主として『正教真詮』を読む。
この書は、劉智の『天方性理』のような融和的な書ではなく、きわめて論争的あるいは攻撃的な著作なので、イスラームのみこそが正しい真理の教え(正教)であるという立場から、一歩も譲らない。儒教はその妥当性を有すると認める部分については肯定するものの、あくまでイスラームよりも下級の教えであるとしている。
王岱輿は、この『正教真詮』のなかで、「理無二是 、必有一非」と言う(「似真」)。昊天(天)と上帝は別のものなのか、それとも同一のものなのかという問題において、場合によって説が異なる儒教経典の矛盾を衝いた言葉である。
ここでの「理」は真理の意味らしい。
だがこれは「創造者は一つだけのはずだ」という彼のイスラム教徒としての(真)理である。すなわちこの批判は彼のドグマから来るものであるから、純粋な矛盾律の発動とはいえないところがある。
それはさておき、王は、さらにそのドグマの言を進めて、この点において儒教(主として宋学)に真理はないと断じるのである。昊天と上帝も、そして理も、いずれもが、真主もしくは真一(アッラー)ではない以上、つまりその被創造物(数一)でありそれにしかすぎないからである。中国の伝統的形而上諸観念は、超越的審級といえども真一の下位に属するそれでしかないと(注)。
注。堀池信夫『中国イスラーム哲学の形成 王岱輿研究』(人文書院 2012年12月)、「第三章 王岱輿研究」、179頁を参照。
理は事の先に出づると雖も、然れども自立すること能わず。是の故に太極は乃ち真主の立つる所の天地万物の理にして、而る後、天地万物の形を成すなり。凡そ此の理に達する者は、必ず天地万物の原種を以て天地万物の原主に当てざるなり。(本書「似真」章。読み下しは堀池信夫氏のそれによる)
(寧夏人民出版社 1887年9月)
この書は、劉智の『天方性理』のような融和的な書ではなく、きわめて論争的あるいは攻撃的な著作なので、イスラームのみこそが正しい真理の教え(正教)であるという立場から、一歩も譲らない。儒教はその妥当性を有すると認める部分については肯定するものの、あくまでイスラームよりも下級の教えであるとしている。
王岱輿は、この『正教真詮』のなかで、「理無二是 、必有一非」と言う(「似真」)。昊天(天)と上帝は別のものなのか、それとも同一のものなのかという問題において、場合によって説が異なる儒教経典の矛盾を衝いた言葉である。
ここでの「理」は真理の意味らしい。
だがこれは「創造者は一つだけのはずだ」という彼のイスラム教徒としての(真)理である。すなわちこの批判は彼のドグマから来るものであるから、純粋な矛盾律の発動とはいえないところがある。
それはさておき、王は、さらにそのドグマの言を進めて、この点において儒教(主として宋学)に真理はないと断じるのである。昊天と上帝も、そして理も、いずれもが、真主もしくは真一(アッラー)ではない以上、つまりその被創造物(数一)でありそれにしかすぎないからである。中国の伝統的形而上諸観念は、超越的審級といえども真一の下位に属するそれでしかないと(注)。
注。堀池信夫『中国イスラーム哲学の形成 王岱輿研究』(人文書院 2012年12月)、「第三章 王岱輿研究」、179頁を参照。
理は事の先に出づると雖も、然れども自立すること能わず。是の故に太極は乃ち真主の立つる所の天地万物の理にして、而る後、天地万物の形を成すなり。凡そ此の理に達する者は、必ず天地万物の原種を以て天地万物の原主に当てざるなり。(本書「似真」章。読み下しは堀池信夫氏のそれによる)
(寧夏人民出版社 1887年9月)