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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

「習近平副主席、鳩山首相と会談(更新)」 から

2009年12月15日 | 抜き書き
▲「CRI Online(日本語)」2009-12-14 22:09:03、翻訳者:Lin チェッカー:畠山。 (部分)
 〈http://jp1.chinabroadcast.cn/881/2009/12/14/147s151721.htm

 鳩山首相は、「習近平副主席の訪日は日中関係の発展に重要な意義を持つ。日本は歴史を正視する勇気を持ち、未来志向で日中関係を発展させたい」と述べ、「台湾問題では中国側の立場を尊重し、チベット問題は中国の内政だ」と重ねて表明し、日中双方は環境保護や気候変動への対応でさらに協力すべきだとの考えを示しました。 (太字は引用者)

 本当にこんなことを、このとおりの言葉遣いで言ったのか? だとすれば、これこそ亡国にして売国の所業である。むこうの台詞の鸚鵡返しではないか。

「胡錦涛国家主席、ウズベキスタン大統領と会見」 から

2009年12月14日 | 抜き書き
▲「CRI Online(日本語)」2009-12-14 09:36:21、翻訳:李軼豪。 (部分)
 〈http://jp1.chinabroadcast.cn/881/2009/12/14/144s151665.htm

 カリモフ大統領は、両国関係を高く評価し、両国関係の発展は両国または中央アジアの平和と安定にも重要な意義があると述べました。また、カリモフ大統領は「中国はウズベキスタンの最も信頼できる親友である。深刻かつ複雑な変動が進んでいる中、ウズベキスタンは中国と各分野での協力を強化したい」と述べ、「ウズベキスタンは『一つの中国』という政策を堅持し、台湾独立とチベット独立に反対する」と強調しました。
 
 「中国はウズベキスタンの最も信頼できる親友である」。それはそうだろう。「ウズベク民族」と「ウイグル(民)族」、ふたつの表裏一体の虚構を支持してくれるのだから。
 「ウズベキスタンは『一つの中国』という政策を堅持し、台湾独立とチベット独立に反対する」。これも当然だ。一つの中国イコール二つのトルキスタンあるいはばらばらの「イスラーム共同体」、すなわち一つのウズベキスタンである。

「政治、経済協力強化で一致 中国とトルクメニスタン」 から

2009年12月14日 | 抜き書き
▲「msn 産経ニュース」2009.12.14 08:23。 (部分)
 〈http://sankei.jp.msn.com/world/asia/091214/asi0912140825000-n1.htm

 トルクメニスタンは世界有数の天然ガス産出国。胡主席の訪問で中国とのエネルギー協力に弾みがつく見通し。ソ連時代以来トルクメニスタンの天然ガスをほぼ独占的に輸入してきたロシアの警戒感を呼ぶとみられる。

 理解に苦しむ。譬えていえばクレメンザのシマにハイマン・ロスがいきなり手を突っ込むようなものではなかろうか。それぐらいこの二者の間ではルール違反ではないかという話。

「天皇会見、いったん困難と伝達 小沢氏訪中控え転換か」 から

2009年12月14日 | 抜き書き
▲「47 NEWS」2009/12/14 08:37、共同通信。 (部分)
 〈http://www.47news.jp/CN/200912/CN2009121401000066.html

 関係筋によると、複数の中国当局者は11月下旬から今月上旬にかけて、会見には1カ月前までの正式申請が必要となる「1カ月ルール」を守らなかったことを認めながらも「日本政府が中日関係の大局に立ち、会見を実現するよう期待する」と特例的な措置を求め続けた。

 それとも対米関係において一切「大局に立」った「特例的な措置」を認めていないというのなら別だが。
 これは、隣国間のテクニカルな問題であると見なすべきだろう。
 この問題を中国の特有の“面子”の問題だけに収斂してしまうと、一種ステレオタイプな中国観に絡め取られてしまうことになる。なぜなら日本にも面子はあるからだ。米国にもある。'save face'、'lose face'という表現がなによりもそのことを物語る。むろんそのありかたは各国それぞれ違っているが。
 あたりまえのことだが、陛下のご体調が本当にそれを許さないのであれば、もちろんやるべきではない。

濱田正美 「モグール・ウルスから新疆へ 東トルキスタンと明清王朝」 を読んで

2009年12月12日 | 思考の断片
 『岩波講座 世界歴史』 13 「東アジア・東南アジア伝統社会の形成」(岩波書店 1998年8月、97-119頁)所収。

 いつ始まることか確定はできぬが、すくなくともモンゴル帝国のある時期以降、ウイグルという名詞は仏教徒一般を指す用語となった。〔略〕もとの「西ウイグル国」の領域の「ウイグル人」も、仏教徒であるかぎりにおいて自らを「ウイグル」と認識し、また他者からもそうみなされていたと考えられる。従って、イスラームに改宗すれば彼はもはやムスリムであり、「ウイグル」ではありえなかった。完全にイスラーム化したトゥルファン、ハミ領域からウイグルという名称が消えたのはこのためである。ついてながら、ウイグル・バフシということばも単に仏僧を意味したのであって、ティムール朝の大詩人、アリー・シール・ナヴァーイーの祖先がウイグル・バフシであったという記録は、必ずしも積極的に彼の「民族的出自」を証言するものではない。 (注(2) 本書118頁)

 民族的出自を決定する際、二種類のアプローチがある。ひとつは、どこの国の法律の下に生きているかである。たとえばローマ法の下に毎日を暮らしていればローマ人といったように。その他、言語や風俗、人種など、客観的で外面的な尺度で判断する、これはヨーロッパ的な基準である。もうひとつは、自分は何者かという、主観的な自己認識である。これは東洋(ひじょうにおおざっぱな言い方だが)の基準である。たとえば中国の民族識別工作は、基本的に自己申告制で、まさしくこの基準に基づいて行われたものである。第三者が勝手に判断するのではなく、本人の意向を尊重する点に限っていえば、後者のほうが前者よりも優れていると言えるだろう。
 ソ連の民族境界画定工作は、それとは反対に前者の思想の上に立って行われたものである(とくに言語を重視した)。そして、こんにちのソ連領中央アジアの民族問題の原因のかなりの部分が、この、まったくといっていいほど本人たちの帰属意識を考慮しなかった、旧ソ連による民族境界画定とそれにもとづく国家(カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン)の樹立と国境の設定にあるのだが、ソ連崩壊後の新生中央アジア=西トルキスタンの国々が、旧ソ連の決めた基準とそれによって生み出された「国民国家」の枠組みと国民の帰属意識――ここには汎トルコ主義・汎ムスリム主義・ペルシア文明の破壊による分割統治および相互の反目対立の醸成という、きわめて政治的な目的もあった(注①)――を、そのまま守り、守るだけでなくさらにそれを強化しているようにさえ見えるのは一種の奇観である。

 モグール〔モグーリスタン・ハーン国〕の攻勢の前に、嘉峪関外のイスラームを受容しなかった諸集団は陸続として甘粛へ流入した。これが、現在もこの地方が極めて複雑な民族組成を有する主な理由であると考えられる。ハミの仏教徒ウイグルは、ハミ衛〔衛は明朝時代の軍事組織の単位〕の都督であったエンゲ・ボラドに率いられて一五一三年に嘉峪に移住し、ついで粛州の東関(城壁の東側のアネックス)に定住した。おそらくこの時点以降、ハミ以西から仏教徒は姿を消し、同時にウイグルという名称も粛州近辺以外では忘れ去られた。 (同、102-103頁) (注②)

 そしてその東の東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)の高度の自治あるいは独立を目指す現代ウイグル人民族運動の人々も、かえってヨーロッパ式の民族識別基準に“退行”してしまっているように見える。伝統的な東アジアの民族意識では、自己認識が消えれば(あるいは変われば)、その人物は「~~人(族)」ではなくなるのである。この考え方でいけば、古代以来のウイグル民族は遅くとも16世紀には絶滅したのである。それだけではない。イスラム化したあともウズベク・カザフ・タジク・キルギスなど、部族の名称が残っていた西トルキスタンとはちがい、東トルキスタンでは、19-20世紀のみぎりまで、若干の例外を除き、みずからを「イスラム」の「どこの土地の者」としか自己を認識せず、「テュルク」であるというほかは、本来の民族の記憶がまったくといっていいほどなくなっていた(注③)。いまの「ウイグル人」の歴史とアイデンティティは人工的な記憶である(注④)。現代ウイグル人の民族運動はこの事実を認め、ここから新たに出発するべきではないか。いまさら19世紀風のナショナリズムを錦の御旗にするようであれば、おなじく19世紀ナショナリズムを振りかざす中華人民共和国を批判することはできないからだ。


 注① オリヴィエ・ロワ著 斎藤かぐみ訳 『現代中央アジア イスラム、ナショナリズム、石油資源』(白水社、2007年4月)、「第二章 ロシアに征服とソヴィエト化」。

 注② 彼らがハミから移住したとき、甘粛にはすでに、遊牧ウイグル帝国の瓦解後(8世紀半ば)にこの地に住み着いた甘州ウイグル(黄頭回鶻)がいた。現在の粛南ユグル族自治県および酒泉市黄泥堡裕固族郷に暮らす‎ユグル族(裕固族)のうち西部ユグル語を話す人々がその子孫ではないかと言われている。彼らは仏教徒(チベット仏教)およびシャーマニズムの信者である。彼らのうちかなりの部分が固有の言葉を忘れ漢語しか話せなくなっているが、中国は彼らをユグル族として登録・処遇している。

 注③ 羽田明 『中央アジア史研究』(臨川書店 1982年6月)、「第二章 清朝の東トルキスタン統治政策 第一節 序説――回部の起源――」、同書51頁。
 「この東トルキスタンの住民は最近まで何ら固有種族名も地域名ももたず――一九三四年、ウイグル(維吾爾)の族称採用まで――、稀にペルシア人に倣って彼らの言語をトルコ語と称した以外には、唯ムスルマン(回教徒)、ムスルマン・ハルク(回教徒民族)、ムスルマン・ユルティ(回教徒国)、ムスルマン・ティリィ(回教徒語)などというのが普通であった。」 (同頁)
 ちなみにこの第二章はもと、「異民族統治上から見たる清朝の回部統治政策」として『異民族の支那統治研究、清朝の辺境統治政策』(至文堂、1944年)に収録されたものである。

 注④ たとえば「World Uyghur Congress(世界ウイグル会議)」のサイト(英語)の「Brief History of East Turkestan」欄には、"Records show that the Uyghurs have a history of more than 4000 years in East Turkistan."(諸史料によれば、ウイグル人は東トルキスタンの地において4000年をこえる歴史を持つ)と書かれている。

中国の民族区域自治についての覚え書き

2009年12月12日 | 思考の断片
●「中華人民共和国民族区域自治法」(1984年5月31日)から

 辻康吾/加藤千洋編著 『原典中国現代史』 第4巻 「社会」(岩波書店 1995年4月)所収。

 民族区域自治は国の統一的指導のもとに、各少数民族が集中居住(以下「集居」という)する地方で区域自治を実行し、自治機関を設置し、自治権を行使させるものである。 (前文、本書75頁)

●周恩来 「わが国民族政策のいくつかの問題」(1957年8月4日) から

 毛里和子/国分良成編著 『原典中国現代史』 第1巻 「政治(上)」(岩波書店 1994年5月)所収。
 
 われわれはわが国の実際状況にもとづいて、実事求是で民族の区域自治を行う。この民族の区域自治は、民族自治と区域自治を正しく結びつけ、経済要素と政治要素を正しく結びつけたもので、集居している民族に自治権を享受させるだけでなく、雑居している民族にも自治権を享受させる。人口が多い民族から少ない民族、大集居している民族から小集居している民族まで、ほとんどすべてが相応の自治単位をもち、民族の自治権を享受する。 (『周恩来選集(一九四九年―一九七五年)』日本語版』より、本書176頁)

 周恩来のこの発言を見るかぎり、中国は民族区域自治制度によって、地域自治に文化的自治の要素を加味した制度の樹立を考えていたように思える。
 その背景には、ソ連とは比較にならない諸々の民族の拡散・雑居状況があった。

●李維漢 「民族工作におけるいくつかの問題について」(1961年9月)から

 毛里和子/国分良成編著 『原典中国現代史』 第1巻 「政治(上)」
(岩波書店 1994年5月)所収、「新疆ウイグル自治区幹部会議での講話」の注記あり。
 李維漢は「中共統一戦線部長」の肩書き。

 (九)(前略)わが国の条件では、区域自治の形態とし連邦制は適切でなく地方自治制を採るのがよい。わが国はソ連と次のような点が違う。(イ)〔略〕(ロ)十月革命前のロシアでは少数民族の人口は総人口の五〇%前後だが、われわれは六%しかいない。(ハ)ロシアでは少数民族は比較的集中し内部関係は比較的単純で密である。だがわが国では、すでに述べたように、ほとんどは漢族と雑居もしくは交錯雑居していたり、いくつかの少数民族が交錯雑居している。 (『民族研究』一九八〇年第一期より、本書183頁)

 中国の区域自治単位の多さが、その事情を如実に示している。そしてそれらのなかには、場所を異にしながら同一の民族の名を冠したものがあるほか、さらには民族名を冠していないが事実上少数民族の自治単位になっているものも存在する。

 しかし中国の少数民族政策には重大な欠陥があるといわざるをえない。

●「中華人民共和国民族区域自治法」(1984年5月31日)から

 辻康吾/加藤千洋編著 『原典中国現代史』 第4巻 「社会」(岩波書店 1995年4月)所収。

 民族区域自治は、わが国の民族問題をマルクス・レーニン主義を運用して解決しようとする中国共産党の基本的政策であり、国家の重要な政治制度である。 (前文、本書75頁)

 ここから、民族問題は階級問題であるとか、社会主義の発展にしたがい経済が発展すれば民族問題は自然になくなるという単純な理解と発想が出てくるのであろう。その典型が、以下の汪鋒の「民族融合」発言である。

●汪鋒 「少数民族工作についての報告」(1959年1月16日)

 毛里和子/国分良成編著 『原典中国現代史』 第1巻 「政治(上)」(岩波書店 1994年5月)所収。
 汪鋒は「民族事務委員会副主任」の肩書き。

 わが国における諸民族間の接触はますます増え、関係はいよいよ密になり、その結果民族の共通性もますます増え、違いはますます減り、民族融合の要素が育ってきている。民族融合は歴史発展の必然的趨勢であり、この趨勢をわが国の諸民族人民は熱烈に歓迎し、積極的に促していかなければならない。 (本書179頁)

 民族融合とは漢民族による少数民族の同化にほかないが(事実汪鋒も途中、「民族融合あるいは同化」と言い換えている)、汪鋒は、同化には二種類あって、「社会主義革命と社会主義建設を通じて」各民族が政治・経済・文化的に発展するなかでの「自然な融合」は、「強制的同化」ではなく「歴史発展の必然の法則」であるから「歓迎」しなければならないとした。
 ここには、諸民族の自己認識の強度や、その基づく各民族の文化的・社会的な性格の特質や、そしてそれらの差異がもたらす民族間の矛盾に対する認識が非常に甘いか、まったくない。

山内昌之 『スルタンガリエフの夢』 から

2009年12月11日 | 抜き書き
 スルタンガリエフ主義者〔ムスリム民族共産主義・文化的民族自治論者〕たちは、ロシア共産党を「赤色帝国主義の参謀本部」はては「東方勤労者の敵」とさえ呼ぶにいたった。ロシア人ボリシェビキは、「単一にして不可分のロシア」をおしつけるために、エスニック集団の枠をこえた共通意識を消滅させようとしてムスリム共同体を分割し、多くの「民族」を人為的につくりだしムスリムが団結する基盤を根こそぎ大なしにしてしまった。これにはムスリム諸民族の政治・経済・文化の発展を阻げる意図も含まれていた。 (「第五章 スルタンガリエフ主義,神話と現実 第二節 『反革命』」 本書321-322頁)

 これをソ連の「民族境界画定工作」という。
 このほか、ムスリム世界内での広域商業に従事して同胞がロシア全土および周辺地域に散在していたタタール人には、地域自治ではなく文化的自治でなければならない事情と必然性とがあった。

(東京大学出版会 1986年12月初版 1990年5月第6刷)

中国の冊封体制はすでに復活しているかもしれない(半分冗談)

2009年12月11日 | 思考の断片
▲「人民網日本語版」09:46 Dec 11 2009「胡錦濤主席、日本の民主党代表団と会談」
http://j1.peopledaily.com.cn/94474/6839270.html
 
 朝貢使。

▲「人民網日本語版」09:47 Dec 11 2009、「習近平副主席が日本、韓国、カンボジア、ミャンマー歴訪へ」
 〈http://j1.peopledaily.com.cn/94474/6839273.html

 答礼使(および勅使)。

 冊封体制に入って、国として存在を認めて貰っているから「会談(中国語では会見)」してもらえるのである。中国から使者も(それも高位の)、派遣されるのだ。これがたとえば「チベット亡命政府」のような相手だと、まったく相手にされないか、会ったとしても「接見」になる。まつろわぬ夷狄を「接見」する者の「官品」がめっきり下るのも定石どおりといえば定石どおりだし、答礼使などもちろん送られないのもそう。

丸山鋼二 「カラハン王朝と新疆へのイスラム教の流入──新疆イスラム教小史 ①」

2009年12月11日 | 東洋史
http://www.bunkyo.ac.jp/faculty/lib/slib/kiyo/Int/it1802/it180204.pdf

 カラハン朝(9世紀中頃 - 1212年)のサトゥク・ボグラ・ハンがどうして現代ウイグル族の民族の偉人になるのであろう。カラハン朝はカルルク族の国ではないか。
 よしんばサトゥク・ボグラ・ハン自身はウイグル族であったとしても、それは古代の遊牧ウイグルであって、現代のウイグル人とは、民族的にも言語的にも直接に関係はない。これが関係あるというなら、北条早雲の後北条氏も鎌倉の執権北条氏の裔であると言っても構わぬということになろう。ありていに言えば現代ウイグル人は古代ウイグル人(遊牧ウイグル)の名を冒しただけのことである。 
 ただし、東トルキスタンのムスリムの聖者あるいは東西トルキスタンのテュルク族にとっての歴史上の英雄としてなら、わかる。
 この意味で、おなじカラハン朝の王族でも、マフムード・カーシュガリーを現代ウイグル族の文化的な英雄とするのは、まだしも筋が通っている。彼は『テュルク諸語集成』を編纂して、語彙の収集と整理、そして言語の洗練を通じて、当時の中央アジア社会でおそらくはやみくもに進みつつあったテュルク化に規範を与え、さらには、辞書というよりも事典・それも百科事典というべきこの書によって、当時のテュルク系民族の生活や習俗を後世へ伝えたからだ。彼はテュルク族全体にとっての文化的恩人である。そのなかにはもちろん、現代ウイグル人も含まれている。
 ところで、この論文のなかで、1080年に死んだそのカーシュガリーの墓が1980年代になって発見されていたと知って、驚いた。さしづめ太安万侶(823年没)の墓が1979年に見つかったようなものであろうか。

(『文教大学国際学部紀要』第18巻2号 2008年1月)

斎藤成也 「遺伝子からみた東ユーラシア人」 から

2009年12月11日 | 抜き書き
 〈http://www.geog.or.jp/journal/back/pdf111-6/p832-839L.pdf

 春秋戦国時代(約2500年前)および前漢時代末期(約2000年前)の臨淄(山東省)の遺跡から出土した人骨標本についてミトコンドリアDNA の塩基配列を測定したところ、春秋戦国時代中期のそれは,明確にヨーロッパ集団と近い関係となっていたという。
 さらには、前漢末期の人骨の測定結果は、現代東アジアから離れて、中央アジアの集団の中に入り込んでいた。論文中には遺伝的近縁図が「図5」として作成・添付されているが(「中国の春秋戦国時代および前漢末期の2 集団と現代集団間の遺伝的近縁関係を近隣結合法を用いて描いたもの」)、驚きである。なるほどそれで孔子は長人(のっぽ)と呼ばれたわけか。

 いろいろな解釈がありえるだろうが,当時の中国には,現在とは遺伝的にかなり異なる人々があちこちに移り住んでいた可能性がある。もっとも,ミトコンドリアDNA というひとつの遺伝子だけの結果であり,また地域も限られているので,中国全体にあてはまることかどうかは,今後の研究の進展にかかっている。 (「V.東ユーラシア人の古代DNA」)

(『地学雑誌』111(6) 832―839 2002)