『一神教世界』3、2012年3月、1-13頁。
http://ci.nii.ac.jp/naid/120004898341
アブー・アル=フ. サイン・アル=バスリー『ムウタマド』よりの引用(8頁)。
もし出来事についての法判断を知りたければ、それが何であるかを理性によって考え、次に、理性の判断が変更されるべき理由があるか、啓示の典拠の中にその判断の適用を求めるものがあるか否かを考えなければならない。もし理性の判断を変えるべき理由がなければ、その判断に従う。その際の条件は、もし福利が理性の主張するものから変更されているのなら、それについて至高なる神が私たちに示さないということはあり得ない、と知っておくことである。もし変化を示すものが啓示の中に見つかれば、その変化に従う。なぜなら理性は、啓示が私たちに変化を求めない限りで、判断を示すからである。
この引用部分から、著者は、「このように、法学的な問題に関する限り、ムウタズィラ派は啓示に対し理性を超える権威を認めていたのである」と結論する。
一方私は、浜本氏と私の問題意識の違いにより、バズリーないしムウタズィラ派が、人間において「理性」の存在をしかと自覚し、かつその機能を明確に認識していたという情報を、ここからひきだすことができる。
http://ci.nii.ac.jp/naid/120004898341
アブー・アル=フ. サイン・アル=バスリー『ムウタマド』よりの引用(8頁)。
もし出来事についての法判断を知りたければ、それが何であるかを理性によって考え、次に、理性の判断が変更されるべき理由があるか、啓示の典拠の中にその判断の適用を求めるものがあるか否かを考えなければならない。もし理性の判断を変えるべき理由がなければ、その判断に従う。その際の条件は、もし福利が理性の主張するものから変更されているのなら、それについて至高なる神が私たちに示さないということはあり得ない、と知っておくことである。もし変化を示すものが啓示の中に見つかれば、その変化に従う。なぜなら理性は、啓示が私たちに変化を求めない限りで、判断を示すからである。
この引用部分から、著者は、「このように、法学的な問題に関する限り、ムウタズィラ派は啓示に対し理性を超える権威を認めていたのである」と結論する。
一方私は、浜本氏と私の問題意識の違いにより、バズリーないしムウタズィラ派が、人間において「理性」の存在をしかと自覚し、かつその機能を明確に認識していたという情報を、ここからひきだすことができる。