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「古文書に親しむ(経験者)」講座、第三回課題 その3

(庭のムラサキクンシラン)

昨日の続き、「下田原村清水御用留扣帳」。

一 昼夜とも故なく他出、相成り難く、もし、よんどころなき用向きこれ有り、他出
の節は、詰め合い一同へ相頼み、右の段御届け申上げ、御聞き済ましの上、
相越すべし。もっとも他所へ止宿など相成り難く、日帰り積り相心得べき事。

一 雨天休日たりとも、都て酒宴、遊興がましき儀は、もちろん堅く
相慎み、もっとも禁酒たるべき事。

右の趣、堅く相心得、御用中諸事正路に相守り、
麁略これなき様、一同申合わせ、すべて一己の存じ寄り申立てず、
御用向き大切に相勤め、万一等閑の始末、御見聞
これ有るにおいては、急度御糺しの上、銘々支配御役所へ
御掛合の上、早速御引替え仰せ付けらるべき段、仰せ渡され、一同承知
畏まり奉り候。よって御請け印形、差上げ申す処、件の如し。
※ 正路(しょうろ)正直なこと。
※ 麁略(そりゃく)粗略。物事の扱い方などが丁寧でないこと。ぞんざい。
※ 一己(いっこ)自分一人。自分だけ。
※ 等閑(なおざり)物事を軽くみて、いいかげんに扱うこと。


            駿州清水湊出役名主
            増田安兵衛支配所
 元治二丑正月     甲州巨摩郡大津村
                 長百姓 四郎兵衛 印
            右同断
            安藤傳蔵支配所
            甲州八代郡下曽(根)
                 長百姓 三左衛門 印
            右同断河内領
                下田原村
                 名主  市兵衛 印
            右同断
            福田下総守支配所
            甲州巨摩郡谷戸村
                 長百姓 次右衛門 印
            右同断
            同州牛句村
                  〃  喜十郎 印
   駿州清水湊御出役
   増田安兵衛様御手付
    佐藤潤三郎様

※ 長百姓(おさびゃくしょう)- 年寄りともいう。裕福な農民で村では上位の有力農民。百姓代を指す所もある。
※ 幕府領 市川代官所管轄
       大津村、牛句村(いずれも中巨摩郡)
       下曽根村(東八代郡)
       下田原村(西八代郡)
       谷戸村(北巨摩郡)
※ 手付と手代(てつきとてだい)- 共に代官の配下。両者とも職掌上の差はなく、手付は幕臣、手代は地方の事務老練者を代官が採用した。
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「古文書に親しむ(経験者)」講座、第三回課題 その2

(土手に咲いた花、名前が分らない)

昨日の続き、「下田原村清水御用留扣帳」で、出役名主の役割を示した文書である。

    差上げ申す御請け書の事
一 清水湊御米着の節は、私ども一同罷り出で、水揚げ改めの上、問屋
一同御届け申上げ、俵数御改め、なおまた一同罷り出で、拼立て当り鬮の分、
貫目懸け訳け、俵数の内、桝廻し、万一減石これ有り候わば、
蒲原浜、上乗出役の者へ、早速申し逢うべき事。
※ 拼立て(はえたて)- 米俵などを山に積み上げること。
※ 当り鬮(あたりくじ)- 米俵の全点チェックをしない分、検査する俵を、くじで無作為に選んだものであろう。
※ 貫目(かんめ)- 物の重さ。目方。
※ 桝廻し(ますまわし)- 桝を使って量(体積)を計ること。
※ 上乗出役(うわのりしゅつえき)- 水上輸送に関する監督、処分の一切を統轄する役人。



(清水湊地図/清水市史より)

一 向嶋御米置き場、木戸門閉とも、私どもの内、申し合わせ罷り越し、立会い
申すべく、かつ矢来内外、昼夜時々見廻り、もし怪しき体のもの
見請け候わば、捕え置き、御届けの上、差図次第仕るべき事。
  但し、御米積み請け、風順これなく、湊滞船これ有らば、かつまた時々
   見廻り、心附け申すべき事。
※ 向嶋(むこうじま)- 清水湊で巴川河口の向岸(東側)。甲州廻米置場があった。
※ 風順(ふうじゅん)- 風向き。


一 御米内拵えの儀は、一同罷り出で、米、劣、口々仕訳け、洩さぬ様
入念に、村石俵数取調べ、御分限り、銘々俵石帳面仕立て、
早速申上ぐべき事。
※ 怔(せい)- おそれる。外からの刺激を受けてゆるんだ心が正しく引き締まること。ここでは、「正しくする」位の意味であろう。

一 御米船積み、船頭へ御渡しの節、口々拼立て俵数、当拼の
貫目、桝廻しとも、御分限り、帳面に記し、万一減石などこれ有らば、
入念に帳面に留め置き、取調べ申すべき事。

一 艀下積切りの上、上乗りの者、もし遅参の節、私どもの内、
その御の者、相心得、乗組み居り、弥(いよいよ)不参に於いては上乗り
出帆仕り、江戸御蔵納めの積り、相心得申すべき事。
※ 艀下(はしけした)- 艀下船。浅瀬の区間で、艀下船と呼ばれる小型船に積荷の一部を分載して、自船の喫水を小さくすることで、浅瀬への乗り上げを避けた。
※ 上乗り(うわのり)- 近世、貨物輸送船に乗り込み、荷主に代わって積み荷の管理・監督をつかさどった役。
※ 分(ぶん)- 人が置かれた立場や身分。

(この文書の後半は明日へつづく)
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「古文書に親しむ(経験者)」講座、第三回課題 その1

(庭の定位置に忘れずに咲く、サフランモドキ)

午後、第三回「古文書に親しむ(経験者)」講座があった。今日は副読本の積りで、「錦嚢智術全書」をコピーして受講者に配った。江戸時代の家庭百科のような本である。漢字にはふりがなが振られて、色々な変体仮名が多用されているので、自習として読んでもらうと、かなが自在に読めるようになり、解読の力が格段に付く。時間が余ったら、皆んなで読んでみようかと思う。

午後1時には全員が揃ったので開始し、P9~P13まで進んだ。受講者のために、読み下しを以下へ示す。今日は「下田原村清水御用留扣帳」の続きで、今回予定した分を終えた。

最初は文書の控えではなく、行動記録のメモである。

一 当丑正月十五日、清水湊へ出立仕り、二月十九日帰村。
同月廿一日、右の段御届け申し上げ奉り候。三月四日、佐藤様御帰り
切石村御渡り、それより市川まで御見送り仕り候。日数二日。

※ 切石村 -(南巨摩郡)現、身延町。


これより文書の写しが2通続く。

    恐れながら書付をもって、御届け申し上げ奉り候
八代郡下田原村、名主市兵衛申し上げ奉り候。私儀、去る子
物成、江戸御廻米御用に付、駿州清水湊
出役名主仰せ付けられ候に付、来る十五日、同所へ
出立仕りたく存じ奉り候間、この段、恐れながら書付をもって御届け
申し上げ奉り候、以上。     下田原村    
  丑正月十三日           名主 市兵衛

※ 物成(ものなり)- 江戸時代の田畑の年貢。⇔ 「小物成」は雑税。


          甲州八代郡村々
          御廻米出役名主
               下田原村 市兵衛
右のもの儀、去る子、御廻米御用に付、駿州
清水港まで差遣し候条、途中に於いて人足相雇い
候わば、相当の賃銭、これを受取り、(人足を)差し出し、遅滞なく
継立止宿など、差支えこれ無き様、取計らうべく候。この添え書
披見の上、このものへ相返さるべく候、以上。
          安藤伝蔵手代
 丑            牧野正作
  正月十三日     森谷常三郎
              増田繁七郎
              服部権六
     甲州市川大門村より
     駿州清水湊まで

※ 継立(つぎたて)- 江戸時代、宿ごとに人馬を替えて送ること。継ぎ送り。
※ 止宿(ししゅく)- 宿屋などに泊まること。
※ 披見(ひけん)- 手紙や文書などを開いて見ること。
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「家忠日記 五」を読む 24

(裏の畑のガクアジサイ)

午後、駿河古文書会で静岡へ行く。会員のOさんより、古文書を写した白黒のネガが1000枚ほどあるが、その古文書は今も存在しているのかどうか。あっても今では個人情報で、見せては貰えないだろう。そのままではいずれ消えてしまうから、是非画像をデジタルデータにして、パソコンに取り込みたいのだが、専門業者に頼むと10万単位で費用が掛かる。何か方法はないだろうかと相談された。

昔、会社にそんな装置があったと思うが、今、個人的にやるにはどんな方法があるか。こんな話に得意なのは、名古屋のかなくんパパだから、早速夜、電話で聞いてみた。5年ほど前に購入を検討して、画質が落ちるので取りやめたことがあるので、現在はどんな様子か、調査してくれるという。

「家忠日記 五」の解読を続ける。

 天正十六年(1588)亥九月
十一日辛酉 祈祷候。岡崎安方形部右衛門、信光坊越らる。
十二日壬戌 形部右、信光坊帰られ候。形部右へ馬鎧遣し候。
※ 馬鎧(うまよろい)- 馬に着せる鎧。多く鉄鎖で作り、金属または革の板を縫いつけた。
十三日癸亥 
十四日甲子 夜、雨降る。東堂大洞より越され候て、
      会下へ参り候。高野聖越され候。
十五日乙丑 隠入院へ連歌にて越し候。

十六日丙寅 会下へふる舞いにて越し。
十七日丁卯 岡崎ぬつし藤国越され候。土産に食籠の小さき。
十八日戊辰 
十九日己巳 
廿日 庚午 

廿一日辛未 吉田へ用事にて、人を遣し候。
      西深溝新二郎、とやにてハイタカ留り候。
      小久舞々越し舞う。大織冠、勧進帳、四国落ち、以上三番。
※ とや(鳥屋)- 鳥屋入りのこと。夏の末ごろ、タカが羽の抜け替わる間、鳥屋にとじこもっていること。
廿二日壬申 舞々帰り候。また西深溝とやにてハイタカ留り候。
      緒川より上洛の儀、奏者方より殿様御嫌いにて候間、
      無用の由、申し来り候。
廿三日癸酉 夜、雨降る。東堂様ふる舞い候。
廿四日甲戌 朝まで雨降り。
廿五日乙亥 

廿六日丙子 ‥‥なり。さらしにて、はわたい綿帽子
      取り候、盗人狩り出し候。(二行、意味不明)
      当社法楽の連歌、明日廿七日に候衆、来り申し候。
      竹谷衆越され候。
廿七日丁丑 連歌候。
      発句      勘左康定
      玉垣と いうばかりにや 菊の露
廿八日戊寅 
廿九日己卯 大津妹越し候。舟にて。
晦日 庚辰 雨降り。
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「家忠日記 五」を読む 23

(散歩道のアジサイ)

午後、掛川文学鑑賞講座へ出席する。今日は一般に公開で、たくさんの参加者があった。テーマは次郎法師直虎。今や遠州は次郎法師直虎一色である。色々な人が様々に工夫して便乗を企てゝいるようだ。

東京都知事辞職のニュースに、またかと思う。「晩節を汚す」男がまた出てしまった。それまでの人生でどれだけの功績があった人でも、一時の心の緩みですべてをパーにしてしまう。人間誰しも、歳を取るにつれて、正しい判断が出来なくなっていくから、身を引く判断が出来る中に、引退すべきである。もっとも、辞職した都知事は自分より2つも年下だった。

「家忠日記 五」の解読を続ける。

 天正十六年(1588)子八月
十六日丁酉 雨降り。善六上(方)へ立ち候。
      駿河へ、坂崎長嶺の田地、天野伝右衛門と公事にて、
      吉田与五右衛門参り候。桑名へ馬売り遣し候。
十七日戊戌 
十八日己亥 
十九日庚子 雨降り。殿様御右筆、はたべ越し候。
廿日 辛丑 雨降り。吉田本田十助越され候。

廿一日壬寅 ‥‥十助帰られ候。会下へ参り候。
      ‥‥へは、二百疋出し候。
廿二日癸卯 同喜平所にふる舞い候。
廿三日甲辰 
廿四日乙巳 与五左衛門、一日三百韻の連歌候。
※ 三百韻(さんびゃくいん)の連歌 - 三百句の連歌。
      明日廿五日に竹谷衆、形原衆来り、ふる舞い候。
廿五日丙午 雨降り。一日三百韻の連歌候。
      第一     竹備 清善
      花の外 秋もあり顔の 紅葉かな
      第二     又 家忠
      つぼむすや 置き惑わせる 菊の露
      第三     正佐
      入る方の 山の端逃げよ 雲の月

廿六日丁未 竹の衆帰られ候。
廿七日戊申 怒絵ふる舞い候。桑名より、馬売りて帰り候。
廿八日己酉 殿様小性衆、深尾清十越し候。中嶋へ同心にて越し候。
廿九日庚戌 同堤築かせ候。


 天正十六年(1588)子九月
 九月大
一日 辛亥 土用に入る。
二日 壬子 
三日 癸丑 崇福寺にふる舞いにて、深溝へ帰り候。
四日 甲寅 雨降り。殿様、京都より田原大津へ、今日御着き成られ候由にて、
      舟にて竹谷与次郎と、大津へこし候。殿様に御目に懸り候。
五日 乙卯 風吹て馬にて帰り候。
      上洛の御暇(いとま)申し候、竹谷へ人を越し候。

六日 丙辰 酒井吉五左衛門所に、初雁の振る舞い候。
      会下へ参り候。東条舞候、越し候。
七日 丁巳 
八日 戊午 御前様御迎えに西の野まで参り候。
九日 己未 会下へ参り候。御前さま、岡崎今日御逗留にて、
      御音信へ人を越し候。
十日 庚申 夜、雨降る。
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「家忠日記 五」を読む 22

(田んぼにカルガモ)

田植えが終わり、水の張られた田んぼに、カルガモが2羽遊ぶ。

「家忠日記 五」の解読を続ける。

 天正十六年(1588)子七月
 七月大
一日 壬子 会下、施餓鬼にて参り候。
二日 癸丑 大政所御煩い能く候由、京都より申し来り候。
三日 甲寅 わたのしょうしゅ院、越され候。
四日 乙卯 関東より‥‥上られ由、駿興国寺より申し越し候て、
      竹谷より申し越し候。
五日 丙辰 会下施餓鬼にて参り候。

六日 丁巳 宮崎に大網仕立て候て、下し候。
七日 戊午 先衆へ点取連歌候。振る舞い候。
      竹の衆越され候て、また連歌候。形原衆も越され候。
八日 己未 施餓鬼候。野田の今泉長次、死去候。
九日 庚申 
十日 辛酉 

十一日壬戌 
十二日癸亥 雨降り。形原いよ殿、尾州小幡‥‥一さとう越し候。
十三日甲子 雨降り。
十四日乙丑 雨降り。会下へ参り候。
十五日丙寅 会下へ参り候。

十六日丁卯 
十七日戊辰 竹谷へ点取の連歌に越し候。
十八日己巳 竹谷より帰り、夜雨降る。
十九日庚午 夜雨降る。
廿日 辛未 

廿一日壬申 会下へ参り候。
廿二日癸酉 雨降り。
廿三日甲戌 雨降り。
廿四日乙亥 雨降り。本田彦二郎、座頭越し候。
      京へ上る合力に、百疋致し候。彦次より状越し候。
廿五日丙子 

廿六日丁丑 雨降り。
廿七日戊寅 雨降り。怒緒、ふる舞い候。
廿八日己卯 雨降り。
廿九日庚辰 同、与五左衛門、京より下向候。岡崎宗玄、越され候。
晦日 辛巳 


 天正十六年(1588)子八月
 八月小
一日 壬午 家中衆、礼に越し候。
二日 癸未 
三日 甲申 
四日 乙酉 竹谷へ点取連歌越し候。
      駿州岡部美濃守女房衆、松平玄蕃娘、死去にて連歌止め候。
五日 丙戌 彼岸に入り。
      ‥‥大坊にて談義候。
※ 談義(だんぎ)- 経典や法義を説くこと。説法。また、問答。

六日 丁亥 永良へ堤築かせに越し候。
七日 戊子 中嶋徳生にふる舞いて、深溝帰り候。長澤清印越し候。
八日 己丑 会下へ参り候。
九日 庚寅 会下へ参り候。雨降り。
十日 辛卯 会下へ参り候。
      相州氏真伯父、北條美濃守、関白様へ出仕、今日岡崎へ着けられ候。
      案内は、榊原式部大輔、成瀬藤八なり。

十一日壬辰 会下へ参り候。
十二日癸巳 初松茸、大洞より越し候。
十三日甲午 雨降り。
十四日乙未 雨降り。
十五日丙申 夜雨降る。会下へ参り候。
      鵜殿善六、上(方)へ上り候とて、この方まで越し候。
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「家忠日記 五」を読む 21

(庭のガクアジサイ)

今日、三度目の「遠江三十三観音巡礼 再び」の巡礼に行く積りであったが、事情で急遽中止した。朝早く雨も止み、一日太陽を見ない曇りであった。気温も上がらず、歩くには絶好の日であったが、残念であった。

しばらく中断していた「家忠日記 五」の解読を続ける。

 天正十六年(1588)子六月
 六月小
一日 癸未 会下へ参り候。雨降り。
二日 甲申 雨降り。仏まわし越し候。
三日 乙酉 雨降り。駿川(河)へ、普請衆五人遣し候。
四日 丙戌 雨降り。
五日 丁亥 雨降り。初米、緒川より来り候。

六日 戊子 村雨
※ 村雨(むらさめ)- ひとしきり強く降ってやむ雨。強くなったり弱くなったりを繰り返して降る雨。にわか雨。驟雨。
七日 己丑 
八日 庚寅 
九日 辛卯 
十日 壬辰 大津、戸田三郎右衛門煩い、見舞に越し候。

十一日癸巳 煩い少し能く候て、帰り候。路次にて夕立する。
※ 路次(ろじ)- 行く道の途中。途次。道筋。
十二日甲午 雨降り。
十三日乙未 雨降り。
十四日丙申 雨降り。竹谷与次郎越され候て、点取の連歌候。
十五日丁酉 会下へ参り候。大給松平五左衛門所より音信に、鹿皮五枚。
※ 大給松平五左衛門 - 松平近正(まつだいらちかまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川氏一門の大給松平宗家に家老として仕えた。

十六日戊戌 
十七日己亥 夜、雨降る。取手、松平勘右衛門所へ連歌候て、越し候。
十八日庚子 
十九日辛丑 
廿日 壬寅 竹谷、松平金左衛門所へふる舞い候て、越し候。

廿一日癸卯 会下へ参り候。春蔵主に振る舞い候。
廿二日甲辰 竹谷備後所に、興行候て越し候。
      殿様、大坂大政所様御煩い外候て、
      上(方)へ御登り候由、申し来り候。
      御前様は夜通し、御通り。
廿三日乙巳 殿様御迎えに岡崎へ越し候て、
      大ひらまでにて、御目に掛り候。深溝帰り候。
廿四日丙午 中嶋、同権之尉所に、ふる舞い候て越し候。
      夕飯、永良、修理所に候。廻し連歌候。
      発句
      吹下す 風なお涼し 雲の峰  家忠
廿五日丁未 嶋田久助所にふる舞候。夕飯、孫左衛門所にて、深溝帰り候。

廿六日戊申 
廿七日己酉 会下、順透にふる舞い候て越し候。京へ飛脚遣し候。
廿八日庚戌 雨降り。
廿九日辛亥 夜、雨降り。
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「遠江三十三観音巡礼 再び」 二日日 その4

(袋井市久能 六所神社)

「遠江三十三観音巡礼 再び」二日目を続ける。今回、道草を省いてしまった、久野城址と可睡斉、23年前の記録を以下へ記す。

【歩程】久野城址へ、東へ2.6km
東名のガードを潜ると前方に小高い岡の久野城址が見えた。室町時代末期に戦国史を彩った久野氏の居城跡である。畦道を最短距離で麓まで近づき登る。公園として特別な手の入れ方がなされておらず、自然の儘の小道と草地が気持ちのよい城跡である。石垣も無く、唯一頂上近くに深く掘られた井戸が残り、危険防止のためネットで囲われていた。頂上の桜吹雪の中でお茶とお菓子を頂く。桜も若木で見晴らしを遮らないので、辺りを一望に出来る。

付近に「マムシに注意」の看板があったが、マムシの出そうな雰囲気はなかった。夏にはもっと草が生えて危なくなるのかもしれない。下って暫く歩いて、和さんが「カメラを持ってきたか」と聞く。てっきり頂上へ忘れたと思い、サブザックを預けて慌てて取りに戻ろうとすると「ザックの中にあった」と呼び止められた。鈴さんが下りがけに忘れ物の無いことを確認してくれていたので、ザックを調べる気になったのだと聞いた。ひやひや!

【歩程】可睡斉へ、北西へ1.8km
 可睡斉は秋葉山の里寺として、ぼたんの寺として、最近では可睡ユリ園で有名である。秋葉大権現には大きな一本歯の高下駄が奉納されていた。昔は学生が高下駄を履いたとの話に、自分も履いたと話す。かっては本殿の前にぼたんが植えられていたが、今は西側にぼたん園があった。遠目にユリ園同様入場料を取るのだろうと決めてかかり、ぼたん園には寄らなかった。後日の情報では無料だと聞いて、見物しておけば良かったと思う。



(成道寺山門及び本堂)

東名高速道路を潜り、第8番観正寺へは旧秋葉道に戻る必要があるために東名に沿って東へ500メートルほど歩く。角の六所神社に参り、秋葉道を北へ歩く。地図を見ながら下山梨で細い旧道に入り、住宅がたくさん増えて、自分の居る位置が判らなくなった。農作業のおじさんに聞き、ようやく成道寺に着いた。23年前、このお寺が観正寺を管理し、納経印も扱っていたことを思い出し、本堂右手の玄関のチャイムを押した。戸は開いているけれども、返事が無かった。

【歩程】観正寺へ北西へ2.2km
 森街道を横切り山梨の町に入って、自動車道ではない旧秋葉道を歩く。成道寺という小寺を過ぎて、細い道を突き当たった所に、公会堂の隣に観音堂だけがあった。前庭に「不動岩」と名付けられた子供を抱いた地蔵さんのように見える石があるが、残念ながら壊れていた。参拝後、朱印を貰う場所を喜三郎さんが隣の町工場に尋ねた。連絡を取ってくれて、しばらく後バイクで老人が着いた。先程前を通った成道寺の寺田親由住職で、パンフレットを寄越した後、「般若心経には難しいことは書いてない。人が日常の生活の中で、守るべききまりや、やってはならないことが易しく書かれている」「地球の自然には人間に必要な物が全て揃っている。だから、地球を大切にしなければならない」と説教を始める。これは長くなりそうかと思ったが、話は尻すぼみに終わった。

第8番 曹洞宗 月見山観正寺(つきみざんかんしょうじ)
 「いくたびも 参る功徳(くどく)の たまり水 浮かぶぐせいの ふなよせの松」
【本尊】六観世音菩薩   【所在地】袋井市下山梨上


地図を頼りに進んだが、また分らなくなり、庭仕事の女性と生垣を剪定するおじさんに聞き、公民館の隣の第8番観正寺にようやくたどり着いた。ところが、写真を撮っていて、デジカメが電池切れになった。大失態であった。他の事なら計画通りに進んだけれども、このハプニングはこの巡礼では致命的である。

第8番観正寺の納経印も頂けなかったし、次回、歩き直そうと決心し、月見町のバス停で25分ほどバスを待って、袋井駅まで戻った。歩きたりないために、金谷駅から家まで4キロ近くを歩いて帰った。

本日の歩数19,469歩。歩いた距離は12キロほどかと思う。12時40分には家に着いた。
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「遠江三十三観音巡礼 再び」 二日目 その3

(庭の小花のヒマワリ)

お昼、名古屋と掛川から子供たち、孫たちが集ってくれ、島田の料理屋で古希のお祝いをしてくれた。子供たちにはとんだ散財をさせてしまった。感謝と共に、これから10年、傘寿まで、またこういう席で、その10年を誇れるように、何かを計画して行動したいと決意した。そのためには、まず健康で動けることである。

夜、祥展堂さんから電話があり、今月の末頃にお邪魔することになった。

「遠江三十三観音巡礼 再び」二日目を続ける。まず23年前の記録から。

宗円寺は「川井の妻薬師」と呼ばれ、薬師如来立像は昔から知られている。境内には東南海地震による袋井の犠牲者供養塔がある。昭和十九年、東海地方に巨大地震があった。戦争中のこと故、全て機密事項として報道されることはなかったが、多くの犠牲者があったと聞く。僕を除く巡礼団それぞれに、その地震の記憶があり、子供の頃に大変驚いたという経験を語ってくれた。

23年前のように、旧国道端の宗円寺に寄った。宗円寺では、案内板で「川井の妻薬師」が鎌倉時代末期の鉄造りの薬師像だと知った。静岡県内唯一の鉄仏と書かれていたが、静岡の方のどこかで鉄仏を見た記憶がある。今、どことは思い出せないが。もう一つ、昭和十九年、三河地震の犠牲者供養塔も確認した。「大震災袋井市死亡者追悼之碑」と碑面には刻まれていた。

宗円寺から北へ真っ直ぐの道を進む。行く手を横切る高架の道が見えて来た。それが見えたら、手前の左手に海蔵寺があると認識していた。しかし、左手は住宅地で、お寺など見当たらなかった。海蔵寺は諦めて、高架橋を潜り、更に北へ進む。この辺りから雨がしとしとと降って来た。決して大降りにはならないと解っていたから驚かなかった。その先に、もう一つ高架の道が見えて来た。立ち止まって、地図を見直した。古い地図で、国一の袋井バイパスがまだ無かったのである。先に見えるのは東名高速道路で、海蔵寺はその手前で、左手の小山にあるのだろうと、漸く想像できた。しかし、海蔵寺へ寄り道する気持ちはすでに失せていた。以下へ23年前に立寄った海蔵寺の記録を示す。

【歩程】海蔵寺へ、北へ2.1km
田圃の中に微妙なカーブを描く旧秋葉道に戻った辺りで、雨がパラパラと来る。見上げると上空に帯状の黒い雲がある。しかし、行く手の北の空は雲が切れているから心配はしなかった。橋を東に渡って宇刈川の土手の桜並木を行く。今年は桜の便りが届き始めてから花冷えが続き、桜が随分長持ちした。この桜並木も満開は過ぎているが、まだ散りきってはいない。お茶も随分遅れるようだ。

袋井バイパスを潜り、海蔵寺の近くまでは来たが、海蔵寺が見つからず、近くで庭掃除をする奥さんに聞く。「南へ回って幼稚園のある所に山門がある」と教えてくれる。目の前に、先週海岸歩きの時に見た紫の花が咲き乱れていた。「もう一つ、この花は何という名前ですか」と聞いた。随分変な人達と思ったかもしれないが、「ツルキキョウ」と名前を教えてくれた。

海蔵寺は今川了俊ゆかりの曹洞宗の寺で、了俊の供養塔があるというが、見つからなかった。「ところで今川了俊とは何をした人なのだ?」聞いたような名前だが誰も知らなかった。
(注)今川了俊は室町時代前期の武将・歌学者。名は貞世。剃髪して了俊。義詮・義満に仕えて軍功をたて、また冷泉為秀に師事し、歌学に堪能であった。
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「遠江三十三観音巡礼 再び」 二日目 その2

(袋井宿場公園)

今日で古希を迎える。古来希(まれ)なりというが、今ではごくありふれた年齢である。まだまだこれからだと思う人は多い。自分もその一人でありたい。

午後「駿遠の考古学と歴史」講座に出席した。先月、先生に頼まれて、平田篤胤の手紙を解読(5月16日ブログ参照)して郵送してあったが、そのお礼で新茶を頂いた。こういう頼まれごとは初めてであるが、今後増えるかもしれない。なお、この宛先の道雄氏は、先生の話によると、新庄道雄と言い、駿府で「三階屋」という郷宿を営む富商で、三階屋仁右衛門と称した。平田篤胤の門人で、かつ篤胤の諸出版のスポンサーでもあったという。

「遠江三十三観音巡礼 再び」二日目を続ける。まず23年前の記録から。

出来るだけ忠実に昔の巡礼道を辿る。原野谷川の土手では桜並木がようやく散り始めていた。睦美橋(S44.3完成) を渡り、十二所神社の所から旧秋葉道の横丁へ入る。幼稚園児の集合場があり、集まっていたお母さん方に挨拶する。そばに輪を沢山付けたロープがあった。園児に輪を握らせて数珠つなぎにして通園させるのだろう。旧東海道を横切り、国道1号線を渡る。

原野谷川の土手を通り、旧東海道袋井宿の真ん中辺り、袋井宿場公園でトイレを借りる。出てくると、お婆さんが物言いたそうに寄って来た。

あの看板を取り外したいのだが、役所に言っても許可してくれない。指差す先に、公園に隣接する商家の壁面いっぱいに看板が貼りつけられ、「東海道ど真ん中」と大きく書かれている。合せて協賛するのであろう、通りの商店の名前がいくつか書かれていた。どう思います? お婆さんの話ではあの看板は東海道400年祭の時、家で自費で掛けたもので、今では見苦しいから外してしまいたい。そんな話を役所へ出したが、駄目だといわれた。自分のお金で作ったものを、自由に出来ないのはおかしい。お婆さんの言い分だけでは何とも答えようがない。

袋井宿は距離的に東海道の中間に当るとかで、袋井市は「東海道ど真ん中」のキャッチフレーズで町興しをしている。だから看板は残したいのだろう。看板が側面に掲げられたあの商家は、自分の家の店で、昔は薬屋だった。袋井宿は安政の大地震(1854)で、ほとんどの家屋が倒壊した。その後、すぐに立て直したもので、昔は屋根が杉板で張られていた。今はその上にトタン板を張ってあるが。昭和19年にこの辺りを襲った三河地震でも、袋井宿では多くの家が倒壊したが、家の店は倒れずに残った。


(明治の年賀状)

店はもうここではやっていないが、ウィンドに古いものを少し展示しているので、見てもらいたいと連れて行く。昔の角力番付やら色々ある中で、一枚の葉書があった。明治45年1月1日、自分の祖母が出した年賀状で、骨董市に出ていたものを、知人が買い求めて、届けてくれたと言う。葉書の写真は近くの原野谷川に架かった木造の静橋で、橋の上を大八車が通っている。そこへ「安希まして お目出度う 御座以ます」と書かれている。宛先は「引佐郡伊平村伊平 池田某」とある。今脚光を浴び始めている、井伊直虎の井伊谷の、更に奥の村である。往時、報徳社の関係で、祖父が知り合い、賀状のやり取りをしていたという。そこへお婆さんの知人が通りかかり、話はそこで終わった。(つづく)
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