1936年―1937年の済州島と、そのほぼ30年後1965年の済州島での、二度の文化人類学的調査の結果を記録・比較・分析した研究。その間に、1950年代に行われた東京都某地区に居住する済州島出身者に対する調査報告が挟まっている。
外部からの民族的流入(朝鮮本土だけでなくモンゴル・雲南・日本)の結果としての文化的影響を重視する『済州島略史』(注1)とは異なり、本土(“陸地”)および広く北東アジア世界全体から眺めたうえでのそれらとの共通性を強く認める筆致である。たとえば前者が雲南(南中国もしくは東南アジア)からの影響と見なす柿染め技術およびその衣服(柿渋衣 kalot)を、泉氏は「柿渋をほどこす方法が、非常に類似している」ことを認めつつも、「もちろんこれのみをもって、済州島の kalot は南シナから伝播したものであるとはいえない」(注2)と、慎重な態度をくずさない。
注1。金泰能著、梁聖宗訳、新幹社、「耽羅叢書 1」、1988年2月。
注2。「第一部 済州島民族誌」「第二章 村落の研究」「第一節 住民と歴史」、本書35頁。ちなみにこの第一部は1936-37年の調査資料に基づく部分である。
よくいわれるモンゴル(元)の影響だが、このことについても、氏はそれは“陸地”においても見られた現象でもあり、あまり過大に考えるべきではないとする。
朝鮮陸地にあっては、元の文化は衣服、弁髪、馬具などにとくにみられ、その風俗に及ぼした影響大なるものがあった。もちろん済州島においても幾分かの影響は認められるが、俗説において信ぜられているほど甚大なものではいようである。 (同上、本書34-35頁)
これにつづけて氏は“俗説”で言われる具体的な例(獣皮製の衣服、皮鞋、碾磑、乗馬用の鞍、村の入り口に立てられている石像〔トルハルマン〕、牧童の牛馬追いの歌など)を挙げて、このうち乗馬用の鞍を除いては、明らかに元よりのみという特徴を認めがたいとする。そのうえで、
いずれにせよこの島の習俗が陸地とはことなっていることは事実だが、蒙古文化の影響がさほど強いとは思われない。 (同上、本書35頁)
と、結論されている。つまりはことなっている所以はわからないということである。だがこれがまさに学問的・科学的立場というものであろう。
氏の文化人類学者としての出発点となった済州島調査は、漢拏山で一緒に登山した山岳部の友人を失うという、個人的な体験に基づく、どちらかといえば感情的なものがそのきっかけであったにもかかわらず。また第三部にあたる「済州島における三十年(一九六五年現在)」では済州島四・三事件のことにも躊躇なく触れているが、一切の政治的発言をなさずその時点で入手し得た情報に基づく事実経過の叙述に徹している。ゲリラ側による島の官民の殺害についても、その逆の場合同様、冷静に記しておられる。
以下が、文中さりげなく示される氏の事態に対する判断である。
済州島のおそるべき悲劇も、済州島出身でしかも日本で教育を受けた進歩主義者と、そのころ警察署長をはじめ警官の多数ならびに町の与太者を含む西北青年隊との対立からはじまったもので、かならずしも共産党の指導によるものではなかった。そして、済州島の歴史と文化が物語っている、強い地方主義が全島民をあげて、島出身の進歩主義者を支持させることになったのである。 (281頁)
(東京大学出版会 1966年5月)
外部からの民族的流入(朝鮮本土だけでなくモンゴル・雲南・日本)の結果としての文化的影響を重視する『済州島略史』(注1)とは異なり、本土(“陸地”)および広く北東アジア世界全体から眺めたうえでのそれらとの共通性を強く認める筆致である。たとえば前者が雲南(南中国もしくは東南アジア)からの影響と見なす柿染め技術およびその衣服(柿渋衣 kalot)を、泉氏は「柿渋をほどこす方法が、非常に類似している」ことを認めつつも、「もちろんこれのみをもって、済州島の kalot は南シナから伝播したものであるとはいえない」(注2)と、慎重な態度をくずさない。
注1。金泰能著、梁聖宗訳、新幹社、「耽羅叢書 1」、1988年2月。
注2。「第一部 済州島民族誌」「第二章 村落の研究」「第一節 住民と歴史」、本書35頁。ちなみにこの第一部は1936-37年の調査資料に基づく部分である。
よくいわれるモンゴル(元)の影響だが、このことについても、氏はそれは“陸地”においても見られた現象でもあり、あまり過大に考えるべきではないとする。
朝鮮陸地にあっては、元の文化は衣服、弁髪、馬具などにとくにみられ、その風俗に及ぼした影響大なるものがあった。もちろん済州島においても幾分かの影響は認められるが、俗説において信ぜられているほど甚大なものではいようである。 (同上、本書34-35頁)
これにつづけて氏は“俗説”で言われる具体的な例(獣皮製の衣服、皮鞋、碾磑、乗馬用の鞍、村の入り口に立てられている石像〔トルハルマン〕、牧童の牛馬追いの歌など)を挙げて、このうち乗馬用の鞍を除いては、明らかに元よりのみという特徴を認めがたいとする。そのうえで、
いずれにせよこの島の習俗が陸地とはことなっていることは事実だが、蒙古文化の影響がさほど強いとは思われない。 (同上、本書35頁)
と、結論されている。つまりはことなっている所以はわからないということである。だがこれがまさに学問的・科学的立場というものであろう。
氏の文化人類学者としての出発点となった済州島調査は、漢拏山で一緒に登山した山岳部の友人を失うという、個人的な体験に基づく、どちらかといえば感情的なものがそのきっかけであったにもかかわらず。また第三部にあたる「済州島における三十年(一九六五年現在)」では済州島四・三事件のことにも躊躇なく触れているが、一切の政治的発言をなさずその時点で入手し得た情報に基づく事実経過の叙述に徹している。ゲリラ側による島の官民の殺害についても、その逆の場合同様、冷静に記しておられる。
以下が、文中さりげなく示される氏の事態に対する判断である。
済州島のおそるべき悲劇も、済州島出身でしかも日本で教育を受けた進歩主義者と、そのころ警察署長をはじめ警官の多数ならびに町の与太者を含む西北青年隊との対立からはじまったもので、かならずしも共産党の指導によるものではなかった。そして、済州島の歴史と文化が物語っている、強い地方主義が全島民をあげて、島出身の進歩主義者を支持させることになったのである。 (281頁)
(東京大学出版会 1966年5月)