再読。
“かつて鶴見俊輔は、新東宝のお化け映画を絶賛したことがある。その賞めかたにも、思想の科学的な戦略が多分に含まれていたけれど、このアメリカ育ちの人文科学者には、ふつうの人には月並みで退屈なお化け映画が、めずらしく、面白く感ぜられたことも事実であったようだ” (「ニューヨークの次郎長」 本書31頁)
あくまで私が直接に知る限りにおいてだが、鶴見氏の賞賛する日本のコトやモノは(たとえば映画や書物。あるいは人物でもかまわないのだが)、実際に当たってみると当てはずれの感を抱く場合が、わりあい多い。その理由に関して、著者の仮説はかなり有効な説明たりえているのではなかろうか。特に後半部分である。
「このアメリカ育ちの人文科学者には、ふつうの人には月並みで退屈な・・・・・・が、めずらしく、面白く感ぜられたことも事実であったようだ」
ところで、続く比喩が唸りたくなるほどにキレがいい。
“それはちょうど、買い食いを禁止されている良家の坊ちゃんが、生まれてはじめて駄菓子屋で着色寒天を口にし、世の中にこんなうまいものがあったのかと感激するのに似ている” (同上)
こういう見事な啖呵を切られてしまった鶴見氏には同情を禁じ得ない。
だが著者はまだ手を緩めない。いったん、“落語でいえば目黒のサンマというやつで”と読み手の呼吸を外し、そのあと、
“この種の賞めぐらい無責任で、当てにならぬものはなかろう” (同上)
と、対象の急所をあやまたず刺し貫く決めの句をだめ押しに持ってくる。
この人はやはり名文家である。自分でもそう言っているが。
(文藝春秋 1992年1月)
“かつて鶴見俊輔は、新東宝のお化け映画を絶賛したことがある。その賞めかたにも、思想の科学的な戦略が多分に含まれていたけれど、このアメリカ育ちの人文科学者には、ふつうの人には月並みで退屈なお化け映画が、めずらしく、面白く感ぜられたことも事実であったようだ” (「ニューヨークの次郎長」 本書31頁)
あくまで私が直接に知る限りにおいてだが、鶴見氏の賞賛する日本のコトやモノは(たとえば映画や書物。あるいは人物でもかまわないのだが)、実際に当たってみると当てはずれの感を抱く場合が、わりあい多い。その理由に関して、著者の仮説はかなり有効な説明たりえているのではなかろうか。特に後半部分である。
「このアメリカ育ちの人文科学者には、ふつうの人には月並みで退屈な・・・・・・が、めずらしく、面白く感ぜられたことも事実であったようだ」
ところで、続く比喩が唸りたくなるほどにキレがいい。
“それはちょうど、買い食いを禁止されている良家の坊ちゃんが、生まれてはじめて駄菓子屋で着色寒天を口にし、世の中にこんなうまいものがあったのかと感激するのに似ている” (同上)
こういう見事な啖呵を切られてしまった鶴見氏には同情を禁じ得ない。
だが著者はまだ手を緩めない。いったん、“落語でいえば目黒のサンマというやつで”と読み手の呼吸を外し、そのあと、
“この種の賞めぐらい無責任で、当てにならぬものはなかろう” (同上)
と、対象の急所をあやまたず刺し貫く決めの句をだめ押しに持ってくる。
この人はやはり名文家である。自分でもそう言っているが。
(文藝春秋 1992年1月)