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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

プラトン著 三嶋輝夫/田中享英訳 『ソクラテスの弁明・クリトン』

2010年10月11日 | 西洋史
 正義のために本当に戦おうとする者は、たとえ少しの間でも生きながらえようとするならば、公的に活動するのではなく、私的なかたちで活動せざるをえないからです。 (「ソクラテスの弁明」三嶋輝夫訳、本書56頁)

 皆さんの一人一人に対して、自分が最も優れた思慮に満ちた人間となるように自分そのもののあり方に配慮するよりも前に、自分に附随するような利益を顧慮することがないように、また国家そのもののあり方に関心を寄せるよりも先に現にある国家の利益を図ることのないように、さらにはそれ以外のことに対してもそれと同様の仕方で配慮すべきであると私は努めてきたのです。このような人間である私は、いったいどのような目にあうのがふさわしいのでしょうか。
 (同、本書69-70頁)

 すなわち、今や私は皆さんによって死罪を負わされ、かれら〔ソクラテスの告発者たち〕は真理によって邪悪さと不正の罪を負わされてこの場を去るのです。そして私もかれらも、ともに刑に服することでしょう。おそらく、それはそうなるべくしてそうなったのでしょうし、それはそれで結構だと思います。 (同、本書77頁)

 「無知の知」を認めればおのれの立つ瀬が無くなる名聞乞食の似非知識人がソクラテスを訴え、「無知の知」を理解できない素朴迂闊な一般大衆が彼に死刑の判決を下した。
 ソクラテスは、「正義(ただ)しく生きる」ことがすなわち「よく(幸福に)生きる」ことだとした。これには客観的な論証もなにもなくて、単にソクラテスの信念であるらしい(「『クリトン』解題」田中享英、本書185頁)。この信念のうえに有名な「いちばん大事にしなければならないのは正義(ただ)しく生きることである」という正義の原則が導かれるわけで、つまりこれは哲学的な定理でもなんでもない。好みの問題である。しかし私はこの好みを好む。しかし私の場合、ソクラテスとは違って、まだ殺されていないだけ、より幸福なのだろう。無視されたり、あるいはせいぜいのところ騙されて金を取られたり、著作物やアイデアを都合のいいところだけパクられたり、信用して物事を任せたら途中でほうりだされたうえに泣きつかれて尻ぬぐいをやらされたり、衆人環視のなかで「キチガイ」扱いされて辱められたりするくらいですんでいる。

(講談社学術文庫 1998年2月)

黒川裕次 『物語 ウクライナの歴史 ヨーロッパ最後の大国』

2010年09月04日 | 西洋史
 キエフ・ルーシ公国の時代にはほぼ全域にわたって単一のルーシ民族であったものが、この期間中に、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの三民族に分化した。分化の一つの要因には、かつてのキエフ・ルーシ公国がこの時代にモスクワ大公国、ポーランド王国、リトアニア大公国と分割され、それが長期間固定されたことがある。キエフ・ルーシ公国の末期からすでに分化し始めていたと想定される言語も、この時期にロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語というそれぞれ独立した言語になっていった。 また「ウクライナ」という地名が生まれたのも、ウクライナの歴史を通じてもっともウクライナ的といえるコサックが生まれたのもこの時期である。その意味からすれば、この時期は、厳しい三世紀ではあったが、同時にウクライナのアイデンティティー形成のためにきわめて重要な時代であったともいえる。 (「第三章 リトアニア・ポーランドの時代」 本書59-60頁)

 ロシアにとっても事情は同じようなものではないか。キエフ・ルーシ公国の全盛期は、その名が示すとおりキエフ、すなわちいまのウクライナ地方一帯が中心で(この時代モスクワはまだ地方の一寒村にすぎない)、今日で言う「ロシア的」なものは、まだ萌していない。ロシアの地と人にロシアとしてのアイデンティティーが形作られてゆくのは、やはり12世紀半ば、キエフ・ルーシ公国末期の内乱から始まって、13世紀半ばモンゴルの攻撃による崩壊後、いわゆる「タタールのくびき」(ジョチ・ウルス=キプチャク・ハーン国による支配)によってロシアが完全にウクライナ(特に西ウクライナ。あるいはその地を支配したリトアニアやポーランド)と隔絶して以後のことである。著者の言う300年の開始時期は、ほぼこの時期にあたっている。

 一四世紀半ばにハーリチ・ヴォルイニ公国が滅亡してから、一七世紀半ばにコサックがウクライナの中心勢力になるまでの約三〇〇年間、ウクライナの地にはウクライナを代表する政治権力は存在しなかった。この間はリトアニアとポーランドがウクライナを支配した。 (「第三章 リトアニア・ポーランドの時代」 本書59頁)

 ハーリチ・ヴォルイニ公国(1199-1349)は、キエフ・ルーシ公国が滅んだあと、そのほぼ唯一の政治的・文化的後継者として、約100年間、西ウクライナにおいてモンゴルと戦い、本来のルーシの伝統を後世に伝える存在となった。

(中央公論新社 2002年8月)

ルスラン・スクルィンニコフ著 栗生沢猛夫訳 『イヴァン雷帝』

2010年09月01日 | 西洋史
 原著1975年刊。かの悪名高きブレジネフ時代である。停滞の時代には学者の頭も足踏みしていたらしい。その皺の少なそうな脳髄から繰り出される単調で平板な史実の叙述と退屈な議論。スターリン時代の政治的要請による評価基準と問題意識にまだ囚われていたせいで、それ以外の事象がうわっつらしか見えなかったのであろう。読んで損をした。

(成文社 1994年7月)

T.G.マサリク著 栄田卓弘/家田裕子訳 『マサリクの講義録 チェコ・スロヴァキア小史』

2010年08月03日 | 西洋史
 D.B.シリングロウ編。
 当たり前のことだが、なぜチェコ・スロヴァキアがマサリクを生んだのかは書いてない。それは他社から出ているマサリクの著作を見ても同じ。自伝を読んですら分からない。これが一番知りたいことなのだが。

(恒文社 1994年3月)

D.ベーレントほか著 『世界の教科書=歴史』 「019-023 ドイツ民主共和国」 全5巻

2010年07月19日 | 西洋史
 木谷勤編訳、井上浩一ほか訳。
 ドイツ民主共和国(DDR)=東ドイツの歴史教科書。1969-1979年にかけて刊行されたものの翻訳。大体わが国でいうところの中等教育から高等教育課程にかけて使用される教科書。すでに消滅した国の教科書を目にするのは奇妙な感じである。そして結局現代世界についてゆけずに自滅した国家を、「マルクス・レーニン主義によれば」と注意深く自己の責任を回避しながら、「現代世界はまさに(略)社会主義への移行期にあり,ソ連邦をはじめとする世界の社会主義諸国は人類の進歩の先頭を切っている」(8頁)と手放しで礼賛している編訳者の序文を読むのもまたしかり。

(ほるぷ出版 1985年4月初版第2刷)

Marshall T. Poe 『A People Born to Slavery』

2010年07月19日 | 西洋史
 副題「Russia in Early Modern European Ethnography, 1476-1748」。

 当時のロシアはたしかに西欧よりも専制的だったろうが、「専制国家の君主と臣民」という枠組みだけで見れば、記録者の記録には臣民の体制に対する服従場面ばかりがしるされることになるだろう。それ以外の公権力のおよばない側面――人々の家庭生活や日常の近所づきあいなど――は切りすてられてしまう。ヘルベルシュタイン(Siegmund (Sigismund) Freiherr von Herberstein。1486年-1566年)の『モスクワ事情(Rerum Moscoviticarum Commentarii)』(1549年出版)などは、あきらかにその傾きがある(ロシア語訳(前半部のみの翻訳)を読んだだけの感想だが)。記録されないことと存在しないこととは違う。

(Cornell University Press, Ithaca N.Y., January 2001)

アンドレイ・ズーボフ主編 『20世紀ロシア史』 全2巻

2010年07月14日 | 西洋史
 原題「История России. ХХ век」、上巻「1894-1939」、下巻「1939-2007」。Генерал. ред. Зубов А.В.

 いま、日本にいて入手しやすいなかで、たぶん一番新しいロシア近現代通史。
 上巻1023頁、下巻829頁を斜め読み。とりあえずは何がどの程度書いてあるかが分かればいいというくらいの気分で気楽に、ただし一息に。
 冒頭から全般的ロシア史の参考文献にベルナツキーの著作をあげてあることから見て、これはかなり広い視野に立った史書であると判断できた。また、章どころか節の終わるごとに筆者が依拠したあるいは読者が参考とすべき史料や先行研究を挙げてあるから、あとでどの部分でも本腰を入れて調べようと思えば調べられることがわかった。これだけでも一気読みした甲斐があったというもの。
 さてそれでざっと通読した感想は、全般的にまずまず客観的な筆致だというものである。たとえば1980年代の西欧における反核運動(NATOの中距離核ミサイル配備反対運動)は、KGBの資金援助によるものだったと、はっきり書いてあることなど(下巻504頁)。
 しかし処々クビをかしげる記述もある。一例をあげれば朝鮮戦争のくだりである。あの戦争は、第三次世界大戦を望み、それに米国を引きずり込もうとしていたスターリンが、挑発目的で始めたと書いてある(下巻240頁)。

(Москва: АСТ, 2009)