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katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

カサブランカのモザイクの4枚目のバックと昔馴染みが・・・

2021-02-24 07:35:51 | モザイク作家

今日も引き続きカサブランカのモザイクの4枚目のバック。通勤中に駅前を通るんだけれど、そこを通る頃にいつも思うのは、あぁ今日は祭日なんだな・・・なんて事に気付くのね。いつもと様子が違うな・・・って出発時に思ったりするんだけれど、

その頃はまだ違和感が少なく、気のせいかな?位なのが、駅前に来ると、感じが変わって間違い無いな・・・になる。そんな時に旗日の印として、バスに旗が飾ってあるのを見て、やっぱりな・・・となったりする。

更にアトリエに着くと、いつもいるべき板金屋さんのシャッターが閉まっていたり、何しろ日常と違った雰囲気が漂っていたりするのね。詰まらない話なんだけれど、感じる・・・って言う事の基本みたいな話で、日常との違和感なんて事を感じる事は、

何か変・・・って言う事に気が付く練習になるのね。これは五感の視角の話だから、絵を描いた時のモチーフと自分の絵の違和感とか、間違い探しの違和感とか、料理の味に繋がる見た目の色や形の違和感とか、に繋がるのね。

感じる事が敏感になると、わずかな差の違いでも見分けられる感覚が身に付く。そんな事が出来ると、スポーツなんかで、瞬時の判断って事にも繋がり、敵の怪しい動きに敏感になったりもする。とても重要な事なのね。

まぁこんな事は意識していないと、単なる偶然になるし、偶然のままだと、何かそんな気がした・・・みたいに何か・・・と良く判らないけど・・・って感じだけれど、突き詰めると、いつもと何が違っていたか?

みたいな事が瞬時に違う事が判り、だから・・・って言う根拠あっての事になり、必然になって行くものなのね。常に確立を上げる為って事なんだけれどね。まぁ必要な人には必要ってだけで、いらない人には全く関係無い話。

さてそんなこんなでいつも通りの1日になるんだけれど、以前なら、追い込まれている時って言うのは、そこから離れたい気持ちが勝つと、何で俺だけ・・・みたいな気持ちになり、後向きになったりもした事もある。

所が、それは生活をも出来ない程追い込まれていた頃の話で、今は何とか切り抜けている状況だと、昔ほどのダメージは無く、勿論それを経てなんて事になると、以前の経験が気持ちを幾分楽にさせている事もある。

それでもその気持ちと言うのは、上手く行かなかったり、進行具合が悪かったりすれば、やっている時間に見合わない気持ちになると、弱気になったりする分、気持ちが削られて、手が止まったりもするし、これで良いのかな?なんて事になり、

迷ってしまったりもする。これがサンプルの無いオリジナルの厳しい所で。そこをその気持ちを騙す為に、脳へ何らかの刺激を与えないとならないのね。それが以前なら音楽なんて事だったりしたのね。

ただその音楽が自分のcd だったりすると、予定調和になるのね。ただ好きな歌が掛かっている事になるから。その予定調和で満足している時って言うのは、制作に追われ、支払いに追われ、休みなく・・・更にみんなは休日って気分が、

俺だけ・・・に繋がっている中で、自分のcdって自分の思い通りになる・・・って事が満足感に繋がっていたから良かったって事なのね。所が今は、みんながコロナ、休みであっても休み本来の自由って事でも無さそうだと、さっきの理由が

成立しなくなる。つまり予定調和が崩れるから、そこに自分の自由になるcdなんか掛けても、自分だけ自由になっているのに、上手く進まない・・・みたいな気持ちになり、かえってダメージになるのね。

そんな時にコロナになって、馬鹿馬鹿しい感じの話をする深夜のラジオをRADIKOって言うアプリで、その機能を使ってタイムフリーって言う、聞き逃しが聴けるって事で、制作中に聞いたりしていたのね。所がナイナイの岡村さんあたりの頃

から、馬鹿馬鹿しさが弱まって来ると、軒並みラジオから聞こえて来るのは、無理しないで・・・とか、お体に気を付けて・・・とか、もはやテレビと同じ事になり、寄り添うみたいな用語が連呼になったのね。

確かにそれも大事だろうけれど、それでもやらなきゃならない人って言う側にいる人達って言うのがいて、ねぎらいばかりでは・・・なんて気持ちになったりする人もいたりする。勿論、ねぎらい連呼大歓迎の人もいるだろうが・・・。

そうなると、予定調和では無くて、非日常が欲しくなる。例えば日常を都心部で・・・って人がキャンプとか、逆に田舎が日常って人が、都心部へ・・・ってね。つまり今の俺の状況は、それでもやらなきゃ・・・になるのだからって中、

今度は無料配信のアニメなんてものに出くわすと、スポコンなんて言うものがあって、大抵の内容は主人公は体系から何から期待外れなんだけれど、上手くなって行く的な話で、努力と根性なんて言うモノがベースだったりする。

つまりそんな事を何個も見ると、頑張らなきゃ・・・もっとになるって話なのね・・・俺の脳は。所がラジオと違って画像があると眼を取られるんだけれど、俺は音しか聞かないのね。聴覚のみでの洗脳みたいな話だから。

だから娯楽としての刺激音としてと、そうやって頑張っている・・・って応援やらやる気やら、みたいな気持ちになろうとしてくれれば、気分ってものの回復に繋げようと・・・俺の脳は単純だから騙せるだろう・・・と。

上手く行けば、娯楽も応援もあり、気分転換も出来て一切休まず、手を止めずに制作出来るし、過酷であっても過酷に思わずに済むって話・・・。そんな事で何とかここまでやっているのね。そんな中、電話が掛かって来て・・・。

解除されるまで名前は伏せている教室の事もあるから、ここでも昔馴染みって事にして置くが、しばらくぶりにやって来たのね。こう言う場合、お互いの近況の上書きをし合うものだが、俺側はこうして毎日更新しているから、相手は見る気

があれば、一目瞭然であって、相手側情報って事になる。しかも時々でも見てくれているのなら、数年振りだとしても、あぁそれ見て知ってる・・・なんて事にもなったりするから、上書きも早くなる。

ただ俺の場合、ほぼ仕事の事だけなんだけれど、普通の人は日常の出来事。恐らく家庭のある人なら、誰もが経験する事なのね・・・だから一緒に話すとあるあるネタ的な話になる。でも俺には家庭は無いし、相手の日常は全てが非日常。

こんな時思うのは、一対一の場合、しかも同姓なら歳の差とかあったとしても、ほぼ互角スタートなんて事になる。仮に異性だとしても、今の俺は自炊もしているから、そんな事を共有出来る分、互角までは行かずとも、判り合える事もある。

しかもコロナ。状況環境も似たようなもので・・・所が家族ってワードが出ると、そのカードの重みは俺には無いから、対大人同士の関係が、一挙にお母さんやお父さんって肩書きに変身してしまうと、何ランクも上に見えたりする。

って言うより委縮すら覚えるのね。ただ昔ほどでは無くなったのは慣れもあるけれど、子供達が大きくなり大人になっちゃった事もある。ただ楽しく見えた事も、親離れ子離れ的になると、寂しくなるね・・・に変わったりもする。

子供や連添いがいない者が憧れ的なものの見方だったものが、現実を見せられている感じになると、憧れの時間が終わってしまう感じがして、手遅れ感が満載になる。勿論、その後に孫でも出来た事になれば、また振り出しに戻るんだけど。

いずれにせよ、懐かしさもあり、そう言った時期になった話も聞き、疑似体験でもさせて貰ったようにも思えたりする。しかも、当然今の俺には届かないものばかりであり、それをダメージにならないように・・・と思ったりもするが、

昔なら卑屈になりそうなのに、コロナで共有、昔ほど金銭面の追い込まれていない分、余裕では無いが、そうなのかぁ・・・、じゃやろうか・・・と切り替えて制作って事になったけれど、いくらかのダメージがあるのかな?

それとも終わりとしての喪失感なんだろうか?それとも何か背負ったかな・・・。


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