「Wikipedia」(English)。
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http://en.wikipedia.org/wiki/Foreign_relations_of_Imperial_China〉
Later on, in 1665, when Russian explorers met the Manchus in what is today northeastern China. Using the common language of Latin, which the Chinese knew from Jesuit missionaries, the Chinese emperor and Russian tsar negotiated the Treaty of Nerchinsk in 1689, which delineated the border between Russia and China, some of which exists to this day. In some ways, this treaty was a turning point. Russia was not dealt with through the Ministry of Tributary Affairs, but rather through the same ministry as the problematic Mongols, which served to acknowledge Russia's status as a nontributary nation. From then on, the Chinese worldview of all other nations as tributaries began to unravel. (太字は引用者)
前半分はそのとおりだと思うし、後世から見てネルチンスク条約が中国の伝統的な世界観が転回するターニングポイントだったという評価も、正しいだろう。しかしロシアが礼部ではなく理藩院管轄であった事実が、清朝がロシアを朝貢国扱いしていなかった証拠とするのはどうか。単純に、礼部は東から東南、理藩院は西から西北にかけての方面を担当していたためとみるべきではないか。たしかに、ネルチンスク条約は、ラテン語の正文は当時の国際法(一般国際法)に依拠した、平等と互恵の原則に基づく完全に対等な二国間条約となっている。しかし国内向けに作成された漢文版では、内容は伝統的な属国向けの語彙と文脈に直され、完全な朝貢国(藩部)に対する諭旨の内容へと改変された。たとえば「両国」という言葉はことごとく消されるか、「すべて」あるいは「中国と」といった別の言葉に置き換えられた。さらには、国境画定に関わる条項ほかで、全文あるいは部分的に条文が削除された。要するに、当時の中国内部においては、情況は何も変わらなかった。
もちろん、条約締結の中国側の当事者であった康煕帝は、正文であるラテン文の内容を知悉していた(条約は満洲語版も作られた。吉田金一氏によれば、ほぼ正確な翻訳であるという)。だがこの事実は、当局者は別として100年以上後の嘉慶帝の時代に至るまで、一般には知られることがなかった。
それどころか、ネルチンスク条約締結から200年近くが経過した咸豊帝の時代になると、清の政府官僚でさえ、康煕帝の次の雍正帝の時代にロシアへ使臣を送った史実を忘れていた。遣使の記録がある時期を境に政府の一切の関係文書から抹消されたためである(雍正帝の次、乾隆帝の時代。清の極勢期)。天朝が藩部に使者を送るなど――二度も、そしてその天朝の使者が蛮夷の首長に向かって叩頭したなど――、あってはならぬというのが、その理由だったらしい。
参考:吉田金一 『近代露清関係史』 (近藤出版社、1974年10月)