同名の「生きている人と死んだ人」(『文藝春秋』1986年11月掲載)を読む。雑誌が出た時に読み、単行本になった時も早速買って読んだ。1986年といえばまだ私は二十代半ばである。しかしもともとこの人の文章とのつきあいは十代からだ。十代からこの人の作品に親しんでいると、深甚な影響を受ける。この人は生者と死者を区別しない。私もそうなった。もともとそんな性格だったのか、それともこの人の影響でそうなったのかはわからない。
ただ私の場合、氏とは違って人生のアルバイトでも浮世の傍観者でもない。私は、どちらかといえば死者のほうをより好む。死者の知己の増えるのは大歓迎だが、生きた人間の知己がこれ以上増えるのはできるだけ御免蒙りたい。立派な友人、尊敬すべき知人ならすでに十分に持っている。死んだ人間はこちらから話しかけないかぎり何も言わないけれど、生きた人間は、こちらの都合に委細かまわず的はずれの下らぬことばかり言ってくるのが大抵である。うるさくて邪魔である。いまの私はまあ人間嫌いの部類に属するだろう。とすれば隠者か。しかしあちら側から見ればダメの人であることは氏と同じか。
(文藝春秋 1988年11月)
ただ私の場合、氏とは違って人生のアルバイトでも浮世の傍観者でもない。私は、どちらかといえば死者のほうをより好む。死者の知己の増えるのは大歓迎だが、生きた人間の知己がこれ以上増えるのはできるだけ御免蒙りたい。立派な友人、尊敬すべき知人ならすでに十分に持っている。死んだ人間はこちらから話しかけないかぎり何も言わないけれど、生きた人間は、こちらの都合に委細かまわず的はずれの下らぬことばかり言ってくるのが大抵である。うるさくて邪魔である。いまの私はまあ人間嫌いの部類に属するだろう。とすれば隠者か。しかしあちら側から見ればダメの人であることは氏と同じか。
(文藝春秋 1988年11月)