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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

長谷川慶太郎 『2006年 長谷川慶太郎の大局を読む』

2005年11月10日 | その他
“この総選挙の最大の特徴をあげるとすれば、それは国民の政治に対する意識が変わったということである。論理的に物事を考えて行動することがようやく国民の間に浸透、定着したといってよい。とりわけ戦後生まれの四〇歳代以下の若い世代が、不合理なドロドロした人と人との繋がり、システムを重視するという風潮に違和感を持ち出した” (「プロローグ いま注目される三大テーマ」 本書34頁)

 独自でかつ興味深い仮説である。もっとも興味深いところは、もしこの指摘が真を穿っているなら、著者が『さよならアジア』(ネスコ 1986年5月)以来唱え続けている“日本は政治的・経済的にアジア地域離れすべきだ”という提案が、その実現のために確実な文化的基礎をとうとう獲得したことになることだ。 

 ちなみに「いま注目される三大テーマ」とは、
 1.原油急騰は止まるか?
 2.ポスト小泉は?
 3.中国崩壊の影響はあるか?
である。
 それに対する著者の回答または予測は、
 1.実需ではなく投機の産物なので止まる
 2.たぶん小泉首相本人。つまり続投
 3.世界のGDPの4パーセントしか占めていない国だから、世界にも日本にもほとんど経済的な影響なし
である。
 3について、遠藤健治『中国的工場カイゼン記』(→今年7月5日)を読んだ目には、大変説得力のある論旨と思えた。

(ビジネス社 2005年10月)

長谷川慶太郎 『さよならアジア 日本の組める相手は韓国だけか?』

2005年11月10日 | その他
 再読。

“「時効」という考え方と無縁な国は、すべて近代社会をもたない国である。中国がその好例であろう” (「第二章 アジアの強国・中国の迷走」 本書88頁) 

“「政治の自由」、また同時に「言論の自由」、そのものが存在しない中国では、政府にたいする反発を表現するにも、日本をタネに使うしかないのである” (第二章 アジアの強国・中国の迷走」 本書90頁)

 1986年時点でのこの発言に、今更ながら驚く。
 ただし今では韓国も怪しい。知識人も政治家もまるで精神のリアリズムを失って、李朝時代の阿呆両班に本卦還りしたとしか見えない(→2001年11月22日欄、田中明『物語 韓国人』)。ほんとうに“さよなら”かも知れない。

(ネスコ 1986年5月)

▲「台湾の声」2005年11月9日、「小田和正が台湾語で熱唱」
 →http://www.emaga.com/bn/bn.cgi?3407
 これがニュースなのは、私がサザン(桑田佳祐)ファンと同時に小田和正ファンでもあるから。

張福武編著 『日本語・台湾語・英語・中国語対照 四ヵ国語共通のことわざ集』

2005年10月05日 | その他
 仕事でこのところ、「天下烏鴉一般黒」という中国語のことわざをどう日本語に訳そうかと頭をひねっていた。辞書には「天下烏鴉一般黒(世の中のカラスはみな黒い)」とは「同類の事柄はどこでも似たようなものだ」という意味であると書いてある。しかしこれは説明であって翻訳ではない。
 そうした矢先、図書館よりファックスが入る。以前から取り寄せを頼んでいたこの本が届いたとの知らせである。天佑ならんか。「天下烏鴉一般黒」が収録されていれば、対応する日本のことわざもわかるはずである。飛んでいって借りだす。
 166頁にあった。あったのだが――。

 「何処の国でも屁は臭い」 (注)

 こんなことわざがあったのかとまず驚いたあと、いくらなんでもこれはと思った。しかしおかげで閃いた。「所変われど品同じ」。これならいける。
 
(慧文社 2005年4月) 

 (注)英語欄には "Crows are black all over the world." とある。ちなみに台湾語の欄は欠。該当するいいまわしはないらしい。

香山リカ 『いまどきの「常識」』

2005年09月29日 | その他
 他人を馬鹿と批判するときは前もって本人に通知せねばならないそうだ。それが人としての礼儀だそうである。それをしない今時の日本人の常識はと著者は嘆く。
 ではきくが、貴方は自分のところに山ほど来るとかいう罵詈雑言のメールや書信にすべて返事をしたためているのか。手紙をもらったら返事を書くのもまた人としての礼儀であろう。
 この人の意見のいかがわしさと言論人としてのうさんくささについては前に書いたことがあるけれども(→2002年5月15日『若者の法則』。また同年10月13日宮崎哲弥『身捨つるほどの祖国はありや』も参照)、この本で著者が露出する思考回路のあまりの疎漏さを見て、この人は商売や人気取りで馬鹿の振りをしているのではなくて本当に馬鹿なのだと思った。この人の嘆く“日本人”とは御自身のわずかな体験例をそのまま拡大して一般化しただけの抽象的な概念であって、著者の頭の中にしか存在しない。
 例えば私は著者に匿名で誹謗中傷メールを送ったことはないし、批判した相手から「あなたは私についてこれこれと書いていましたね」と面と向かってきかれても、「はいそうです。書きました」と答える人間である(相手によっては「本心からそう思っていますから」とまで言うかも知れない)。ということは私は日本人ではないのか、馬鹿!

(岩波書店 2005年9月)

唐沢俊一 『B級裏モノ探偵団』

2005年08月03日 | その他
 阿呆くさ。とりわけ阿呆くさいのは黄遵憲と自分とを同列に置いているところである。黄の『日本雑事詩』(→1月19日)の“雑事”を「つまらないものやこと」と解釈する著者は、黄遵憲は日本のマニア、つまりオタクであり、だから自分も同じだと言う。
 阿呆極まる。漢文の“雑事”を日本語(しかも現代語の)“雑事”と同じと思っているのである。漢文(古代漢語)では“雑事”とは「ざまざまなものやこと」という意味であって(だから『日本雑事詩』は『日本百科詩』ということだ)、“雑”とは“雑多”、つまり「既存の分類法ではいちいち分類しきれない」という本来価値中立的な言葉である。『万葉集』の「雑歌」は「つまらぬ歌」か。これしきのことはそこいらの漢和辞典を見れば載っている。辞書ぐらい引け。取りあげる題材がB級だとして、B級にまともに取り組めない者はそれ以下、C級だ。
 黄遵憲まで持ち出して自分を飾るとは、この筆者は自分のやっていることを後ろめたく感じているのだろう。恥ずかしいのならさっさとやめろ。そのふんぎりのつかないところがまたC級だ。
 
(大和書房 1999年11月)

『文藝春秋』 2005年8月号 

2005年07月11日 | その他
 特集「決定版 日vs中韓大論争」を読む。
 歴史について、公的な地位にある中国人と公的な性質の場で討論しても建設的な議論になるとは思えない。たとえそれが日本側に非のある問題だとしてもである。韓国人を相手にしてでさえかなりその気味があるようだ。日本側の硬派な意見がかえって硬化する結果を招く。

(文藝春秋 2005年8月)

史学会編 『2004年の歴史学界 回顧と展望』

2005年07月04日 | その他
 やっと出た。
 井田進也『歴史とテクスト 西鶴から諭吉まで』(→今年5月31日欄)の末尾で書いたとおり、「日本 近現代」部分を確認。

“一昨年『福澤諭吉書簡集』(慶應義塾編、岩波書店)が完成し四八〇通もの新書簡を加えた。西澤直子「書簡にみる福沢諭吉の男女論と男女観」にあるように、著作偏重の研究や『時事新報』論説における福沢自筆稿の少なさへの補完が期待される。昨年はこの書簡集を活用した研究がめだった。金原左門「「近代」づくりを地域の水脈に求めて」は報徳思想への共感を背景にした地方教育への取組みなどを、佐藤能丸「海から陸への飛躍」は三菱の高島炭鉱買収における福沢の関与を扱った(以上『近代日本研究』二〇)。また山口種臣「愛息の徴兵に立ち向かう福沢諭吉」(『史淵』一四一)は息子の徴兵逃れを企てた書簡から福沢の国民皆兵論を再検討し、兵役税を構想の核に据え、個々人の意志を基点としたが故の行動とするとともに、従来の徴兵制研究へ疑問を提示した” (横山尊/山口輝臣「六 思想・文化 1」、同書176頁)  

 福沢関連研究・著作に関する言及はこれがすべてである。
 本当に、これだけである。
 怠惰、卑怯、臆病、横着!!

(『史学雑誌』第114編第5号 山川出版社 2005年5月)