男はなかなかいないってことなワケですよ。相手の気持ちを忖度せず子供と家庭を望んだルディーもまた、しかり。
だから上手くいかなかったのです。それは必然なのです。
で、我々現代オタク女子は(とひとまとめにしてしまいますが)、なかなか現実の恋愛には満たされず、物語の中のキャラクターに恋をし理想を求めてしまい、それは広い意味で宝塚歌劇の男役もそうなのかもしれませんがそれはさておき、なエアラブライフを送っているわけですが、そんな我々にとってナターシャの在り方はリアルすぎ、そしてジューンの在り方こそが理想なワケですよ。
好みのキャラクターを体現してくれる生身の相手とリアルな恋愛をする、なんて!
ううううらやましすぎる!!
けれど全体の物語としては、結ばれてハッピーエンド、ではなく、失われて終わるわけですね。
それは必然の流れのようにも見えるわけですけれど、問題は、では我々の幸せはどこにあるのか、ということですよ。
そして私は個人的には、それが簡単に、というか普通に手に入るような幸せな時代とか世の中になったときには、少女漫画とか宝塚歌劇とかもっと広く言えば物語はその役目を終えるのかなとか考えているのですが、残念ながらきっとそんな世は来ないだろうなとも思っていたりするのでした。
ナターシャの幸せ、あるいは行く末は逆に想像がつくんだよなあ。
ルディーと別れてヨーロッパの男爵へ、そこでも上手くいかなくて流れ流れて何度も男を変えてそれでも上手くいかなくて、そういう意味では愛は得られず幸福ではないのかもしれないけれど、自分を貫き続けられたのでこれはこれでいいか…という生き方も、アリだと思うのです。
あるいはどこかで、もしかしたら最後の最後に、ほとんどただのラッキーのように、許容範囲の広い男と巡り会って、やっと恋で自分が変化することを学習してハッピーエンド、みたいなこともアリだと思う。
あれ? そうするとナターシャはジューンを周回遅れみたいにしてなぞっているだけなのに、何故ジューンの幸せな未来というのは想像できないのかな…?
ううーむ、なんかよくわからなくなってきた…
スターの物語として見れば、本当の自分とスター像との乖離に苦しんだ男が最後に愛と安らぎを見つけるのは、自分がスターであることすら知らないような素朴な女、みたいな形が定番な気はします。
だがこの物語は、男をスターにした女が男のスターでない部分をも愛す、という形になっている。
それはあまりに奇跡的で理想的にすぎて、だから一瞬しか成立しえなくて、失われて終わるしかないお話になっている、ということなのかなあ…
なんにせよ、「この作品のヒロインがジューンであること」に関して、少なくとも私は、脚本家の想定以上に過剰に反応してしまっている気が自分でもしているのでした。
オタクって、嫌ね…
フェリシア気取りでつぶやいて、とりあえず書き逃げ。
ドラマシティでは初日と前楽、千秋楽を観劇しました。
ドラマシティでの演出助手は生田大和、青年館公演では小柳奈穂子になったそうです。
そのせいなのか、こちらの感覚の違いなのか…よりメリハリがついた舞台になったと思います。
それと同時に、作品が持っている骨格がよりクリアになって、なんかいろいろと見えてきて考えさせられてしまいました。
ドラマシティ公演を見終えた時点では、そこまでは考えていなかった気がします…もちろん地震のことがあって、あまりものが考えられる状態ではなかったのかもしれないけれど…
舞台って本当に生き物で、深化し進化し変化する。おもしろいものだなあ、としみじみ思います。
第1幕序、クリーヴランド号甲板の場面。
なんといってもすっしぃさんの優しい親父さん然とした船長が素敵ですよね。
その船長さんに、片言英語で果敢に話しかけるルディーの愛らしさ、まっすぐさ、すこやかさ、キラキラ感はたまりません。
アランチャを投げるところで綺麗に暗転するところも大好き。
東京に来てより若いルディーになったな、と思ったのですが、数年たったマキシムでは、ナンバーワンダンサーとして十分スレていました(^^;)。
ビアンカに対してがっつりいくのは、ジゴロとしてのデモンストレーションでもあるとは思うけれど、『ルナロッサ』のシャーハンシャーの名残を見たりして(^^;)。
そうだ、その前にマダムからチップをもらうところなんだけれど、むしろ他の客からはその行為を隠し、観客にはよく見えるよう、体の向きを逆にした方がいいんじゃないのかなあ。
日本にはあまりおひねり文化が根付いていないと思うので、何やってるかよく見えなくてわかんなかった人もいたのではないかと心配です。
ちなみに私が見た回ではマダムのハンドバッグのチェーンが切れたか何かでバッグが床に落ちたことがあり、マダムはしばらく空手で踊っていましたが、いいタイミングで拾い上げて、無事にバッグから出した札をルディーの胸ポケットにねじ込んでいました(^^)。
ビアンカの浮気を疑って乗り込んでくるデ・ソウル。もともと後半のクールさとの対比で、ここは間抜けに見えてもいい、という演出だったと思いますが、よりオーバーアクションになって、観客の笑いを誘うようになっていました。
おたおたあわてて逃げるルディーはすっかり元の少年の顔。
それでも最後には自首するかのように挙手して前に出るのですが、デ・ソウルには気づかれません。
逆にそれまでルディーをかばって隠していたマダムが、テーブルクロスを持ち上げて、テーブルの下に隠れなさいよっ!と必死で身振り手振りする芝居が増えて、クスクス笑いが倍増でした。
ボスより強いビアンカの大活躍(^^)で、ルディーは窮地を逃れ、カリフォルニアに旅立ちます。
エキストラの場面のおかしさは変わらず。
そしてジューンのバンガローでの出会いの場面になります。
ルディーの、わざとの片言英語での嘘のつきっぷりには磨きがかかり、ここでもクスクス笑いが倍増。
「よっ、姉ちゃん!」
の蓮っ葉さもいい感じに倍増したかと(^^)。だからこそより憎めなくて、ジューンでなくても家に上げたくなってしまうというものです。
招き入れられた家の中を興味深げに眺め回すルディー。
座るように言われて、おずおずと椅子に腰掛けるルディー。
怪我の手当てをするのに
「手を出して」
と言われて
「ハイ」
と子供のように手を突き出すルディー。相手を信用しきっている感じ、まったくの純真な子供です。
ジューンが食事の支度をしている間、ジューンのタイプライターをいたずらするのですが、乱打っぷりが日々激しくなって、これまた笑いを誘っていました。千秋楽には、
「勝手に触らないで!」
とぴしゃりと叱られたあと、もう一回だけキーを押すいたずらっ子ぶり。
その後食事にかぶりつくくだりもアドリブタイムで、ほおばりすぎたルディーが返答できないでいると、ジューンが
「よく噛んでよ」
と言ったり、ルディーが
「ちょっと待って」
と水を飲んだり…
でも私はこのくだり、カステラネータという地名が聞き取れなくて(というか聞いたこともない土地だったのでしょうが)、
「え?(何?)」
みたく聞き返すジューンが、ホントの外人さんがよくやるように目を眇めるのがすごく好きでした。またそういう仕草がナチュラルなんだよね。
ルディーがタンゴを踊れると知って、スタジオにカメラテストに来るよう言うジューン。
エキストラではお金を貯めるどころか日々食べるのもままならないくらいだったけれど、カメラテストが上手くいけば道は開けるかもしれない。何もかも上手くいき、母親を呼び寄せることもできるかもしれない。
「本当に? 本当にそうなると思う?」
と聞くルディーの甘えた、でもそれにすがりつきたくて必死な声の可愛らしいこと! ジューンでなくても請け負いたくなるってしまうというものです。
で、
「ありがとうマシスさん!」
なんて天真爛漫に言われて抱き上げられてくるんと回されて頬にチュッ、なんてされた日には、ジューンでなくても恋に落ちようってものですよ!
「ジューンって呼んで!」
なんて言っちゃって、思わず引きとめちゃって、思い出したようにオレンジなんか渡しちゃって、
「ブォナノッテ、ジューン。チャオ!」
なんて手を振られて、思わずこちらもチャオ、なんて返しちゃって…そのときにはもうすっかり恋の中ですよ。
人が恋に落ちるときの突然の幸福感を、とてもよく表しているシーンだと思います。
そのあとの、撮影小道具の拳銃で自殺の真似事をするくだりは、だからちょっと謎なんですけれどね。
だってジューンは弾が出ないことは知っているわけで、それで自殺なんかできないことはわかっているわけですよ。
なのになぜあんな仕草をするのか?
私は、「ちょっとジューンあんた冷静になんなさいよ、結婚に失敗してもう男なんてこりごり、ひとりで生きていくって決めたところじゃなかったの?」なんて感じでちょっと自分を諌めようとしているのかな、とは思いましたが。
でも、止められないのが恋心というものです。そしてさらにジューンは作家でもあったので、筆が乗ってしまうのでした。
タイプライターを軽く叩きながら楽しそうに歌う「ラテンラヴァー」の美しいこと!
ちなみに、序の甲板からこのバンガロー、ナターシャの家やリングなど、すべて少し八百屋の小さな白い床というか台というかに乗った形になっているのですが、場面転換でこの床が引っ込んでいくのが繰り返されて、とても印象的ですよね…上手い。
同様に、電話がまた上手く効果的に繰り返し使われている舞台でもありました。
ジョージの電話芸の鮮やかさは特にすばらしい(^^)。
翌朝、ルディーは特に身綺麗に支度することなど考えもせずそのまんまでやってきて、ジョージに対しても屈託なく握手なんかしちゃって、それでもどうにも胡散臭がられているのはわかるので、さて困ったどうしよう、というところにジューンがやってきます。
思わずあげる
「ジューン!」
という声の情けないこと可愛いこと! 絶品!!
ジョージの「ジューン」とハモるから、でもあるのですが、ここでも思わず笑いが起こります。
奇跡の鏡で(アリサちゃんの歌がいいんだまた!)「ルドルフ・ヴァレンチノ」に変身したルディーは『黙示録の四騎士』のセットに入り、華麗なタンゴで役をさらう…ということになっていますが、踊っているのは桜子ちゃんではという無粋なつっこみ早めておこう(^^;)。
ただ、踊り始める前にルディーがガウチョの鞭をヒュン!と鳴らすのがカッコいいよね(^^)。
映画は大ヒット、ルディーは一躍アイドルスターに。
ヴァレンチノヘアにしたジョージのアドリブタイム、千秋楽は「俺もタンゴ習おっかなー!」でした(^^)。
ところで、続くくだりでジョージがやっかみ半分とはいえルディーのことを「あのイタリアの女ったらし」とかいう根拠はなんなんですかねえ。
ルディーに一番近いところにいる彼らからしたら、ルディーがそんな器用でチャラいプレイボーイとかでは全然ないことはわかりきっているんじゃないのかな? それくらいステレオタイプなイタリア男像ってものが根強くあるってことなんでしょうねえ。
「ルドルフ・ヴァレンチノ」の生みの親といったところね、と言うジューンに対し、ジョージは
「へー、お母さんだったの?」
と冷やかします。これが後々引っ張るモチーフのひとつとなるわけですね。
当のルディーはあいかわらずで、せっかくの黒燕尾を着ても自信なさげに猫背のまま。まさしくママが見守っていてくれないと何もできないお子ちゃまです。
ジューンとジョージに付き添われて、ルディーは『椿姫』のセットへ。そして、ナターシャと出会うのでした。
ところでナジモヴァはナターシャべったりで絶対デキてるだろって感じなんですがそこはスルーですかそうですか。
あと、ナターシャでないときちんと着付けられないドレスですが、ナターシャが手を貸す前もどこがおかしいのかよくわかりませんでしたが…もうちょっと差がはっきり出てもよかったんじゃないのかな?
ルディーはナジモヴァに気に入られ、テストは好評。そこへ電報が届きます。
「ロドルフォ・グリエルミさんは」
と言われて
「ハイ、ボクです」
ってゼヒこの表記で書きたいこれまた屈託ないルディーの台詞と仕草がたまらなく愛らしい。
しかしそれは母親の訃報だったのでした。
ジューンとジョージはテストを中止させ、ルディーをひとりにしてくれます、しかしナターシャはつけつけと彼を自宅に誘うのでした。
メロソープ役のスーパーあもたまタイムは例によってすばらしい。でも前公演の部分休演が尾を引いて、フィナーレのダンスには出ていませんでした。早く全快してね。
そして船長役とはうって変わったラスキー役のすっしぃさんの一癖ありげな業界人っぷりがまたたまりません。でも、この人もドサ周りのバンドマンだったころはまっすくで夢にあふれていた青年だったろうに…とも思わせる。すごい。
ルディーは今の仕事に特に不満を持っていません。ラスキーにギャラアップをチラつかされてもピンと来ていないし、ナターシャに前世がどうとか言われても信じられないでいる。
でも、ナターシャが名前を変えていた、という事実は響いたのです。長くて笑われようが、本人にとって自分の名前は神聖で絶対なものです。なのに、芸名の「ルドルフ・ヴァレンチノ」がひとり歩きし始めている。そのとまどいは感じ始めている。
一方で、新たな人生を切り開くために、自分で名前を変えたという美女が目の前にいる。チャンスをつかんで、それを逃さないように必死で努めている、自分と似た境遇の女性。
「朝焼けの海を一緒に見たいの」
なんてベタな口説き文句ですが、まあひっかかっちゃうのが男だよね。
それでもルディーは自分からキスしかけたのを止めて一度は身を離すんだけれど、ナターシャに腕をつかまれて引き戻され、今度はキスしてしまうわけです…
ちなみにここのナターシャのキスが今イチ不器用なんですよね。
それは演じるカイちゃんの技術の足りなさなのかもしれないけれど、この場合はよかった気がします。
いったいに、ドラマシティでのナターシャはスカしていたというか、とにかくクールで美しいファムファタールでなければ、という形にハマろうと必死だっただけのように見えて、そしてビジュアルだけだともちろん美しいんだけれどもっと美人は世の中に他にもいるよたとえばユキちゃんのナターシャとかね、とか言えてしまうわけで、ナターシャの魅力がよくわからず、ルディーが何故身そんな彼女に惹かれるのかもよくわからなかったんですよね。男って結局、神秘的な美女に弱いってこと? 何ソレ、けっ、みたいな。
でも、青年館のナターシャには血が通いました。生身の人間になりました。美しいしつっぱらかっているけどやっぱり中は普通の女の子、という感じになりました。これがよかった。
おそらくジューンの方がナターシャより年上だし、学生時代の恋と早い結婚に破れているとはいえ、なんというか全体的にジョーンの方がナターシャよりも世慣れた人間なのではないかなあ。家族や社会に恵まれた感じがするというか。
でもナターシャは多分、美貌と才能を持っていながら田舎に生まれてしまって、あまり周りの評価を得られず、周りから浮いて生きてきたのではないかと思うのですよね。名前を変えてハリウッドに出てきて一躍ときめいたけれど、意外にやることをやっていないのかもしれないわけですよ(^^;)。
ナターシャは愛と評価に飢えた少女、子供なんですね。
ナターシャにとって、このたどたどしいベタな口説きは、一世一代のものだったかもしれないわけです。自分に初めてインスピレーションを感じさせてくれた男性を、絶対に手放したくなかったのです。だから体当たりで落としたのです。
一方ジューンは、ルディーより年上だし自分はバツイチだしそもそも仕事上のつきあいであって…とかなんとかいって手を束ねていたんでしょうねきっと。そして確かドラマシティ初日感想に書いたかもしれませんが、史実は知りませんがおそらくジューンはナターシャほどは美人ではなかったのだと思う。十人並みというか、綺麗というより可愛い、親しみやすいと言われてしまうタイプ、とかさ。もっと言えば不美人というかさ。そういうコンプレックスがあって、とてもそんな体当たりでいけないでいる間に、さらわれてしまったのではないかしらん…
この前の場面までクスクス笑いがあふれていただけに、このスピリチュアルの妖しさと人間関係がもつれていく深刻さが浮かび上がって、観客はぐっと物語りに入り込むことになるのだと思います。
ともあれヴァレンチノ人気はうなぎ登りでファンはエスカレート、警備の警官たちをもなぎ倒すイキオイです(^^;)。
クールでスターなんか興味ないよって感じのりくくん、スターが現れるとファンと一緒になって寄ってっちゃって匂いとかかいじゃうカケルの警官が楽しかったです(^^)。
こーまいの「ルディー!」もね。怒号のときもあれば裏声のときもありました(^^)。
ナターシャが思わせぶりな婚約宣言なんかしちゃって、ルディーはジューンの顔色うかがっておたおたしちゃって。
ナジモヴァが怒髪天ついてたのはナターシャを取られちゃうからですよね?(^^;)
ルディーはパラマウントに移籍して、ジョージはその責めを負ってメトロをクビに。ジューンはルディーの映画の脚本を書き続け(ラスキーのアタマにアクセントを置いた「キャラクター」という言い方がたまらん)、ファンはますます狂信的になっていきます。
この、ファンが持つルディーのプロマイドというかポスターが、暗闇の中でライトが点くとポスターが透けてファンの顔が亡霊のように浮かび上がって見える…というのは再演までにはなかった演出だそうな。
とてもいいです、怖いです。さっきまで警官だったヒトたちがファンに混じってて怖いとかそういうこととはまた別に(^^;)。
「ルディー、ルディー、独り占めしたい。憎いほど好きよ」
と歌うファンの心情は、そのままルディーを巡って立つジューンとナターシャの心情でもあります。これまたとてもよくできている。
ジューンの描くキャラクターとロマンスは、ベタだの陳腐だのと言われようと全世界の女性のある種の夢、望みなのですが、ナターシャがルディーに見ようとしているものとは違う。ルディーとナターシャは結婚し、ジューンは身を隠します。
闘牛シーンの練習のために、カポーテと格闘するルディー。中の人のアレがたどたどしいせいもありますが(^^;)、ここでルディーにまとわりついたり、なかなか意のままにならなかったり、でもそれを持つ人を大きくも美しくも見せるカポーテは、ルディーにとってはまさに「ルドルフ・ヴァレンチノ」という名前そのもの。
アランチャを踊るルディーに、ラテンラヴァーのアレンジメロディとともにジューンが絡み、インスピレーションのメロディとともにナターシャが絡む、その美しく残酷な構図。
そしてひとりになったルディーは、カポーテを床に叩きつけ、天を仰ぐ。
そこで第一幕の幕が下りる。美しい…
第二幕はナジモヴァのパスタアドリブから始まります(^^)。
千秋楽は
「忘れられない味になりそうだわ」
なんて言って、上手いこと言うなと思っていたらパスタがうまくフォークに絡まず、一口食べて退場するまでけっこう時間がかかりましたが、シリアスに耐えたルディーはカッコいいなあ。てかここのスモーキング・ジャケット姿好きだなあ。
新婚旅行を終えて共に暮らし始めたとはいえ、ルディーとナターシャの生活スタイルは何もかも違うし、結婚生活に対するビジョンも違う。そしてふたりとも相手の変化と理解を求めてしまう。
ルディーが部屋を出て行ってしまい、ひとり残されたナターシャが歌う「夢の行方」がまた上手くないのがいいのです(カイちゃんごめん)。ナターシャの必死さがよくわかるし、ナターシャが普通の女の子だってことがよくわかる。ちょっと美人で才能があって、でもそんなこととは別にメンタリティとしてごくごく普通の少女なんですよ彼女は。大人になるとか母親になるとか、そういうめんどくさいことはイヤなの。好きなようにしていたいの。義務を負わせられたくないの。わかってほしいの、そのままでいいよって言われたいの。
彼女はまだまだ少女なのです。美貌と才気を別にしたら、おそらくはごくごく平凡な…
それは、ルディーが美貌やダンスを別にしたらただの普通の男だったのと同じなのです。彼は母と妻と子供たちとの家庭を望むだけの、ごくごく平凡な男性だったのです。
そりゃ、平行線をたどるに決まっています。
ナターシャには少女らしい野心があって、ルディーをシェイクスピア劇に挑戦させます。そして失敗に終わる。結婚生活もまた…
ルディーはまたも移籍して、しかしジョージと再会して、監督に転進する夢を語ります。
一方世間ではヴァレンチノ人気はやや翳りを見せ始めていて、冷やかしや中傷記事が新聞なんかを賑わすようになっている。いつだって真剣なルディーは受け流すことができなくて、ますます騒ぎの元になったりしてしまいます。
リング記者会見のあとの、女性記者とのくだりがせつないんですよね…
キャラクター名でサインをせがむ彼女たちは結局ルディー自身のことなんか見ていないし、「今度、ボクシング映画撮ってくださいね」なんて言う彼女たちはルディーの会見の真意がわかっていない。ベスト姿も麗しいルディーがグローブを投げつけて佇む背中の悲しさに泣けます。
そのキャラクターたちを生み出したのはジューンでした。ルディーに頼まれてジューンを探し当てたジョージは、ジューンを訪ねてルディーと会うよう頼みます。
ジューンが電話番号をメモする間のジョージのたたずまいがいいんだよねー。ジューンの手元を眺めて書きあがるのをただ待っているようでもあり、ジューンの横顔を見つめて何かを確かめているような慈しんでいるような、でもある。
温かい人柄が随所に現れる好演技でした。
さて、ジョージからの吉報を飲んで待っていたルディーはデ・ソウルとの思わぬ再会を果たします。
ゲストルームに呼ばれての…まあなんというか、簡単に言うとリンチってことですよね。
要するにルディーの物語はスターの光と影、栄光と転落みたいな、典型的な話なワケですよ。
本人自身は意外に平凡で、周りが作り上げたスター像との乖離に悩み、平穏な家庭生活は得られず、スピリチュアルなものに流されかけ、暗黒街と絡みができちゃって酒と女と薬にダメにされる…って、ベタすぎるでしょ。俳優から監督に転進したがるとかもね。だってルディーが作ろうとしている映画、絶対当たりそうにないもんね、もうお定まりだよね。
それはともかく、『カサブランカ』で戦場の記憶に苛まれるリックといい、『美しき生涯』でカルマダンサーに絡まれる三成といい、とにかく翻弄されてなんぼみたいな中のヒトですが、そこにさらに相手がムダに色気のあるもっさんが相手ですから(ムダ言うな)、集団私刑というかむしろ性的暴行の香りが漂ってしまっているのは再演まではなかったってホントですかそうなんですか?
でも今回は明らかにそういう演出意図、振り付けがありますよね? それは現代の何かにおもねったものなのかなあ…でも初演時だってすでに『トーマの心臓』も『風と木の詩』も発表はされていたけどね。イヤだから何と言われるとアレなんですが。
でもぶっちゃけ個人的には純粋な暴力よりレイプの方が理解しやすいし耐えられる気がするんだよね…女性が体格とか体力とかで男性にかなわないのは絶対なワケで、だから暴力って本当に怖いわけですよ。絶対に勝てないから。でもセックスは対等とは言わないんだけどイロイロあるわけだし、広い意味では望まないセックスを経験したことない女なんかいないんじゃないのかなとかみんなそのやり過ごし方を知っているよねとか思うと、ルディーに対してもだから大丈夫だよと思える気がするの。まだ望みや救いがある気がするの。単純な暴力の方が、逃げ場がなくて、不快に感じると思うのです。
だからこれはBL人気を当て込んで安易に変更されたものではなく、より女性観客にわかりやすく受け入れられやすくするための改変だったのだと思いたいです。
ボロボロになったルディーは、浮浪者からオレンジを譲ってもらい、遠い日の夢を思い出します。
おりしもニューヨーク港、イタリアから海を渡ってきたあの日と同じように、自由の女神が朝焼けの空に輝いている。
もう一度、今度こそ。
ここ、贅沢ですが生オケだったらなあ、と思ってしまいました。感情が乗りすぎて早く歌いすぎていて、音楽と合っていないように聞こえる回もあったから。
それをなんとかコントロールするのがプロなんだ、ってのもあるでしょうが。
パーティー会場でのルディーのスピーチはとても明快です。
促すジョージはどこまでも優しい。でもジューンは逃げ出そうとします。それはなんかほとんど本能的なものですよね。
でもルディーの
「ジューン、行かないで!」
という悲痛な声が足を止めさせる。出会ったころのまんま、変わらずまっすぐに自分の助けと支えを必要としている、嘘のない声。
こんな人前で、こんな席で。断りようがない状況に追い込むなんてルール違反。
でもこれしかなかった。こうなる運命だったのだ。
「ルディー…あなた自身が、どの役よりもずっと好きよ」
初日に見たときもハッとさせられた台詞でしたが、千秋楽のこのあとの間は本当にすばらしかった!
ルディーが思ってもいなかった、でも実は一番言われたかった言葉を、目の前の愛する人が言ってくれた驚きと喜び。
そのキャラクターたちを書いたのも彼女なのに、そのすばらしさも一番知っているのに、それを演じているだけであとはダメダメな自分のことも全部知っているのに、好きだといってくれた。愛していると言ってくれた。
万感の「ジューン!」と、抱擁と。パーティー客と一緒に拍手したいくらいだったなあ。
そのあとのパパラッチ(とはこの時代はまだ言わないのかな?)とのやりとり惚気の微笑ましさは、でも、筋書きを知っていると「終わりの始まり」であることもわかっているわけで、こそばゆそうにうれしそうなジューンやウキウキルンルンで茶目っ気たっぷりになっているルディーを見るだに胸が締め付けられます。
そして「チャオ!」と手を上げて、笑顔で去っていくルディー…
ええ、ええ、死亡フラグですよ。でもこのときのジューンにはそんなことは当然わからないのです。わかっている観客は、ただただ泣くしかない。
ルディーからの連絡を待ちながら、いつものようにラジオを供に仕事をするジューン。そこにニュースと、電話。
電話の声に固まるジューンの背中の、なんと雄弁なことか。どうして幸せというものは、手に入れたと思えた瞬間にすり抜けていくものなのか。
ジュリオの、アルマンの、ムハメッドの、ガラルドの幻がジューンの周りに現れます。でもそれは幻でしかない。ジューンが本当に欲しかったもの、得られるはずだったものとは違うのです。
オレンジの木の向こうに消えていくジューンの姿に、毎回涙が止まりませんでした。
ジョージによって語られる、ルディーの葬儀の様子と、その一年後のジューンの急死。
それは事故のようなものだったのだけれど、でもジューンとしてはやはり生きてはいけなかったのでしょう。最初の恋に破れ、慎重になっていたのにまた恋に落ち、失いかけ、やっと手に入れて、手に入れたと思ったらすり抜けていって…もう、耐えられない。もうこの先なんて、ない。
最後のくだりは、なんなのでしょうね。
ジューンの夢? ジョージの夢? 天国でのふたり? こうなることもありえたというもうひとつの現実? 来世?
アランチャってなんなのか。人と人が出会うとはどういうことなのか。誰かが誰かに何かを渡すとはどういうことなのか…
言葉にしきれない、思いがまとめられないうちに幕は下ります。早すぎるのではとヒヤヒヤすることもあった幕の下り方も、むしろあれが正しい狙いなのかもしれません。
…長いおさらいでしたが、本題は実はここからなのです(^^;)。
途中書きましたが、要するにルディーの物語としてはほとんどベタで平凡と言っていいくらいにステレオタイプな展開なわけですよ、この作品は。
しかし、まあ史実だからというのもあるのでしょうが、というかナターシャとの結婚と離婚は史実だけれどジューンとの関係はどのあたりまでどうだったのかというのがあるわけですが、要するに私は、この作品のヒロインがジューンであることがこの作品において何より重要だと思うのですね。
小池先生自身はプログラムに
「今の私がこの題材を書いたなら、矢張りルディーとナターシャの愛のもつれを主軸にした物語になって行くだろう」
と書いているのですが、私は当初からこれに異論がありました。それは多分おもしろい話にならないと思うのです。男と少女は平行線のままだと思うから。
少女のために男が変わる話をおそらく男の作家は書けないし、よっぽど上手く書かなければ観る女にもただの夢物語にしか見えなくてつまらないだろうし、男も少女も変わらなければ関係は結ばれずふたりは別れていくしかなく、それは悲しい話にしかならないしそんなの当たり前すぎてお話にもならないかもしれないからです。
でも、ルディーとジューンは結ばれえたわけですよ。
ジューンとナターシャ、ふたりの共通点と差異はなんなのか。
ジューンもナターシャもクリエイターです。そもそもこの設定が特殊です。しつこいですがたまたま史実だったからかもしれませんが、こういうキャラクターを取り上げた着眼点がすごいと思う。
つまり普通のよくある物語というかロマンスでは、ヒロインは王女様であることが一般的だと思うのですよ。実際の身分とか肩書きのことではないですよ、人間としてのタイプが、ということです。世の中をどう捉えているタイプの人間かということです。
王女様タイプとは、世の中のことも自分自身のことも信じきっていてなんの疑いもいだいていなくて、今日よりもっといい明日が必ずやって来ることも疑いなく信じていて、幸福を信じ悪の存在を下手したら知らない、みたいな人間のことです。
蝶よ花よと愛され美しく育つとそうなります。そして賢すぎなければ。綺麗なおばかさんで周りに恵まれれば。
でもジューンもナターシャも、
「王女様になれぬなら、おとぎ話を作るのよ」
というタイプの人間だったのです。これはナターシャが歌う歌詞ですが、ジューンも同じです。
王女様になれない、そしてけれどおとぎ話は作れる人間。なんらかのコンプレックスがあって、愛されて幸せ、なんて夢が単純には見られない女。けれどそういう夢の物語をオリジナルで作り出せる才能と賢さに恵まれた女。
要するに、現代のいわゆるオタク女子がものすごく自分を投影しやすいキャラクターなんですね、このふたりは。
いや、今も昔も物語りする女子というものはいたわけですが。職業として自立するには時代の問題もあるけれど、たとえば本邦では遡れば紫式部とか清少納言とかね。
もちろんもっと遡れるでしょう。それこそ原始の時代まで。そしてもちろん物語りするのに男女は問わない。
けれど昔から、やはり男性は戦記とかの叙事詩を語ることが多く、女性は叙情を、ことに愛を書いたのではなかろうか? もちろん西洋の中世の吟遊詩人なんかは男性で愛を語るものですが、おそらく男性が語る愛の物語と女性が語る愛の物語とはどこかが違うし、どちらが女性好みかと言われればそれは同性が語るものなのではなかろうか?
そして宝塚歌劇は、座付きの脚本家はまだまだ男性が多いとはいえ、実際の性別はともかく、女性思考で女性志向(^^;)、つまり女性向けに作られている愛の世界ですよね。
そこに、ドリームヒロインとしての王女様ではなく、オタクでリアルな精神性を持った女性キャラクターがヒロインとして置かれていることがすごい思うのですよ。しかもふたりも。25年も前に! 作者がどれだけ自覚的だったかは別にして、こんな作品、類を見ないのでは?
ジューンとナターシャとの差異は、個人的には恋愛経験の差だと思っています。異論もあるでしょうが。
ジューンは別れた夫とそれなりに真剣に恋愛したのだと思うのです。結婚生活は敗れたとはいえ、恋愛でお互い変わったりもしたのだろうし、「男とはこういうもの」というだいたいのところがわかった状態でルディーと出会っていて、だから許容範囲が広いんだと思う。愛があれば母親代わりがやれちゃう程度には。
ナターシャにはそういう経験がないから、狭量なわけ。まず自分の夢、ドリームを相手に押し付けてしまう。頑なで潔癖な少女なわけですよ。
それは実際に処女かどうかということとはあまり関係がない。あくまで恋愛の経験だと思います。
恋愛で自分が変化する、ということを知っているかどうかが大きいのだと思うのです。恋愛で変わらない人間なんていないのだけれど、それがわからない人は経験してみないとそれこそ本当にわからないのです。
そしてナターシャは上手く変われなかったわけですね。パスタも好きになれないし、子供も欲しいと思うようになれなかった。
ジューンの方が母性的な女性だった、ということではないと思うのです。実際にはジューンだって子供なんか欲しがらなかったかもしれない。
だた、愛を知っていると、いろんな愛し方で相手を包めるようになるものじゃないですか。それこそときには母のように。
私は個人的には子供が嫌いだし出産は痛そうで怖いし、もういい歳だしおそらく子供を持たないままで終わりそうですが、それでも好きな相手がいたときには、この人との間になら子供を持ってもいいなと思ったことくらいありました。それは母性愛とかいうよりもやっぱり恋愛主軸のものなのだけれど、好きな男の子供の母親になりたい、というのは恋愛感情と地続きの発想だと思うし、男に母親扱いされて甘えられるのが苦痛という一方でそれくらいまで相手を丸ごと愛して面倒見てあげたくなっちゃうくらい好き、という恋愛感情ってあるものだと思うんですよね。
だからジューンは
「お母さん代わりはもうこりごり」
と言いながらも、やっぱりルディーを愛していた、愛せたわけです。
けれどナターシャは、愛されることに飢えていて、相手から丸ごと愛してもらうことを望んでしまった。愛し愛されることをまだ知らない子供だったから。愛で自分が変わることを知らない子供だったから。
そして男は、子供だろうが大人だろうが、女以上に自分が変わることに無自覚な生き物です。
ナターシャが子供でも、相手が変わってくれたらナターシャもまた変わることを学習できたかもしれないのだけれど、そんな男はなかなかいないってことなワケですよ。相手の気持ちを忖度せず子供と家庭を望んだルディーもまた、しかり。
だから上手くいかなかったのです。それは必然なのです。
で、我々現代オタク女子は(とひとまとめにしてしまいますが)、なかなか現実の恋愛には満たされず、物語の中のキャラクターに恋をし理想を求めてしまい、それは広い意味で宝塚歌劇の男役もそうなのかもしれませんがそれはさておき、なエアラブライフを送っているわけですが、そんな我々にとってナターシャの在り方はリアルすぎ、そしてジューンの在り方こそが理想なワケですよ。
好みのキャラクターを体現してくれる生身の相手とリアルな恋愛をする、なんて!
ううううらやましすぎる!!
けれど全体の物語としては、結ばれてハッピーエンド、ではなく、失われて終わるわけですね。
それは必然の流れのようにも見えるわけですけれど、問題は、では我々の幸せはどこにあるのか、ということですよ。
そして私は個人的には、それが簡単に、というか普通に手に入るような幸せな時代とか世の中になったときには、少女漫画とか宝塚歌劇とかもっと広く言えば物語はその役目を終えるのかなとか考えているのですが、残念ながらきっとそんな世は来ないだろうなとも思っていたりするのでした。
ナターシャの幸せ、あるいは行く末は逆に想像がつくんだよなあ。
ルディーと別れてヨーロッパの男爵へ、そこでも上手くいかなくて流れ流れて何度も男を変えてそれでも上手くいかなくて、そういう意味では愛は得られず幸福ではないのかもしれないけれど、自分を貫き続けられたのでこれはこれでいいか…という生き方も、アリだと思うのです。
あるいはどこかで、もしかしたら最後の最後に、ほとんどただのラッキーのように、許容範囲の広い男と巡り会って、やっと恋で自分が変化することを学習してハッピーエンド、みたいなこともアリだと思う。
あれ? そうするとナターシャはジューンを周回遅れみたいにしてなぞっているだけなのに、何故ジューンの幸せな未来というのは想像できないのかな…?
ううーむ、なんかよくわからなくなってきた…
スターの物語として見れば、本当の自分とスター像との乖離に苦しんだ男が最後に愛と安らぎを見つけるのは、自分がスターであることすら知らないような素朴な女、みたいな形が定番な気はします。
だがこの物語は、男をスターにした女が男のスターでない部分をも愛す、という形になっている。
それはあまりに奇跡的で理想的にすぎて、だから一瞬しか成立しえなくて、失われて終わるしかないお話になっている、ということなのかなあ…
なんにせよ、「この作品のヒロインがジューンであること」に関して、少なくとも私は、脚本家の想定以上に過剰に反応してしまっている気が自分でもしているのでした。
オタクって、嫌ね…
フェリシア気取りでつぶやいて、とりあえず書き逃げ。