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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

シュテファン・ツヴァイク著 原田義人訳 『昨日の世界』 全2巻

2009年12月16日 | 文学
 第二次世界大戦の最中、1941年に、ツヴァイクが追憶し描き出す1910年代の世界――主としてヨーロッパ世界だが――は、興味深い。戦争(第一次世界大戦)が始まると諸国民は愛国心に燃えあがり、「敵を殺せ」と熱狂的に叫んだ。敵を殺すのが憚るところのない正義であり、愛国心の精華だった。しかしその一方で、詩人の一片の詩、作家の一遍の文章が、国境や文化を超えて人びとの心を揺り動かした、そんな時代だったという。

 あの頃には言葉はまだ力を持っていた。まだ言葉は、「宣伝」という組織化された虚偽によって、死滅するほど酷使されてはいなかった。人々はまだ書かれた言葉を聞き、それを待っていた。〔・・・〕道徳的な世界良心は、まだ今日のように困憊し尽くし灰汁(あく)を抜かれてはいなかった。その良心はあらゆる明白な虚偽に対して、また国際法や人道の侵害に対して、数百年来の確信の全力を挙げて烈しく反応したのであった。〔・・・〕一人の偉大な詩人の自発的な宣言〔ロマン・ロランの『戦いを超えて』〕は、政治家たちのあらゆる公式の演説よりも千倍も多くの効果を及ぼした。 (下巻、358-160頁)

(みすず書房 1973年6月第1刷 1979年9月第3刷)

チンギス・アイトマートフ著 飯田規和/亀山郁夫訳 『チンギス・ハンの白い雲』

2009年11月18日 | 文学
 巻末「訳者解説」に、“ジュアンジュアン族”の伝説が紹介されるのだが、「ジュアンジュアン族」とは聞いたことのない名前だ、何だろうと首をひねっているうちに、「蠕蠕(ぜんぜん)」のことかと思い至った。こんにち一般には柔然(じゅうぜん)と呼ばれる、紀元5-6世紀頃に北東アジアで活動した遊牧民族である。高校の世界史教科書なら、鮮卑の次に出てくる。匈奴鮮卑柔然突厥と、私などはお経のようにおぼえた。鮮卑が中国に南下して建てた北魏王朝を、背後のモンゴル高原から脅かした。
 「蠕蠕」は、現代中国語(北京語)では ruanruan と発音する。北京語の ru はときに英語の zhu に近く発音されるから、ロシア語で жуの字を当てていてもおかしくない。ならば日本語で写せば「ジュアンジュアン」になる。調べてみると、まさしく Жуаньжуань(ほぼジュアンジュアン)だった。
 チンギス・アイトマートフ(1928~2008)はキルギスの文学者である。キルギス人だが、作品(小説)はロシア語で書いた。ソ連時代、就中スターリン時代を生き抜いた人だから、キルギス語で書けなかったいろいろの事情があることは想像に難くない。そのことはさておく。
 興味深かったのは、翻訳のほうである。
 中央アジア(トルキスタン)は、パミール高原によって自然地理・人文地理的に東西へと分かれる。その結果、政治的にも別々の航跡を辿ったのは周知のとおりである。二十世紀においては、東は中国、西はソ連と違う国に分かれた。自然、研究者も畑が別れて別々になる。同じひとつのものでも呼び方が異なってくる。一方で“柔然”とされるものが、もう一方では“ジュアンジュアン族”となる。

(潮出版社 1991年4月第1刷 1991年6月第3刷)

サアディー著 蒲生礼一訳 『薔薇園』

2009年11月09日 | 文学
 自分の蘊蓄を知らせようとして、他人の言葉を遮るものは自分の無知を暴露する!

  他人が問わない限り、
  賢者は返答をしない。
  たとえその言葉が真実に基づこうとも、
  饒舌者の主張は理に悖ると認められよう! (「第八章 文章の作法について」 本書394-395頁)

 「沈黙は金」とはわりあい普遍性のある美徳らしい。もっともこの考え方がもし、『旧約聖書』のソロモンの言葉、「黙っていれば愚か者でもかしこく見える」あたりに本当に淵源するものであれば、キリスト・イスラム教圏に広く見られるのは当然ではある。そしてそうであればさらに、ユダヤ教徒のあいだにもまた同様の価値観が存在するのであろう。

(平凡社 1964年2月初版第1刷 1980年7月初版第6刷)

中島敦 『山月記・李陵 他九篇』

2009年10月21日 | 文学
 漢の武帝の天漢二年秋九月、騎都尉・李陵は歩卒五千を率い、辺塞遮虜鄣を発して北へ向かった。阿爾泰山脈の東南端が戈壁沙漠に没せんとする辺の磽确たる丘陵地帯を縫って北行すること三十日。朔風は戎衣を吹いて寒く、如何にも万里孤軍来るの感が深い。 (「李陵」冒頭 本書6頁)

 漢語は思考を停止させる。「辺塞遮虜鄣」はなんだかよくわからないが、出発するからには場所の名だろうし、「辺塞」とあるからにはたぶん「とりで」のことだろう、「磽确」というのもよくわからないが、いかにもごつごつした荒れはてた感じの音のことばだからたぶんそんな意味だろう、石がへんについているし。「朔風」はそんな荒野に吹いている風のことかしらん、「戎衣」はとにかく着ている服のことにちがいない。中島敦の中国物は、こんな誑かしの上に成り立っている。この岩波文庫版では懇切丁寧にルビがいちいちついているが――中島敦の原稿にもとから付せられていたのかもしれないが――、読みがついているかどうかは、ここではさして問題ではない。
 言っておくが、私は誑かしが悪いと言っているわけではない。文学作品では読者を作品世界に引き込むための誑かしの技術は大いに必要であろう。だが漢語の怖いところは、よくよく注意していないと誑かす筈の本人まで誑かされてしまうことである。

 武帝は李陵に命じてこの軍旅の輜重のことに当たらせようとした。未央宮の武台殿に召見された李陵は、しかし、極力その役を免ぜられんことを請うた。 (同上、本書7頁)

 「未央宮」は宮殿の名、「武台殿」はそのうちの一棟の名、というだけで十分なつもりになって、それ以上に具体的に踏み込んだ描写の必要を感じなくなる。そしてほとんど漢語の持つあやかしに依っ掛かっただけの、それらを取り去ってみればほとんどト書きのような文章しか書かなくなる。

(岩波書店 1994年7月第1刷 1997年4月第5刷)

ヴィクトル・ユゴー著 辻昶訳 『ヴィクトル・ユゴー文学館 6 九十三年』

2009年05月11日 | 文学
 シムールダンは、もともとかたくなな素朴さをもっていたから、真理に仕えるためになら、どんなことをしても正しいのだと信じていた。 (「第二部 パリ」 本書111頁)  

 アナトール・フランス『神々は渇く』と、どちらが面白い?

(潮出版社 2000年6月)

老舎著 蘆田孝昭訳 『老舎小説全集』 8・9・10 「四世同堂(上・中・下)」

2008年02月26日 | 文学
 出てくる日本人が、類型的で通り一遍で、まったく描けていない。たとえ悪辣で残忍で狭量で下劣なだけの輩だとしても、それ以前に、とても血の通った人間とは思えない。こんにちの「反日」と同じく、日中戦争中の「抗日」もまた、「愛国」はつけたりで、根本は「侮日」だったかと思わせる内容。
 なぜそこまで――例えば老舎にこんな駄作を書かしめるほどに――、中国人が日本人を蔑むのか。この問題は、「中華思想だから」だけでは、ちょっと片付けられないだろう。
 
(学習研究社 1982年10月~1983年4月)

木村毅編 『明治文學全集』 97 「明治戦争文學集」

2007年03月26日 | 文学
 桜井忠温「肉弾」と水野広徳「此一戦」を読む。日露戦争の戦記物といえば、陸戦なら「肉弾」(1906年)、海戦なら「此一戦」(1911年)と、まずこの二つに指を屈するのが相場だそうだが、いざ読んでみた感想はといえば、前者は、軍歌を大ボリュームで流しながら「御国のために死ね」とひたすら怒鳴り続けているのを延々聴かされるようなものである。こんな時代に生まれなくてよかったという以外、感想の持ちようもない。
 もっとも、後者を読むと明治はこんな単純なばかりの時代ではないと思わせられる。「此一戦」では、いかにも明治風の国権的な愛国主義の間に、
 「大和魂は孟子の言う浩然の気であり、つまりは精神の崇高さの謂である。戦場で敵を殺したりする行為はその勇気の一面の表れの一つではあるが決してその全てではない。医師が危険を犯して伝染患者の治療に従事したり、学者が利欲の外に超然として学術の研究に従事することもまた大和魂の一面の発露である」(要約)
 などと、ひどく今日的な思想が展開されていたりするのである。
 なお、上記二作のほか、渋川玄耳「従軍三年(抄」(1907年)とレンガード「旅順籠城 剣と恋(抄)」(1912年邦訳出版)が掘り出し物だった。後者はロシア側から見た日露戦争(就中旅順戦)戦記。

(筑摩書房 1983年10月初版第3刷)