2010年10月29日「ラヒムジャーノフ 『カシモフ・ハーン国(1445-1552)歴史概論』①」より続き。
一五七五年、イヴァン四世はモスクワにシメオン・ベクブラトヴィッチなる人物を迎えてツァーリの位につけ、自分はこれに臣事して、翌年あらためて譲位を受けてツァーリとなった。このシメオン・ベクブラトヴィッチは、黄金のオルドのハーン位をクリム〔タタル〕に奪われ、カシモフに移り住んでモスクワ大公の保護を受けた「最後の大ハーン」アフメドの曾孫だった。/この手続きによって、モスクワ大公は黄金のオルド〔キプチャク・ハーン国〕の継承者の一人となり、ジョチの後裔たちを支配する権利を得た。イヴァン四世自身、父方ではドミートリー・ドンスコイの嫡孫であるが、母方ではその敵手ママイの血を引いていた。モスクワのツァーリは、ラテン語で「白い皇帝」と自称し、東方のモンゴル族から「白いハーン」(チャガン・ハーン)と呼ばれた。ロシア帝国も、その出発点は、モンゴル帝国の継承国家だったのである。 (宮脇淳子『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』刀水書房、2002年9月、「第8章 ロシアと清朝の台頭」 同書165頁)
つまり、シメオン・ベクブラトヴィッチ(サイン・ブラト)は、カシモフ・ハーン国のハーンの子孫あるいはハーンそのものなのである。
イヴァン4世(雷帝)は、直接にはカシモフ・ハーン国のハーンの禅譲を受けることによって、その母体であるカザン・ハーン国、さらにその母体であるところの黄金のオルド(キプチャク・ハーン国)の正当な継承者であるという口実と正当性を得た。
しかし、黄金のオルド=ジョチ・ウルスは、すなわちチンギス・ハーンの長男ジョチと彼の息子たちが築いたものであり、そのハーンには、基本的に、チンギス・ハーン(実質的にはジョチ)の男系子孫でなければなれなかった。
イヴァン4世は上の宮脇氏の指摘にもあるとおり、血統的には黄金のオルドの実力者であったママイの血を引いていた。しかしそれは母方の血筋(グリンスキー家)を通じてであった。さらにいえばそのママイもチンギス・ハーンの男系子孫ではなかった。
だから、のち「白いハーン」(チャガン・ハーン)と名乗っていたものの、ハーンとしてのロシア皇帝は、チンギス・ハーンの男系子孫が立派に続いていた東方では、諸ハーンからは格下として見られたように思える。例えば17世紀モンゴル(外モンゴル)ハルハ部のアルタン・ハーンがどうもそうであったし、そのモンゴルの大ハーンでもあった清朝皇帝(ボグド・ハーン)などは、明らかにロシア皇帝=チャガン・ハーンを見下していた。モスクワ大公国を継いだロシア・ツァーリ国、次いでロシア帝国との関係を管掌したのは、はじめ蒙古衙門、のち改編されて理藩院であるが、ここはその名の示す通り、清朝における藩(のちの藩部と属国=朝貢国の両方を指す)を統括する官庁である。清朝の公文書(『清実録』、そしてそれに基づく『清史稿』や『清朝柔遠記』)では、ロシア皇帝は、1861年の総理衙門設置まで、「鄂羅斯(オロス)の察漢汗」などと呼ばれて、完全にモンゴル・トルコ族の一派・朝貢国扱いだった。
もっとも実際の交渉においては、対等国としての扱いだったのであるが(少なくとも初期から中期にかけては)、国内的には(あるいは漢語世界においては)、終始一貫して藩部扱いされていた。
(Казань: Татарское книжное издательство, 2009)
一五七五年、イヴァン四世はモスクワにシメオン・ベクブラトヴィッチなる人物を迎えてツァーリの位につけ、自分はこれに臣事して、翌年あらためて譲位を受けてツァーリとなった。このシメオン・ベクブラトヴィッチは、黄金のオルドのハーン位をクリム〔タタル〕に奪われ、カシモフに移り住んでモスクワ大公の保護を受けた「最後の大ハーン」アフメドの曾孫だった。/この手続きによって、モスクワ大公は黄金のオルド〔キプチャク・ハーン国〕の継承者の一人となり、ジョチの後裔たちを支配する権利を得た。イヴァン四世自身、父方ではドミートリー・ドンスコイの嫡孫であるが、母方ではその敵手ママイの血を引いていた。モスクワのツァーリは、ラテン語で「白い皇帝」と自称し、東方のモンゴル族から「白いハーン」(チャガン・ハーン)と呼ばれた。ロシア帝国も、その出発点は、モンゴル帝国の継承国家だったのである。 (宮脇淳子『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』刀水書房、2002年9月、「第8章 ロシアと清朝の台頭」 同書165頁)
つまり、シメオン・ベクブラトヴィッチ(サイン・ブラト)は、カシモフ・ハーン国のハーンの子孫あるいはハーンそのものなのである。
イヴァン4世(雷帝)は、直接にはカシモフ・ハーン国のハーンの禅譲を受けることによって、その母体であるカザン・ハーン国、さらにその母体であるところの黄金のオルド(キプチャク・ハーン国)の正当な継承者であるという口実と正当性を得た。
しかし、黄金のオルド=ジョチ・ウルスは、すなわちチンギス・ハーンの長男ジョチと彼の息子たちが築いたものであり、そのハーンには、基本的に、チンギス・ハーン(実質的にはジョチ)の男系子孫でなければなれなかった。
イヴァン4世は上の宮脇氏の指摘にもあるとおり、血統的には黄金のオルドの実力者であったママイの血を引いていた。しかしそれは母方の血筋(グリンスキー家)を通じてであった。さらにいえばそのママイもチンギス・ハーンの男系子孫ではなかった。
だから、のち「白いハーン」(チャガン・ハーン)と名乗っていたものの、ハーンとしてのロシア皇帝は、チンギス・ハーンの男系子孫が立派に続いていた東方では、諸ハーンからは格下として見られたように思える。例えば17世紀モンゴル(外モンゴル)ハルハ部のアルタン・ハーンがどうもそうであったし、そのモンゴルの大ハーンでもあった清朝皇帝(ボグド・ハーン)などは、明らかにロシア皇帝=チャガン・ハーンを見下していた。モスクワ大公国を継いだロシア・ツァーリ国、次いでロシア帝国との関係を管掌したのは、はじめ蒙古衙門、のち改編されて理藩院であるが、ここはその名の示す通り、清朝における藩(のちの藩部と属国=朝貢国の両方を指す)を統括する官庁である。清朝の公文書(『清実録』、そしてそれに基づく『清史稿』や『清朝柔遠記』)では、ロシア皇帝は、1861年の総理衙門設置まで、「鄂羅斯(オロス)の察漢汗」などと呼ばれて、完全にモンゴル・トルコ族の一派・朝貢国扱いだった。
もっとも実際の交渉においては、対等国としての扱いだったのであるが(少なくとも初期から中期にかけては)、国内的には(あるいは漢語世界においては)、終始一貫して藩部扱いされていた。
(Казань: Татарское книжное издательство, 2009)