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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

西村ミツル 『外交官の舌と胃袋 大使料理人がみた食欲・権力欲』

2010年08月24日 | その他
 『大使閣下の料理人』(かわすみひろし作画、1998年- 2006年連載)の原作者による、ブルネイ/ベトナム大使公邸料理人時代の経験談。題名からして外務省の内情告発物のようであるが(実際そういう部分もあるが)、基本的には体験記である。それより、2002年といえば『大使閣下の料理人』が連載のさなかである。よくこんなことを、それも具体的に書けたなという驚きのほうが強い。
 これは、反対にいえば、『大使閣下の料理人』の読者は、この漫画では、理想化されているわけではないけれども、在外日本大使館やそこで働く外交官が、悪いところは基本的に描かれずよいところだけ描かれていることを承知したうえで作品に接していたということになる。普通、読者の幻滅をおそれて、作り手はそんなことをしないはずだが、西村氏というのは勇気あるというか、変わった人らしい。それとも、いまの読者はそれでもフィクションはフィクション、別物と、作品の世界に親しんでくれると踏んだのだろうか。結果から見て、その賭けは当たったわけだ。

 ところで私はこれだけ『大使閣下の料理人』が好きで何度も何度も読み返すくせに、どうしてその続編とされる『グ・ラ・メ! 大宰相の料理人』には全く食指が動かないのであろうか。自問してみる。
 まず、画(作画・大崎充)が肌に合わない。しかしこれは好みの問題である。むしろ食わず嫌いということで非はこちらにあるだろう(おなじ理由でたとえば私は石川雅之『もやしもん』を手に取らないのだが、たぶん自業自得で損をしている)。
 しかし、『大使閣下の料理人』は、あれで大団円を迎えて終わっているのだから、わざわざそれも違う画で続きを読もうとまでは思わないということもある。
 単行本の表紙でしか知らないが、大沢公がまったく似ても似つかない造形になっている。まるで別人ではないか。
 これは2009年の『スター・トレック』のように、パラレル・ワールドの話ではないか、それなら読む必要はない――とこちらが結論してしまうのは、あながち責められるべきではないだろう。たとえばこの新作映画を見ても、映画そのものは面白いが、ウィリアム・シャトナーのカークやレナード・ニモイのスポック時代の『宇宙大作戦/スター・トレック』の理解に何ら資するところはない。平行世界の話だからである。

 ちなみに、公邸料理人時代の西村氏は、『大使閣下の料理人』のタイ編および終盤近くの「微笑みの国から」で登場したウアンにそっくりである。気合いを入れるときに「ウッス」と言うところも一緒。もしかして原作者がモデルか?

(講談社 2002年6月)

ウタ・ハーゲン著 シカ・マッケンジー訳 『“役を生きる”演技レッスン』

2010年08月18日 | その他
 副題「リスペクト・フォー・アクティング」。

 いろいろなものを「もしこれが、私にとっての何々だったら」と置き換えることが、直後の行動を生み出しています。あなたが見たことのある、知っている記憶=過去を使うのは、現在〔劇の世界〕のアクションをリアルに行うため。あなたの思い出を、そっくりそのまま演技のなかにはめ込んで使うのでは、ありませんよ。(略)現在(=劇の世界)があなたにとってリアルに感じられるよう、まず知っているものと置き換えてみるのです。(略)人物や出来事、劇のなかで使うものを「もしこれが、○○だったとしたら?」と置き換えるだけで終わってはいけません。完全に、劇の中のものと同化させてください。劇のなかのものが、あなたにとって本当なんだと信じられるように、移し変えましょう。そうなれば、もともと何を使って置き換えたか、忘れてしまうかもしれません。それでいいのです! (「第3章 置き換え」本書63頁)

 「これが私よ」というイメージは、一つではありません。あらゆる人の特徴が、私のなかのどこかに存在しているのです。(略)自分自身で「いやだなあ」と思う特徴も、見逃さないようにしましょう。(略)「私にも、そういうところがるなあ」と認めることで、「私らしさ」への認識を広げて欲しいのです。 (「第2章 アイデンティティ」本書40-41頁)

 役者個人の「感情の記憶」を重視したリー・ストラスバーグを代表的提唱者とするメソード演技法と、それを真っ向から否定し、脚本の緻密な読み込みと想像力さえあればその役を演ずるにあたって必要な感情は自然に生まれると説いたステラ・アドラー。このウタ・ハーゲンの方法論は、ちょうどその中間に属する。
 アドラーは、ストラスバーグのメソード演技を、スタニスラスフキイの教えを曲解したものとして退けた。個人、なかんづく現代大衆社会の個人の限られた経験や貧しい感情だけでは、「サイズ」の違うキャラクター(たとえばシェークスピア)は演じられないと。
 ハーゲンは、アドラーが卑小な現代人の裡にはまったくないとした、大きな「サイズ」を、同じ人間である以上、だれもが持ち得ると考える。それを呼び起こす手段が「置き換え(substitution)」である。もっとも、ハーゲンも最初から誰にでも有るといっているわけではない。普遍的に存在するのはあくまでその一端であり、「サイズ」の差はハーゲンとて認めている。ただ、彼女は、その差はうめることが出来るとする。「置き換え」でたぐり出した端緒を、想像力によって役に相応しい大きさにまで育て上げることができるというのである。
 メソード演技法は米国で盛んで、有名なアクターズ・スタジオはそのメッカである(リー・ストラスバーグは設立者ではないがのちその運営者・教師として象徴的な存在となった)。ロバート・デ・ニーロやアル・パチーノがここの出身であることも有名だが、そのアクターズ・スタジオの主催するインタビュー番組で、デニーロは、「自分ばかり見つめていても始まらない」と、メソード演技に対する批判を述べている(同じインタビューによれば、デ・ニーロは修業時代、ステラ・アドラーから教えをより多くうけたらしい)。パチーノにいたっては、自他共に認めるリー・ストラスバーグの愛弟子であり、現在はアクターズ・スタジオの共同学長(三人のうちの一人)を務める身であるにもかかわらず、やはり同じインタビュー番組で、「(いまは)『感情の記憶』はあまり使わない」(つまりメソード演技法にはあまり頼らない)と、明言している。察するに、二人とも(すくなくともデ・ニーロは)演技者としてはハーゲンに近い位置にいるようである。

(フィルムアート社  2010年5月)

座右宝刊行会編 『世界の美術』 10 「レンブラント/フェルメール」

2010年07月26日 | その他
 岡本謙次郎解説。
 レンブラントに名作は数あれど、一つを選べと言われたら、「ポーランドの騎士」こそ。
 レンブラントは、個人的に、なじみ深い。私が育った家には、もちろんのこと複製だったが、レンブラントの「フローラに扮するサスキア」やそれから青木繁の「海の幸」といった東西の絵画が、廊下や階段の踊り場に飾られていて、子供の時から毎日見て育った。この家は取り壊されてしまってもうないが。
 話は変わるけれど、フェルメールの「赤い帽子の若い女」のモデルは、『エイリアン2』のフェッロ伍長に似ているな。

(河出書房 1964年10月)

YouTube 「桑田佳祐-MERRY X'MAS IN SUMMER」

2010年07月25日 | その他
 〈http://www.youtube.com/watch?v=X1zWJ1H4JyY&feature=related

 「話は変わるけどね」と言うたらあと何言うてもええんか。
 それにしても、若い頃から厳しくすべきところは自らに厳しくしてないと、年取ってからこんな洒脱さは出ないと思う。
 私も、こんなTシャツとジーンズが似合う、渋くてしなやかな50代になりたいねえ。

座右宝刊行会編 『世界の美術』 8 「エル・グレコ/ベラスケス」

2010年07月22日 | その他
 坂本満解説。
 この画集は、母の遺品。時々、その時々の気分のままいずれかの巻を手にとって、開き眺める。
 グレコの「ある紳士の肖像」を見るたび、映画『ラ・マンチャの男』(1972年)のピーター・オトゥールを思い出す。オトゥール演じるドン・キホーテ、あるいはアロンソ・キハーナは、この「ある紳士の肖像」の風貌をモデルとしてはいなかったかと、とくにそれ以上調べてみようとはせずに、いつも空想する。

(河出書房 1965年4月) 

近藤紘一 『目撃者 近藤紘一全軌跡1971~1986』

2010年07月01日 | その他
 たぶん二十年ぶりに読み返した。この著者の作業(さくぎょう)は、十代の終わりから二十代にかけて、代表作『サイゴンから来た妻と娘』はもちろん、単行本・文庫本で手に入るものはほとんど全部読んだ。内容はほとんど忘れたが、今回読み直してみて、この人の感情というか、個人的には嫌いなことばだが“まなざし”を、憶えていたことを知った。昨年の後半、中国―ベトナム関係史の調査の仕事をしたときに、レポートを纏める自分の視座が、最初からほとんど自動的にベトナムの側に据えられていたのは、この自分では意識せざる記憶のせいだったことに気がついた。

(文藝春秋 1987年1月第1刷 1987年3月第2刷)

YouTube 『ロマンスの神様 広瀬香美 ap bank fes'08 HD』

2010年06月30日 | その他
http://www.youtube.com/watch?v=8dsZkH7wsoo&feature=related

 画面を見ているだけでも感じるほどの、うだる暑さの夏(櫻井さんの顔を見ろ)を、タオル一枚振るだけで瞬く間に雪積む冬へと変えた、歌のうまさと声量には昔から感嘆していたが、べつに好きでもなかったこの人の、その持つカリスマに、鳥肌が立った。
 もっともこの寒気、20パーセントくらいは、歌の前のトークでこの人が見せた、何とも言えない独特の間のせいもあるけれど。

YouTube 「桑田佳祐 / 『First Love』」

2010年06月28日 | その他
http://www.youtube.com/watch?v=Nkq-8p5s0Kg&feature=related

 コメント欄で誰かが書いているように、本歌のイメージを壊さず、そのうえで自分の歌にしているところが凄い。この人のカバーはいつもそうである。トミーズの雅さんはあるテレビ番組で、そんな桑田さんのことを、「超人やで」と、感に堪えたように言っていた。世に桑田さんを天才と言う声は多い。かくいう私もその一人である。但しいかに天才とはいっても、ここまで他人の歌を自家薬籠中の物とするには、汗と努力あっての賜物だろうということも、私は同時に信じて疑わない。さらにいえば、その汗と努力をなさしめたのは、本歌と、それを作り歌ったオリジナルの人びとへの敬意であろうこともである。
 最近、その桑田さん(正確にはサザンオールスターズ)の「真夏の果実」を、あるグループがカバーしているのを知って、この YouTube でも見た。たしかに、コメント欄で「名曲を汚すな。いますぐ歌手やめろ」と罵倒されるにふさわしい出来である。歌自体はうまいのだが、Superfly の越智志帆さんのような本歌が好きでたまらないという個人的な愛着も窺えなければ、桑田さんのこの「First Love」のような、オリジナルなるものへの敬意も感じられない。まるでプログラムが歌っているかのようだ。気味が悪いほど歌い手の人間性が伝わってこない。
 ・・・・・・と思ったが、同じ YouTube 「たしかなこと  絢香 Salyu BONNIE PINK」を見て、意見が変わった。あいつらは歌も下手だ。いますぐ歌手やめろ。

YouTube 「映画『ザ・コーヴ』出演のリック・オバリー氏会見」

2010年06月15日 | その他
 〈http://www.youtube.com/watch?v=qMfZH7U-_94

 「民主主義の破壊」だの「上映を決行する第七藝術劇場の館主」を「勇敢」だと賞賛するなど、決まり切った内容なので――言論の自由という原則に関わる問題だから決まり切った内容になるのは当然ではあるが――、氏の発言内容それ自身にはとりたてて感想はない。
 それよりも、コメントにおもしろいものがあった。ampamman2009 という人の意見である。

 そんなにこの映画を見てほしかったらインターネットで無料で公開すればいいのに。
 
 そのとおりである。
 alpha555555555 という人のコメントも、なかなか捨てがたい。

 原爆展示も民主主義国家ならやってほしいもんだが。。。

 スミソニアン博物館のエノラ・ゲイ展示文が結局、日本(広島および長崎)への原爆投下の事実だけを残して、そこに至るまでの政治過程についても現在時点での歴史的評価についてもまったく触れることができなくなった顛末について、オバリー氏はどう思っているのだろうか。まさか知らないわけはあるまい。
 あるいは、氏は、「自分には関係がない」と答えるかもしれない。「自分は原爆を落とした人間ではないし、その投下を決定した人間でもない」。「アメリカ人だというだけの理由で、ひとたらげにするのはやめてもらいたい」と反論するかもしれない。
 ならば私は、同じ返答を氏にお返ししなければならない。私はクジラを捕らないし、殺しもしない。さらには好きでもないのでその肉を食べることもない。私には関係がないことだ。これはあなたと太地町の漁師の方達の問題でしょう。どうして当事者間で解決しないのか。どうして私はあなたに説得されねばならないのか。そして、どうしてあなたの映画を、金を払ってまで映画館で観なければならないのか。