goo blog サービス終了のお知らせ 

書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

金岡秀郎 『モンゴルを知るための60章』

2009年08月10日 | その他
 モンゴル国のモンゴル人は、自分たちの郷土を外モンゴル(外蒙古、Outer Mongolia)とは言わないそうだ。北モンゴルという由。この内・外がどこから見たウチとソトかを考えてみれば、その理由はすぐ解る。近東(Near East)・中東(Middle East)・極東(Far East)と西アジア・北アジア・中央アジア・東アジア・東南アジア・南アジアと事情は同じ。

(明石書店 2000年4月第1刷 2004年2月第3刷)

劉暁波著 野澤俊敬訳 『現代中国知識人批判』

2009年03月25日 | その他
 再読。

 今日の中国の知識人は、かならずや専制政治の随伴物――絶対的権威を批判しなければならない。絶対的権威によって神格化され、疑ってはならず、反対してはならないと見なされてきた、すべての偶像を否定するのである。(略)こうした否定のより深いレベルでの意義は、中国人に長期にわたって形成された、権威をつくり、権威に追従し、権威にだけ従うという、奴隷化した人格と教条化した思考法の批判にある。 (「第一章 文化大革命にたいする批判」 本書15-16頁)

 知識人には忠誠が必要であり、社会良識が必要であるが、しかし、それはいかなる範疇においてであれ、政治権力にたいする忠誠ではなく、自己の信念と法律にたいする忠誠である。 (同、44-45頁)

 この人が中国当局に拘束されるわけだ。しかしいわゆる“民主派”が現在の共産党支配を覆して中国の政権の座についたとしても、この人の境遇はあまり変わらないのかもしれない。

(徳間書店 1992年9月)

中井浩一 『大学「法人化」以後 競争激化と格差の拡大』

2009年03月09日 | その他
 大学は、本当にできる学者(結果が出せる人だけでなく、かならずしも結果に結び付かなくても、先入主なく現実を観察し、事実を直視し、失敗をおそれずにいろいろな仮説を立てて実験・検証できる人)だけ残して、ボンクラ教官には、必要ならば相応の補償と引き替えに、退職いただく。残った人々の研究・指導活動を全面的にバックアップ(およびチェック)するメカニズムを確立したあとは、外部にも開かれ、かつよく整備された(紙・電子)図書館さえあればよい。大学の改革は、この体制を実現し確保するためのものであるべきだ。

(中央公論新社 2008年8月)

宮脇俊三 『台湾鉄路千公里』

2008年11月28日 | その他
 文中、「自強号」の名の由来をたずねると、どの台湾人も表情が硬くなり、ことばが途切れた、とある。著者はそれ以上踏み込んでおらず、背景の事情を自分で調べてみる。

★「Wikipedia」(日本語)「自強号」項
 〈http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%BC%B7%E5%8F%B7

 自強とは、1971年に台湾の中華民国国民政府が国際連合を離脱した際のスローガンである、「莊敬自強 處變不驚」(恭しく自らを強め、状況の変化に驚くことなかれ)に由来する。

 この旅は1980年に行われた(6月2日~8日)。本書の中でも幾度となく言及があるが、当時の台湾は戦時体制であり、戒厳令下にあった。「大陸反攻」が真剣に――すくなくとも家の外では――、唱えられていた時代である。
 著者が見た当時の台湾人の逡巡の理由は、おそらくこのあたりにあろう。
 念のため、中国語(北京語)版のほうも見てみる。

★「Wikipedia」(中文)「自強號」項
 〈http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%BC%B7%E8%99%9F

 自強之名得自1971年10月26日,中華民國總統蔣中正面對《聯合國2758號決議》所發表的〈告全國軍民同胞書〉一文中的「莊敬自強,處變不驚」。

 項目名が既にそうであるように、本文も繁体字である。つまりこれは、台湾(中華民国)側によるエントリーである。
 おもしろいのは英語版で、まだ書きかけらしく英語と北京語がごっちゃになっているのだが、使われている漢字は大陸(中華人民共和国)の簡体字である(だが見出しのアルファベット表記 “Tzu-Chiang Train” はピンインではなく、ウェード・ジャイルズ式)。そして「自強」の由来については、いっさい言及がない。
 概してあまり評判の芳しくない Wikipedia だが、その不完全さや不整合を、こうしてある意味、楽しむこともできる。
 以上、仕事の合間の息抜きとして。

(角川書店 1985年8月)

付記。
 Wikipedia には「宮脇俊三」のエントリーもあった。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E8%84%87%E4%BF%8A%E4%B8%89
 1926 - 2003。「年譜」欄を眺めていて、この人が中央公論社の編集者として宮崎市定(1901- 1995)と交渉があったことを知る。

 1951年(昭和26年) 東京大学文学部西洋史学科卒業。中央公論社(現在の中央公論新社)に入社。以後編集者として活躍し、『中央公論』編集長に就任。当時の国鉄総裁石田禮助に自らインタビューをしたこともある。その後『婦人公論』編集長、開発室長、編集局長、常務取締役などを歴任。「世界の歴史」シリーズ、「日本の歴史」シリーズ、「中公新書」など出版史に残る企画にたずさわり、名編集者と謳われる。作家北杜夫を世に出したのも功績の一つである。
 「世界の歴史」シリーズでは専門的過ぎて分かりづらい学者の文章は衝き返して再度執筆させた。東洋史学者宮崎市定に『科挙』『大唐帝国』執筆を依頼し、一般読書人に宮崎の名を知らしめてもいる。宮崎は名文で知られており、世界の歴史シリーズでも間然するところの無い文章を執筆したため、宮脇も衝き返さず、そのままとした。

 と、今度は「宮崎市定」の項を見ると、「関連人物」の欄に、「宮脇俊三 - 中央公論社の担当編集者。全集の月報に執筆している。後に紀行作家となる。」とあった。
 道理で文章がうまいわけだ。

稲垣武 『朝日新聞血風録』

2008年04月28日 | その他
 読むに当たって参照したもの。
  ●Wikipedia 「朝日新聞の中国報道問題」
  ●同上 「日中記者交換協定」

 理想を説くのも懐に響かないうちで、ぎりぎりの局面になると、「読者大衆をつなぎとめ部数の拡大を図るためには」、「やむを得ないと自己弁護」(143頁)しながら、結局はその時々の「時代の風潮に合わせ」(218頁)てきたというのであれば、それはいつでもどこにでもある話。

(文藝春秋 1991年12月)