『大使閣下の料理人』(かわすみひろし作画、1998年- 2006年連載)の原作者による、ブルネイ/ベトナム大使公邸料理人時代の経験談。題名からして外務省の内情告発物のようであるが(実際そういう部分もあるが)、基本的には体験記である。それより、2002年といえば『大使閣下の料理人』が連載のさなかである。よくこんなことを、それも具体的に書けたなという驚きのほうが強い。
これは、反対にいえば、『大使閣下の料理人』の読者は、この漫画では、理想化されているわけではないけれども、在外日本大使館やそこで働く外交官が、悪いところは基本的に描かれずよいところだけ描かれていることを承知したうえで作品に接していたということになる。普通、読者の幻滅をおそれて、作り手はそんなことをしないはずだが、西村氏というのは勇気あるというか、変わった人らしい。それとも、いまの読者はそれでもフィクションはフィクション、別物と、作品の世界に親しんでくれると踏んだのだろうか。結果から見て、その賭けは当たったわけだ。
ところで私はこれだけ『大使閣下の料理人』が好きで何度も何度も読み返すくせに、どうしてその続編とされる『グ・ラ・メ! 大宰相の料理人』には全く食指が動かないのであろうか。自問してみる。
まず、画(作画・大崎充)が肌に合わない。しかしこれは好みの問題である。むしろ食わず嫌いということで非はこちらにあるだろう(おなじ理由でたとえば私は石川雅之『もやしもん』を手に取らないのだが、たぶん自業自得で損をしている)。
しかし、『大使閣下の料理人』は、あれで大団円を迎えて終わっているのだから、わざわざそれも違う画で続きを読もうとまでは思わないということもある。
単行本の表紙でしか知らないが、大沢公がまったく似ても似つかない造形になっている。まるで別人ではないか。
これは2009年の『スター・トレック』のように、パラレル・ワールドの話ではないか、それなら読む必要はない――とこちらが結論してしまうのは、あながち責められるべきではないだろう。たとえばこの新作映画を見ても、映画そのものは面白いが、ウィリアム・シャトナーのカークやレナード・ニモイのスポック時代の『宇宙大作戦/スター・トレック』の理解に何ら資するところはない。平行世界の話だからである。
ちなみに、公邸料理人時代の西村氏は、『大使閣下の料理人』のタイ編および終盤近くの「微笑みの国から」で登場したウアンにそっくりである。気合いを入れるときに「ウッス」と言うところも一緒。もしかして原作者がモデルか?
(講談社 2002年6月)
これは、反対にいえば、『大使閣下の料理人』の読者は、この漫画では、理想化されているわけではないけれども、在外日本大使館やそこで働く外交官が、悪いところは基本的に描かれずよいところだけ描かれていることを承知したうえで作品に接していたということになる。普通、読者の幻滅をおそれて、作り手はそんなことをしないはずだが、西村氏というのは勇気あるというか、変わった人らしい。それとも、いまの読者はそれでもフィクションはフィクション、別物と、作品の世界に親しんでくれると踏んだのだろうか。結果から見て、その賭けは当たったわけだ。
ところで私はこれだけ『大使閣下の料理人』が好きで何度も何度も読み返すくせに、どうしてその続編とされる『グ・ラ・メ! 大宰相の料理人』には全く食指が動かないのであろうか。自問してみる。
まず、画(作画・大崎充)が肌に合わない。しかしこれは好みの問題である。むしろ食わず嫌いということで非はこちらにあるだろう(おなじ理由でたとえば私は石川雅之『もやしもん』を手に取らないのだが、たぶん自業自得で損をしている)。
しかし、『大使閣下の料理人』は、あれで大団円を迎えて終わっているのだから、わざわざそれも違う画で続きを読もうとまでは思わないということもある。
単行本の表紙でしか知らないが、大沢公がまったく似ても似つかない造形になっている。まるで別人ではないか。
これは2009年の『スター・トレック』のように、パラレル・ワールドの話ではないか、それなら読む必要はない――とこちらが結論してしまうのは、あながち責められるべきではないだろう。たとえばこの新作映画を見ても、映画そのものは面白いが、ウィリアム・シャトナーのカークやレナード・ニモイのスポック時代の『宇宙大作戦/スター・トレック』の理解に何ら資するところはない。平行世界の話だからである。
ちなみに、公邸料理人時代の西村氏は、『大使閣下の料理人』のタイ編および終盤近くの「微笑みの国から」で登場したウアンにそっくりである。気合いを入れるときに「ウッス」と言うところも一緒。もしかして原作者がモデルか?
(講談社 2002年6月)