坂田吉雄編『明治維新史の問題点』(未来社 1962年4月)所収、同書19-118頁。
本稿では直接に論じられてはいないものの、読後、あらためて、横井小楠の思索において「理」とは何を意味したかが気になった。なぜ横井は『大学』の「明明徳新(親)民」(注1)を、「明徳を明かにし、そうすれば次いで民を新たにできる」の通説の解釈を取らず、無理な「民を新たにするために明徳を明かにする」と解釈しようとしたのか(注2)。
注1。大學之道,在明明,在親民,在止於至善。
大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民を親(あら)たにするに在り、至善に止まるに在り。(維基文庫『大学章句』)
注2。文法的には、「明明」「在親民」「止於至善」の三者はすべて並立の関係にあり、その間になんらの時間的前後関係も因果関係も認められない。
ほか注目したのは、神田孝平の存在が重視されている点である。その高評価の理由は、彼が幕末蕃書調所で西洋数学を教えていた事実と、また洋学者として、日本近世思想史のなか、実学史の分野において、重要な位置を占めるという判断による。
さらには、加藤弘之さえもが、「学問の目的」(『加藤弘之講演全集』3所収)において真理の探究そのものに価値を置く学問観を表明していることにより、著者の実学史において高い席次を与えられていることが驚きであった。
本稿では直接に論じられてはいないものの、読後、あらためて、横井小楠の思索において「理」とは何を意味したかが気になった。なぜ横井は『大学』の「明明徳新(親)民」(注1)を、「明徳を明かにし、そうすれば次いで民を新たにできる」の通説の解釈を取らず、無理な「民を新たにするために明徳を明かにする」と解釈しようとしたのか(注2)。
注1。大學之道,在明明,在親民,在止於至善。
大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民を親(あら)たにするに在り、至善に止まるに在り。(維基文庫『大学章句』)
注2。文法的には、「明明」「在親民」「止於至善」の三者はすべて並立の関係にあり、その間になんらの時間的前後関係も因果関係も認められない。
ほか注目したのは、神田孝平の存在が重視されている点である。その高評価の理由は、彼が幕末蕃書調所で西洋数学を教えていた事実と、また洋学者として、日本近世思想史のなか、実学史の分野において、重要な位置を占めるという判断による。
さらには、加藤弘之さえもが、「学問の目的」(『加藤弘之講演全集』3所収)において真理の探究そのものに価値を置く学問観を表明していることにより、著者の実学史において高い席次を与えられていることが驚きであった。