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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

入矢義高注 『寒山』

2010年05月08日 | 文学
 『中國詩人選集』第5巻。
 注者の入谷氏は寒山を架空の人物とする向きに傾く。では架空の人物の作とされる詩を集めて編む意味は、単なる資料の編纂という以上に、何であろう。

(岩波書店 1958年4月第1刷 1990年9月第28刷)

吉川幸次郎注 『詩経国風』 上下

2010年04月30日 | 文学
 「中国詩人選集」第1、2巻。

 履我即兮  履(おきて)もて我に即(つ)きしなり (「斉風 東方之日」下巻100-101頁)

 通常は漢文の文の語順はSVOで、英語のように目的語は動詞(述語)の後にくる。ところがこの句はまるで日本語よろしくSOV(~は~を~する)の語順になっている。韻の問題があるからといって、いくらなんでもこの語順はどうか。しかも『詩経』の「国風」は、各地の民謡を集めたという建前なのだが、文体も語彙も統一されている。地域の方言差がまるでない。少なくとも注釈者の吉川氏はそのことについてはひとことも触れていない。
 こういう奇妙なことがしばしばあるから、私は、漢文というのは最初から人工的に作り出された言語ではなかったかという疑いがぬぐいきれないのである。
 おまけに、古い時代の作品であるから解らない語や言い回しに後世の注がついているのは当然だが、これは『詩経』のそれに限ったことではないけれども、中国の伝統的な注というのは、「~は~である」と、結論しか言わない。根拠もなしにおいそれとは信用しかねるのである。

(岩波書店 1958年3月第1刷 1985年8月第23刷、1985年9月第25刷)

小島直記 『斬人斬馬剣 古島一雄の青春』

2010年03月15日 | 文学
 筆者も書いているが、古島一雄が斬人斬馬の鋭い筆鋒を存分に揮うようになるのは、陸羯南の『日本』を辞め三宅雪嶺の『日本人(日本及日本人)』に移って以後のことである。すでに青春時代ではない。
 古島一雄の青春は、『日本』の青春であった。そしてそれは、小島にとって同僚であり肝胆相照らす友だった正岡子規の青春であり、その早い晩年でもあった。すくなくとも、筆者はそう捉えている。
 この伝記小説では、もっぱら起きている子規が描かれている。起きている子規も、痛ましい。

(中央公論社 1988年4月、中公文庫 1993年8月)

アブドゥレヒム・オトキュル著 東綾子訳 『英雄たちの涙 目醒めよ、ウイグル』

2010年03月12日 | 文学
 歴史小説。原題は『足跡(Iz)』。
 20世紀初頭、クムル(ハミ)で圧制を敷くウイグル人の王に反逆の旗をふりかざした民衆の英雄、ティムル・カリフ(トムゥル・ハリーファ)の生涯を描いた物語。1986年ウルムチで出版。
 くわしい解説はこちらにある。

 カバー裏折り返しの著者紹介に依れば、アブドゥレヒム・オトキュルは本名アブドゥレヒム・テレシュという人物。

 詩人、小説家、ウイグル古典文学研究家。1923年、クムル(哈密)生まれ。1939年、新疆学院(現・新疆大学)に入学し、教育学を専攻する。卒業後、中学校の教師になるが、1944年、政治活動を行ったとして逮捕される。翌年釈放され、『新疆日報』のウイグル語部門編集長、アルタイ出版社の副編集長を務める。中華人民共和国成立以降は教師、翻訳、ウイグル古典文学の研究などに携わるが、文化大革命が起こると家具工場での労働を強いられる。「文化大革命」終結後の1974年、新疆社会科学院の副院長となる。1985年、ウイグル語による歴史小説『Iz(足跡)』を発表。大ベストセラーとなり、続編として『Oyghanghan Zemin 1-qism(目覚めた大地第一部)』、『Oyghanghan Zemin 2-qism(目覚めた大地第二部)』が出版される。1995年10月5日、胃ガンのため死去。2002年、中国当局により著作は「危険とみなされる書物」として発禁処分に遭う。

 1945年当時の『新疆日報』にウイグル語版があったとはしらなかった。中国語版は、省連合政府支持・親国民政府・反東トルキスタン共和国の論調だったと聞く。

(まどか出版 2009年8月)

堀田善衛 『ゴヤ』

2010年03月02日 | 文学
 『堀田善衛全集』11、12巻。

 小林秀雄『ドストエフスキイの生活』と、どれほどの径庭があるか。どちらも、読んでも論じられている対象、就中彼らの作品の理解に資するとはあまり思えぬ。

(筑摩書房 1994年3・4月)

シュテファン・ツワイク著 高橋禎二/秋山英夫訳 『ジョセフ・フーシェ ある政治的人間の肖像』

2010年02月08日 | 文学
 ストーリーは最初から完全に決まっていて、書き進むうちにあらたな発見やインスピレーションによって変更が起こったというあとは見えない。これでは伝達であって表現ではあるまい。しかし、あらかじめえがかれた下書きを一ミリの狂いもなくなぞるだけでなく、その上に油絵具をこれでもかこれでもかとこてこてと積み上げて行くがごとき著者の筆致の前には、「説明するな描写せよ」の声はかぼそく聞こえる。

(岩波書店 1979年3月第1刷 1993年5月第20刷)

シュテファン・ツワイク著 高橋禎二/秋山英夫訳 『マリー・アントワネット』 上下

2010年01月24日 | 文学
 どこにでもいる平凡な、というよりも甘やかされて育ったエエシの馬鹿娘が、「不幸のうちに初めて人は、自分が何者であるかを本当に知るものです」という叡智の言を吐くに至る結末へもっていくには、いたずらに描写(もしくは説明)のみ多くして説得力に欠ける感。

(岩波書店 1980年6月改訳第1刷 1995年7月第30刷ほか)

宮本百合子 『道標 第一部』

2010年01月20日 | 文学
 「正餐」という言葉に“オベード”ではなく“アベード”とルビをふっているところ、宮本百合子は耳が良いな、かなりまじめにロシア語を勉強したんだなと思った。
 この作品は、革命10年後のソ連よりも、そこを訪れた日本人たちのほうが興味深い。基本的には樟脳臭いのを我慢して、鼻をつまみながら読まねばならない。しかし第一部のここまでは、無邪気でまっすぐな伸子という主人公を目と口を通して、かなり見るべきものを見、言うべき事を言っていると感じる。少なくとも私の知る1970年代の終わりから80年代の初めにかけてソ連にいた“友好的”日本人たちより、よほど遠慮がない。

(新日本文庫 1976年9月初版 1982年7月)

小西甚一 『日本文学史』

2009年12月22日 | 文学
 わたくしどもが永遠でないことを自覚するとき、永遠なるものへの憧れは、いよいよ深まるであろう。しかし、憧れは、どこまでも憧れであって、永遠なるものへの憧れは、畢竟、永遠なる憧れであるよりほかない。そうした憧れが、具体的には、宗教とか、藝術とか、科学とかの形において表現される。あるいは、宗教や藝術や科学などを媒介として、私どもが永遠なるものに連なりうるのだといってもよかろう。 (「序説」 本書16頁)

 永遠なるものへの憧れを持つ者と持たぬ者の間には、越えることのできない断崖が横たわっている。

 永遠なるものへの憧れは、北極と南極とのように、ふたつの極をもつ。そのひとつは「完成」であり、他のひとつは「無限」である。いま、これを藝術の世界について考えると、完成の極にむかうものは、それ以上どうしようもないところまで磨きあげられた高さをめざすのに対し、無限の極におもむくものは、どうなっていくかわからない動きを含む。わたくしは、前者を「雅」、後者を「俗」とよぶことにしている。 (「序説」 本書16頁)

 「雅にくらべて、俗がずっと不安定であ」り、「俗っぽい俗へ頽廃してゆきやすい傾向がつよい」という注釈つき。
 永遠なるものへの憧れを持たない者が俗を俗っぽい俗へと頽廃させる。また雅を先例主義・典拠主義の単なる模倣・些末な小手先藝へと形骸化させる。

 かような雅と俗との性格を、日本における表現の世代に当てはめるならば、古代は俗を、中世は雅を、近代は別種の俗を、それぞれの中心理念とし、大きく三分されるように思うのである。 (「序説」 本書18頁)

 古代とは5世紀ごろから8世紀ごろまで、中世は9世紀ごろから19世紀中ごろまで、近代は19世紀後半以後という定義。なお17世紀から19世紀前半にかけては実質において近代への過渡期で、俗と雅の混合態を中心理念とする時代であり、俗と雅の混合態すなわち俳諧であるというのが筆者の主張である。

(講談社学術文庫版 1993年9月第1刷 2000年6月第12刷)

サマセット・モーム著 中野好夫訳 『月と六ペンス』

2009年12月22日 | 文学
 エミリー・ブロンテは、姉や妹と共同で出した詩集がなんと2部しか売れず、畢生の大作『嵐が丘』も、評価されたのは死後のことだった。
 ゴッホは、生前に売れた絵はたった1枚だけであったという。しかしいまゴッホの才能を疑うものは、ひかえめに言ってもあまりいない(好き嫌いは別)。
 そのゴッホが耳を切り落とすきっかけになった、この小説の主人公ストリックランドのモデルとなったとされる、ゴーギャンもまたそうである。「ポール・セザンヌに『支那の切り絵』と批評されるなど、当時の画家たちからの受けは悪かったが、死後、西洋と西洋絵画に深い問いを投げかける彼の孤高の作品群は、次第に名声と尊敬を獲得するようになる。」(「ウィキペディア」「ポール・ゴーギャン」項)
 (こうしてみると、かつては不遇をかこちながらも、やがて才能が正当に認められた宮崎駿氏などは、まだしも幸福なのだろうと思った。)
 死後の世界があるとして、ブロンテや、ゴッホや、ゴーギャンを生前しかるべく遇さなかった人びとは、いまごろどのような顔(かんばせ)あって、彼らに対しているだろうか。何事もなかったようなふうで挨拶をかわしているか、機嫌をとって取り入っているか、「嫌いだから知らない、興味ない」で逃げるか。
 まあこれは、現世の話でもいいことだが。

(新潮社 1959年5月 1991年8月62刷)