書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

小島一念 「日本新聞に於ける正岡子規君」

2014年06月08日 | その他
 『子規全集』別巻二「回想の子規」(講談社 1975年9月)同書199-223頁所収。

 文中、子規が「口癖のやうに」、「野心のない人間ほど始末の悪いものはない」と「友人門人を刺撃して居つた」という証言をおもしろく思った(223頁)。
 これは西郷の「命ちもいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの也。此の仕抹に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」(『南洲翁遺訓』)と似て、而して文脈からして意味は全然正反対のものである。一念は子規のこの言葉をもって「君が人格の一面を見るの参考に資する事が出来るであろう」と付言している。そうかもしれない。それもやや意外なる一面。

胡適 「荷澤大師神會傳」

2014年06月08日 | 伝記
 『胡適作品集』16「神會和尚傳」(遠流出版公司 1986年7月)。もと『胡適文存』第四集第二巻http://enlight.lib.ntu.edu.tw/FULLTEXT/JR-AN/an16103.htm。「南遊雑憶」附。

 胡適はこのなかで、神会の思想を解説する体裁で「道教の『自然』と仏教の『因縁』は同じである(道家所謂自然和佛家所謂因緣同是一理)」と言っているのだが(136頁)、この解釈は正しいのか。

伯慧著/樋口靖訳 『現代漢語方言』

2014年06月08日 | 人文科学
 言語と方言の区別の基準が主観的である。

 1)異なる地域に分布すること
 2)同じ古い言語が発展した結果たること
 (「第一章 方言と方言学」「一 方言とはなにか」本書8-9頁)

 では、普通話と広東語の関係とフランス語とドイツ語の関係との弁別ができない。
 さらにその主張の根拠として「スターリンがこう言っているから」というのは、根拠たりえない。
 あとこの問題に関して、方言・言語を区別する際の客観的基準たりえる相互理解可能性についての言及・評価――なぜとりあげないかの理由――がまったくないのは、論者の説得力を著しく減じると同時に、都合の悪い事実は無視するのかといった極めて良くない印象を読者に与えて、一個の主張として致命的な失点であると思う。

(光生館 1983年5月)