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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

H. バターフィールド著 渡辺正雄訳 『近代科学の誕生』 上下

2011年04月25日 | 自然科学
 物事をより綿密に観察するだけでは、アリストテレス的理論から逃れることはとうてい不可能であった。ことに、出だしを間違って、込み入ったアリストテレス流の諸観念に足を取られてしまっていてはなおさらのことである。 (「第一章 いきおいの理論 その歴史的重要性」上巻24頁)

 後半は先入主もしくは初学のおそるべきを説いたものであるが、ここでさらに重要なのは前半である。アリストテレス説が完全な真空の存在を否定したのは、他の因子が一定であれば物体の速さはその抵抗に反比例して変わるという前提で、空気抵抗がゼロになれば物体の速さは無限大になる、すなわち完全な真空中では物体はある場所からある場所へ即時に移動することになる、それは非合理であるというものだった(同上)。
 当時は完全な真空をつくることは言うまでもなく、なおかつ上の実験をその中で行いなおかつそれを観察する環境を作り出すことはますます困難であった。しかしこの結論の誤謬は、「他の因子が一定であれば物体の速さはその抵抗に反比例して変わるという前提」が誤っていたからである。そしてこの前提は、人間の日常レベルで観察をいくら注意深く細部にわたって行おうとも解決するものではないと、著者は言う。

 古い思考体系の枠内でどれほど綿密に観察しても、この問題は解決できず、どうしても思考の転換が必要とされたのである。 (同、25頁)

 著者はガリレオの偉いところは、これを行った、つまり前提(=仮説)を転換したところにあるという。実験による検証可能な仮説を設けることにしたことである。
 新しい思考への転換は(12世紀以降胎動はあったが)一般的にはなかなか起きなかった。くりかえすが、日常レベルでの観察とそこから生まれる仮説に比して現実に可能な実験とそれによる検証には水準の懸隔があったからである。
 だから、古い思考的枠組みは、中世の後半期というかなり長い間生きながらえることができた。最終的な検証が不可能であったためである。

 中世も後期になると、実験を行なって思考の領域を押し広げようとする人々も現れたが、その彼らも、多くは、いきおいの理論を唱えた人々と同じく、アリストテレスの体系の周辺で何かやっていたというだけのことであった。紀元一五〇〇年になっても、このアリストテレスの体系は、理性的な思想家の目に、十五世紀昔と同じ正当性をもっているように映ったに違いない。 (「第五章 実験的方法の確立 十七世紀における展開」上巻130頁)

 と、著者は書く。「違いない」と文飾上推測めかして書いてあるが、このことは幾多の実例のある、れっきとした歴史的事実である。その証拠に著者はこう続ける。

 中世後期には、自然を細心に観察し、その観察を大いに正確なものにしていった人々も出てきたが、そういう人たちも、純粋に記述的な事項を百科事典的に積み上げるのみであった。何か説明を要する事がらにぶつかると、これらの人々は、観察そのものから自分の理論を引き出すということはしないで、古代哲学が与えてくれた説明の全体系に頼るのであった。/十七世紀初頭にフランシス・ベイコン卿は、観察と理論がこのように遊離している状態を嘆いている。 (同。130-131頁)

 だからたとえば、古代以来中世の四元素説では、四元素の火・空気・水・土はそれぞれ異なる「徳の高さ」と「高貴さ」を持ち、その差によって格付けされていた(「第二章コペルニクスと中世の伝統」上巻42頁)。土がもっともいやしい物質とされた。だから重く、下に沈むのである(その次にいやしい水も同じ)。元素はおろか、重さ・軽さ、上(昇)・下(降)といった自然の事象や現象に価値判断がくっついている。物理法則と倫理原則が未分化の状態である。コペルニクスがプトレマイオスの天文学理論に反旗を翻したのは、プトレマイオスの天文学理論が客観的データに背馳するからではなく、彼の信念(先入主・初学)であるところの「不動性は運動よりも高貴であるというプラトン的またピタゴラス的思想と結びついた考えを持っていて」、それがゆえに太陽が動くはずはない、中心にあるべきだという結論(地動説)へと至ったのであった(同、56頁)。彼の『天球の回転について』は1540年刊行である。
 自然科学の領域でさえいわゆるパラダイムシフトにこれほどまでに(数十年、あるいは数百年)の時間がかかるとすれば、さらに実験と検証の困難な社会科学やそもそもそれが不可能というか時として不要であるようにさえ見える人文科学においては、いったん頭脳に入ってしまった思考(先入主・初学)からのパラダイムシフトというのは実現が極めて困難ではないかと思える。あるいは、思想そのものの正否や信頼性には関係なく、まさに“空気”によって一夜にして転換という極端な変わり方をするか。

(講談社 1978年11月第1刷 1990年9月第9刷/1996年4月第15刷) 

「シー・シェパードへの批判を拒否したギラード首相@豪紙The Australian」 を読んで

2011年04月24日 | 思考の断片
▲「Cool Cool Japan !!!」2011/04/24 01:30。
 〈http://sasakima.iza.ne.jp/blog/entry/2255719/

 「それから、海上における行動について私が一貫して申し上げてきたのは、海洋のルールは安全に航海するために存在しているのであり、これは全ての人たちが守って行かなくてはならない。誰かが遭難しても、成功裏に救助する確率は低いのです。とりわけ、南極海では低い。海洋法の規則にのっとって、人の安全を最優先に考えなくてはなりません。海洋の行動については、シーシェパードを含めて注意しなくてはならない」〔略〕
 ギラード首相は、「シーシェパードを立件に踏み切る用意がありますか?」という私〔佐々木正明〕の質問にはっきりと答えませんでしたね。


 こういう言動を見聞きすると、「政治家というのはクズばかりだ」("They are all scumbags.")という昔米国人の知人が吐きすてた言葉を今更ながらに思い出す。ギラード首相がシー・シェパードに同情的だからではない。それは個人の信念だから自由である。同氏が言を曖昧にして論点の誤魔化しとすり替えをやっているからだ。そして、以下はギラード首相についてはどうか知らぬが、ある政治家がクズと呼ばれる所以は、国家と国民のために何もしないか、あるいは多少はしていても、それ以上に、私腹を肥やすから、地位と権力に恋々として執着するから、つまり公職にありながら私利私欲を追求して国益を損なうからであり、そしてそれを糊塗するために平気で嘘をつくから、であろう。

仁井田陞 『中国法制史』

2011年04月18日 | 東洋史
 この本の処々合わせて4分の1ほどを占める、著者の声高な政治的ジェスチュアは、学問的もしくは政治的信念のあってのことではなく、歴史学界ならぬ歴史業界における世俗的欲望、つまり“出世”のためではなかったかというのが、著者の長年の同学にして知人であった宮崎市定御大が『自跋集 東洋史学七十年』(岩波書店 1996年5月)で披瀝する見方である。かりにそうだったものと思いなして、20年以上かかって、やっと最初から最後までいちどきに読み通すことができた。
 
(岩波書店 1952年6月)

「中国人科学者の論文、数は世界一だが被引用率は100位以下―中国紙」 を読んで

2011年02月12日 | 思考の断片
▲「レコードチャイナ」2011-02-12 10:04:42、翻訳・編集/NN。(部分)
 〈http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=49201

 武漢大学の調査によると、中国の科学技術系の論文を売買する市場規模は08年までの3年間で約5倍の成長を遂げた。あまりの惨状に危機感を感じた中国教育部は09年3月、論文の盗作を検出するソフトを大学200校に配布している。だが、そんな努力も空しく、同年12月には江西省・井岡山大学の講師2人が国際科学誌に発表した論文70本がねつ造であることが発覚し、世界に衝撃を与えた。

 中国には知的所有権の概念がもともとなかったのだから盗作があったところでそれは当たり前である(先人の業績は後人の共有物であるのだから盗作という概念も本来ない)。問題は、ある種の中国人は、現代でも、客観的事実(物理法則でさえ)など金と権力と信念(正義感)でどうでもどうとでもなる、そしてよしんば実際にはそうならなくてもそれを知っている自分はなんの損害も被らないから大丈夫、他人や社会全体のことなど知るものかと、心のどこかで思っているから、こういうことが頻繁に起こるのである。この消息は私にはあまりにも明白なのだが、そうと思わない人が多いので意外である。それとも私の頭のほうがやはりイカレているのかな? よく言われるしね。

福澤諭吉 『世界國盡』

2010年12月28日 | 社会科学
 〈http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898728/303

 この万国案内のなかで、福澤は清(中国)を「未開・半開」の国々の範疇に入れている。「蛮野(野蛮)」ではない。平山洋氏の『福沢諭吉の真実』(→2004年12月14日欄)に触発されてこの著を読んだとき(2005年3月)、日清戦争時の福澤の有名な論説「日清の戦争は文野の戦争なり」は、すくなくともこの題は本人のものではあるまいと直感的に思った。福澤はきわめて論理的な性格で、自分の学問的信条ないし倫理的信念の表現に関し気分によってみだりなことをいったりしたりする人間ではないからである。ちなみに上述平山著ではこの論説は石河幹明の書いたものだと結論づけられている(『福沢諭吉の真実』105頁)。

(福澤諭吉編 『福沢全集』巻2、東京:時事新報社,明31、近代デジタルライブラリー)

「In defence of WikiLeaks」

2010年11月30日 | 思考の断片
▲「Economist.com」Nov 29th 2010, 23:27 by W.W. | IOWA CITY.(部分)
 〈http://www.economist.com/blogs/democracyinamerica/2010/11/overseeing_state_secrecy

  If secrecy is necessary for national security and effective diplomacy, it is also inevitable that the prerogative of secrecy will be used to hide the misdeeds of the permanent state and its privileged agents. I suspect that there is no scheme of government oversight that will not eventually come under the indirect control of the generals, spies, and foreign-service officers it is meant to oversee. Organisations such as WikiLeaks, which are philosophically opposed to state secrecy and which operate as much as is possible outside the global nation-state system, may be the best we can hope for in the way of promoting the climate of transparency and accountability necessary for authentically liberal democracy. Some folks ask, "Who elected Julian Assange?" The answer is nobody did, which is, ironically, why WikiLeaks is able to improve the quality of our democracy. (太字は引用者)

 国民国家の内にいても外にいても、やるべきことは同じだろう。内にいる場合、信念の代償としてその国家からは国家の法律を犯した犯罪者として扱われ刑罰を受けることを覚悟しなければならないが、これを逆にいえば、その覚悟さえあれば、信念に基づいてやればいいのである。その信念は間違ってはいないのだから。「立国は私なり、公に非ざるなり」という福澤諭吉の言葉と、尖閣ビデオを流出させた海上保安庁の保安官の事とを、念頭に起きつつしるす。

プラトン著 三嶋輝夫/田中享英訳 『ソクラテスの弁明・クリトン』

2010年10月11日 | 西洋史
 正義のために本当に戦おうとする者は、たとえ少しの間でも生きながらえようとするならば、公的に活動するのではなく、私的なかたちで活動せざるをえないからです。 (「ソクラテスの弁明」三嶋輝夫訳、本書56頁)

 皆さんの一人一人に対して、自分が最も優れた思慮に満ちた人間となるように自分そのもののあり方に配慮するよりも前に、自分に附随するような利益を顧慮することがないように、また国家そのもののあり方に関心を寄せるよりも先に現にある国家の利益を図ることのないように、さらにはそれ以外のことに対してもそれと同様の仕方で配慮すべきであると私は努めてきたのです。このような人間である私は、いったいどのような目にあうのがふさわしいのでしょうか。
 (同、本書69-70頁)

 すなわち、今や私は皆さんによって死罪を負わされ、かれら〔ソクラテスの告発者たち〕は真理によって邪悪さと不正の罪を負わされてこの場を去るのです。そして私もかれらも、ともに刑に服することでしょう。おそらく、それはそうなるべくしてそうなったのでしょうし、それはそれで結構だと思います。 (同、本書77頁)

 「無知の知」を認めればおのれの立つ瀬が無くなる名聞乞食の似非知識人がソクラテスを訴え、「無知の知」を理解できない素朴迂闊な一般大衆が彼に死刑の判決を下した。
 ソクラテスは、「正義(ただ)しく生きる」ことがすなわち「よく(幸福に)生きる」ことだとした。これには客観的な論証もなにもなくて、単にソクラテスの信念であるらしい(「『クリトン』解題」田中享英、本書185頁)。この信念のうえに有名な「いちばん大事にしなければならないのは正義(ただ)しく生きることである」という正義の原則が導かれるわけで、つまりこれは哲学的な定理でもなんでもない。好みの問題である。しかし私はこの好みを好む。しかし私の場合、ソクラテスとは違って、まだ殺されていないだけ、より幸福なのだろう。無視されたり、あるいはせいぜいのところ騙されて金を取られたり、著作物やアイデアを都合のいいところだけパクられたり、信用して物事を任せたら途中でほうりだされたうえに泣きつかれて尻ぬぐいをやらされたり、衆人環視のなかで「キチガイ」扱いされて辱められたりするくらいですんでいる。

(講談社学術文庫 1998年2月)

「『バカの壁』は論理で崩せない」 から

2010年06月27日 | 抜き書き
▲「池田信夫 blog part.2」2010年01月31日 15:30。(部分)
 〈http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51367444.html

 天地創造やリフレのような「バカの壁」は論理によって崩せないので、相手にしないのが最善の策である。

 この記事のエントリーは「経済」。これが「歴史」ならどうなるか。
 “社会主義が崩壊しても「あれはスターリンが悪いので、『真のマルクス』は正しい」などと際限なく補助仮説を付け加えて「説明」する”やら“レーニンは生涯一度も嘘をつかなかった”(個人的経験)やら、“ソ連の公的宣伝や公表される統計数値は全部正しい”(個人的経験)やら“中国史は農奴や小作人が人口の大多数を占めている歴史でなければならないというのが僕の信念だ”(個人的経験)やら“安倍首相 (当時)は岸信介のDNAを受け継いでいるので遺伝子的に右翼で中国侵略的である”(個人的経験)のような「バカの壁」は・・・・・・となろう。ただし、後半は「論理によって崩せないので」はそのまま、「相手にしないのが最善の策である」というよりは、「退官するか死ぬのを待つのが最善の策である」とするほうが宜しかろうと愚考する。夢魔といえば聞こえはいいが、彼らは要は自分の本音もわからぬ、自分をとほうもなく甘やかしてきた馬鹿者であるからだ。ほらよく言うではないか、バカは死ななきゃなおらないと。せめて退職して社会的に死んでもらわないと駄目だ。これは「歴史」よりも「文学」に近い例だが、中村幸彦は野間光辰の京都大学退官を待ってその西鶴に関する研究手法が持つ重大な欠陥を指摘した。

『ウィキペディア』「デュエム-クワイン・テーゼ」項から

2010年02月01日 | 抜き書き
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%A5%E3%82%A8%E3%83%A0-%E3%82%AF%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%BC

クワインのテーゼ(いわゆるデュエム-クワイン・テーゼ)

 クワインはデュエムのテーゼを大幅に拡張した。彼は論文「経験主義の2つのドグマ」の中で、信念の検証に関する全体論を主張する。それによると、われわれの信念の体系は全体としてひとつの網の目をなしていて、けっして個別に外部からの刺激(観察)と相対するということがなく、常に網の目全体として観察と向き合う。網の目から導かれる予測と観察が矛盾しても、網の目のどこかを修正すれば矛盾は解消でき、どれか特定の信念が反証されるということはない。逆に、経験による改訂の可能性を原理的に逃れている信念というものもなく、場合によっては論理学の公理なども改訂されうる。こうした全体論の帰結として、対立する二つの理論があるとき、経験によってそのどちらかが否定されるということはなく、どんな経験に対してもどんな信念でも保持しつづけることができる。これがクワインのテーゼである。/デュエムと違い、クワインはこれが物理学だけではなくすべての信念をおおう非常にグローバルなものだと考えており〔後略〕。

 宋代を除く中国の歴史においては自作農(もしくは地主)と小作農の比率は史料がないのにどうして中国古代史(1840年アヘン戦争以前の中国歴史)を、小作農(佃戸)が圧倒的敵多数を占めていた世界と見なすのですかと、ある明・清時代専門の中国社会経済史家にたずねたことがある。「中国の古代は小作農が圧倒的多数だったというのが僕の信念だ」とその人は答えた。そういうことだったのか。

「ダライ・ラマ法王2009年来日レポート」 から

2009年11月26日 | 抜き書き
▲「ダライ・ラマ法王日本代表部事務所」2009年11月、(訳:熊谷惠雲)。 (部分)
 〈http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/2009japan/report/index.html

 法王は日本滞在6日目の朝、海の前でゆらめく永遠の火の前に立った。周囲には一連の壁が光を反射して立ち、第二次世界大戦中、この島で命を落とした 24万人の名前が刻まれていた。その日、法王は何度も、アメリカ人やイギリス人の兵士の名が日本人とともに壁に刻まれていることを称賛した。なぜなら、彼らもまた、日本人と同じように苦しんだ一人の人間だったからだ。

 この合葬の理由について、日本には御霊信仰があって、非業な死を遂げた死者は祀らないと祟りをなすから、日本人はそれを恐れて敵を丁重に弔うのだと断言する、一知半解で、まるで林治波氏のように脳内な中国人が、そういえばいたな。自分の物差しで他人を計るべきではない。そういう人間は、自分の物差し以外に物差しがあること自体、そもそも理解できないのかもしれないが。

 沖縄平和祈念公園に集まった聴衆の輪の前で、法王はこう語った。
「人間の歴史の中には、利害の不一致は暴力や戦争によって解決できるという信念のようなものがありました。しかし20世紀の後半、ベルリンの壁は、暴力ではなく民衆の平和的運動によって崩壊しました」。それに、暴力による方法は、常に予測できない結果を招くものである。法王はさらに、「日本は、核爆弾による苦しみを受けた唯一の国として、過去の大きな苦しみを踏まえ、平和運動の先頭に立つべきです」と語った。 

 事に処するにはよろしく現実主義者たらざるべからず。しかしなおかつ理想を忘るる勿れ。

(「2009年11月5日:沖縄訪問レポート」)