正義のために本当に戦おうとする者は、たとえ少しの間でも生きながらえようとするならば、公的に活動するのではなく、私的なかたちで活動せざるをえないからです。 (「ソクラテスの弁明」三嶋輝夫訳、本書56頁)
皆さんの一人一人に対して、自分が最も優れた思慮に満ちた人間となるように自分そのもののあり方に配慮するよりも前に、自分に附随するような利益を顧慮することがないように、また国家そのもののあり方に関心を寄せるよりも先に現にある国家の利益を図ることのないように、さらにはそれ以外のことに対してもそれと同様の仕方で配慮すべきであると私は努めてきたのです。このような人間である私は、いったいどのような目にあうのがふさわしいのでしょうか。 (同、本書69-70頁)
すなわち、今や私は皆さんによって死罪を負わされ、かれら〔ソクラテスの告発者たち〕は真理によって邪悪さと不正の罪を負わされてこの場を去るのです。そして私もかれらも、ともに刑に服することでしょう。おそらく、それはそうなるべくしてそうなったのでしょうし、それはそれで結構だと思います。 (同、本書77頁)
「無知の知」を認めればおのれの立つ瀬が無くなる名聞乞食の似非知識人がソクラテスを訴え、「無知の知」を理解できない素朴迂闊な一般大衆が彼に死刑の判決を下した。
ソクラテスは、「正義(ただ)しく生きる」ことがすなわち「よく(幸福に)生きる」ことだとした。これには客観的な論証もなにもなくて、単にソクラテスの信念であるらしい(「『クリトン』解題」田中享英、本書185頁)。この信念のうえに有名な「いちばん大事にしなければならないのは正義(ただ)しく生きることである」という正義の原則が導かれるわけで、つまりこれは哲学的な定理でもなんでもない。好みの問題である。しかし私はこの好みを好む。しかし私の場合、ソクラテスとは違って、まだ殺されていないだけ、より幸福なのだろう。無視されたり、あるいはせいぜいのところ騙されて金を取られたり、著作物やアイデアを都合のいいところだけパクられたり、信用して物事を任せたら途中でほうりだされたうえに泣きつかれて尻ぬぐいをやらされたり、衆人環視のなかで「キチガイ」扱いされて辱められたりするくらいですんでいる。
(講談社学術文庫 1998年2月)
皆さんの一人一人に対して、自分が最も優れた思慮に満ちた人間となるように自分そのもののあり方に配慮するよりも前に、自分に附随するような利益を顧慮することがないように、また国家そのもののあり方に関心を寄せるよりも先に現にある国家の利益を図ることのないように、さらにはそれ以外のことに対してもそれと同様の仕方で配慮すべきであると私は努めてきたのです。このような人間である私は、いったいどのような目にあうのがふさわしいのでしょうか。 (同、本書69-70頁)
すなわち、今や私は皆さんによって死罪を負わされ、かれら〔ソクラテスの告発者たち〕は真理によって邪悪さと不正の罪を負わされてこの場を去るのです。そして私もかれらも、ともに刑に服することでしょう。おそらく、それはそうなるべくしてそうなったのでしょうし、それはそれで結構だと思います。 (同、本書77頁)
「無知の知」を認めればおのれの立つ瀬が無くなる名聞乞食の似非知識人がソクラテスを訴え、「無知の知」を理解できない素朴迂闊な一般大衆が彼に死刑の判決を下した。
ソクラテスは、「正義(ただ)しく生きる」ことがすなわち「よく(幸福に)生きる」ことだとした。これには客観的な論証もなにもなくて、単にソクラテスの信念であるらしい(「『クリトン』解題」田中享英、本書185頁)。この信念のうえに有名な「いちばん大事にしなければならないのは正義(ただ)しく生きることである」という正義の原則が導かれるわけで、つまりこれは哲学的な定理でもなんでもない。好みの問題である。しかし私はこの好みを好む。しかし私の場合、ソクラテスとは違って、まだ殺されていないだけ、より幸福なのだろう。無視されたり、あるいはせいぜいのところ騙されて金を取られたり、著作物やアイデアを都合のいいところだけパクられたり、信用して物事を任せたら途中でほうりだされたうえに泣きつかれて尻ぬぐいをやらされたり、衆人環視のなかで「キチガイ」扱いされて辱められたりするくらいですんでいる。
(講談社学術文庫 1998年2月)